22、激昂
「彼が来るとわかっていたなら、出席などしなかったのにな」
小さな声で苛立ちを述べると、ベルンハルトはアルフォンスと会わないよう、距離を置き、ユーディットもそれに従った。アルフォンスは身重の妻を屋敷に残し、一人夜会に出席したようであった。
「ユーディット。大丈夫かい」
気づかわしげに、ベルンハルトが声をかける。
(そういえばベルンハルトさまはわたしが彼に会いたがっていると誤解なさっていたわ)
違うとユーディットは否定したけれど、彼は信じていないようであった。元婚約者に対してまだ未練があると。そう思い込んでいる。
(そんなのこれっぽっちもないのに)
あるとしたらそれは――
「ミュラー公爵。今日は奥様はご一緒ではなくて?」
いつの間にか、アルフォンスとの距離はずっと近くにまで狭まっており、彼に話しかけるビアンカの姿まで目に入った。
「ええ。無理をさせてはいけませんから」
「ふふ、そうですよね。愛する人の子どもを産む役割を任されているんですもの」
ビアンカの声はやけに大きく、耳についた。ベルンハルトが眉を顰め、舌打ちする。
「ユーディット。行こう」
離れようとする二人を見計らったように、でもとビアンカが続ける。
「色々と心苦しいものがあるのではなくて?」
「心苦しい?」
「ええ。アルフォンス様はとても素敵な方ですもの。あなたが結婚して、さぞ残念に思った女性もたくさんいるでしょうし、すでに子どもまでできていると知って、絶望された令嬢もいるのではなくて?」
ああ、これは間違いなく自分のことを指している。このために、ビアンカはアルフォンスを招待したのだ。傷つけ、恥をかかせるために。
ベルンハルトの引っ張る力はますます強くて、でも人混みもあって、ユーディットの足はもつれそうになる。
「ベルンハルトさま、どうかも少しゆっくり――」
「さぁ、どうでしょう。相手は私のことをそれほど愛してはいなかったのではないでしょうか」
ぴたりと、ユーディットの声が届いたのか、ベルンハルトの足が止まる。そうして、何があっても離すと固く握りしめられていた手が離れた。
「ベルンハルトさま?」
「まぁ、愛していないですって? では傷ついていないと」
「傷ついても、誰か他の者が愛してくれれば、癒せる傷のはずです」
――たいした傷ではありません。
ベルンハルトはユーディットを置き去りにして、今まで必死に逃げようとしていた相手のもとへと向かう。
彼に気づいたビアンカが「まぁ、ブラウワー伯爵!」とわざとらしく声を挙げる。けれど彼女のことなどどうでもよく、ベルンハルトの意識はアルフォンスのみに向けられていた。突然視界に入ってきた男に目を見開くアルフォンス。
「貴様、よくも――」
あっ、と思った時には、ベルンハルトは拳を振り上げ、アルフォンスの頬を殴っていた。勢いのまま、彼は軽食が置かれていたテーブルにぶつかる。美しく盛りつけられた料理は崩れ、銀のカトラリーは音を立てて、床へと落ちてゆく。その光景は、実に一瞬の出来事であった。
「きゃあああ」
ビアンカの甲高い悲鳴で、やや距離の離れた客も何が起こったのかと注目し始める。
「落ち着いて下さい、ブラウワー伯爵!」
「離せ! こいつの顔をあと二、三発ぶん殴ってやらないと気が済まないんだっ!!」
近くにいた男性がベルンハルトを止めようとするが、力で敵わず、床に叩きつけられたアルフォンスの胸倉を掴ませてしまった。ぎらぎらした目つきで、今にも喰い殺さん勢いで睨みつけるベルンハルトは今まで見たこともなく、対するアルフォンスも、彼の剣幕に圧されることなく、毅然した態度で睨み返している。
「アルフォンス・ミュラー。きみは最低のクソ野郎だな」
「貴殿がそれをおっしゃるのか」
吐き捨てるように言い返したアルフォンスを、ベルンハルトは鼻で笑い返す。
「ああ、そうさ。私も最低野郎だ。そしてお前はもっと最低だ」
「ユーディットのことを指摘されて怒ったのか。存外、彼女を愛しているようだ。彼女も私と一緒になるより幸せだったんじゃない――」
「黙れっ!!」
ベルンハルトが今度は反対の頬を殴った。床に打ちつけられ、そのまま馬乗りになると、伯爵はアルフォンスの首を締めようとする。
「ユーディットが幸せだと!? よりにもよってお前がそれを言うのか!?」
お前のせいで――と、本気で殺そうとするベルンハルトの迫力に、ビアンカが再度悲鳴を上げ、今度はずっと多くの人数で伯爵を止めようとする。
「もう、やめて下さい」
それほど大きくもなかったユーディットの声に、伯爵の動きがピタリと止まった。彼が向けた視線から逃れるように人が横に逸れ、悲しげな表情を浮かべていたユーディットが現れる。
「ユーディット……」
「ベルンハルトさま。どうかもう、おやめください」
「しかし、こいつはきみに……」
「ベルンハルトさま」
駆け寄って、ベルンハルトの片腕を両手でそっと握りしめる。
「わたしは大丈夫ですから。どうかもう、帰りましょう」
ね、と優しく微笑めば、涙が一筋、頬を伝った。
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