20、彼の過去
スヴェンのことは名前だけは知っていた。とびっきり綺麗な人がいると女子生徒の間で噂になっていたから。
でも初めて会ったのは、学園に入学したての頃、どんよりとした曇り空、今にも大粒の雨が降ってきそうだとユーディットが慌てて図書館から帰る途中のことである。
耐え切れず、降りだしてきてしまった雨から逃げようともせず、スヴェンはただぼんやりとベンチに腰かけていた。その様子に何だか不安を覚え、自身が濡れることも構わず、彼女は青年へと歩み寄ったのだ。
「大丈夫ですか」
傘を持っていれば差し出しただろうが、生憎彼女は今日晴れだと思っていた。だからどうしようもなく、ただ声をかけることしかできなかった。
「あの……」
スヴェンは宙を見ていた目をユーディットに向け、ゆっくりと微笑んだ。大丈夫とも、放っておいてくれとも言わない彼はますます不気味で、けれどその顔立ちの良さからいっそ神々しさすら感じられ、実にアンバランスな印象をユーディットに与えた。
「その、ここにいては風邪ひきますよ」
彼女は迷った後、彼の手を取った。彼はちょっと驚いたようだったけれど、大人しくユーディットに手を引かれ、屋根の下へと連れて行かれた。もうその時にはお互いびしょ濡れで、意味がないと思いながらも彼女はハンカチでざっと水分を拭い、彼にもよかったらと差し出した。彼は従順に受け取り、興味深そうにユーディットを見つめてくる。
「どうして僕に声をかけたの」
口は利けるのか。ユーディットは内心ほっとし、彼の問にどうしてだろうと自問した。別に知らぬふりをして通り過ぎればよかったのに。
「わからないけれど……なんだかあなたが死んでしまいそうで」
言葉にして、いくら何でも大げさだろうと思った。でも、本当にその通りな気もした。
あの宙を見つめるぼんやりとした瞳。言い知れぬ不安を抱かせた。だから……放っておけなかった。ただそれだけ。
「そう。きみは優しいね」
「それはわからないけれど……声をかけない方が、よかった?」
ううん、と彼は首を振って、疲れたように笑った。
「ちょっと、落ち込んでいたから、ちょうどよかったかもしれない。ありがとう」
彼の笑みがあまりにもきれいで、自分と別れた後に本当に死んでしまうのではないかとユーディットはまた不安に駆られた。
「ねぇ、よかったらわたしに話してくれないかしら」
少しは楽になるだろうから。
そう言ったユーディットを、スヴェンはお人好しだと乾いた声で笑った。
「僕の母さんはね、宝石が大好きなんだ。ちょっと心が弱い人で、きれいなものを見ていると心が落ち着くっていう変わった人でね。でも元気になると周りも嬉しいから、たまにならいいかなって僕も父さんも思ってたんだけど、いつの間にか借金してまで買っていて、それがとても払えない額にまで到達していて、僕も父さんも心底驚いてね、おかげで生活が危うくて、それを知った僕の婚約者が……彼女の両親が娘にも苦労させるんじゃないかって、婚約を解消しちゃったんだ」
スヴェンの身の内を聴いても、ユーディットはかける言葉が思いつかなかった。
「僕はね、ユーディット。母さんにも怒りがわいたけれど、それよりもっと許せないと思ったのは、次から次へと宝石を売りつけてきた商売人だよ。あいつら、家がたいして裕福じゃないのを知っているくせに、母さんの心を利用して、売りつけてきたんだ。どうせ売るなら、うんと金持ちに何倍もの額で売ってやればいいのに」
おかげで僕の父さんは家の物をひっくり返して、売れそうなものを必死で探してる。でも値打ちのある物は、とっくの昔に売っていて、ろくなものは残っていない。宝石は母さんが決して手放そうとしないし、体の弱い姉さんのために、薬代も稼がなきゃならない。宝石を売りつけてきた店は払えないなら方法はいくらでもありますよなんて、姉さんや僕の顔を見て言うんだよ。
「ほんとうに、ひどい世界だと思わないかい」
そう思うわ、とユーディットは言っていいかわからなかった。だって彼女は、彼ほど悲惨な境遇ではない。父親が投資に失敗して、ちょっと危ないけれど、それも婚約者のミュラー公爵が支援してくれてるおかげで、不自由なく生活できているし、アルフォンスともめったに会わないが、誠実な人だということは確証されている。
スヴェンに共感することは、彼を傷つけ、してはいけないことだと思った。
「ユーディット。やっぱり、聞いて後悔しただろう?」
そんなことない。
ユーディットはそう言おうとして、けれど喉の奥が詰まって、雨に濡れて冷たくなってしまったスヴェンの両手をただいつまでも握ることしかできなかった。
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