11、嫌いではない
「――朝日が光り、暗闇はほんの少しの間別れを告げて、ぼくたちはまた混沌へと歩きだす」
ユーディットが目を開けると、なぜかベルンハルトが本の続きを読んでいた。彼は目覚めたユーディットに気づくと、顔を覗き込んできた。
「ユーディット。体調は大丈夫かい」
起き上がって、心配する伯爵の顔をまじまじと見た。
「……ひどい顔」
ユーディットもだけど、ベルンハルトも目の下には薄っすらとクマができており、やつれていた。これではせっかくの見目の良さが台無しである。妻の指摘に、彼は居心地が悪そうに目を逸らした。
「休もうとはしたんだが、なんだか気になって眠れなくて……」
「心配して下さったの?」
ああ、と彼は恐る恐るユーディットの手に触れてきた。
「私に心配されるのは、嫌かもしれないが……」
そんなことはないけれど、ユーディットは黙って伯爵を見つめた。椅子に座る彼の姿は項垂れて、まるで落ち込んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
「本を……」
ベルンハルトの膝の上、開いてあった本を見て言うと、ああと彼も視線を落とした。
「エアハルトに頼まれたんだ。急いで食事をとってくるから、その間代わりに私に読んでいてくれと……」
「まぁ、そうでしたの」
何もそこまで真剣に取り組まなくてよかったのだが、エアハルトの優しさが嬉しくもあった。
「声に出して読むのは眠りの妨げになるのではないかと言っても、読んでいる間、きみが安らかに寝ているから、どうしてもと……」
「それは、ありがとうございます」
いや……とベルンハルトはぎこちなく返して、黙り込んでしまった。いつもの彼らしくなく、どうしたのだろうと思っていると、一点を見ていた彼がユーディットの方へ視線を向けた。
「ユーディット。その……すまなかった」
ああ、そういえば自分は彼の前で泣いてしまったのだとユーディットは今さらながら思い出した。みっともなく泣いて、彼をひどく困らせたことを。
「あの時はわたしも、混乱していましたから」
元婚約者とその妻。そして忘れがたい人との思わぬ再会……ユーディットの心はぐちゃぐちゃで、どうしていいかわからなかった。
「いや……夜会の時だけでなく、結婚してからずっと、私はきみを傷つけてきた」
「……ベルンハルトさまは、父に頼まれて仕方なくわたしを娶ってくれたのでしょう? なら、どんなことをされても仕方がないと、今は理解しています」
いろんなことが重なって、酷いと詰ったけれど、父の借金も、彼がすべて帳消しにしてくれた。困ったことがあったら、できるだけの支援もすると励ましてくれて、父も母も、弟も、誰も苦しまず生活を送ることができている。
ぜんぶ、ベルンハルトのおかげだ。彼が与えてくれた恩は、ユーディットが返さなければならない。
だから、泣いて責めることなど本当はしてはいけなかったのだ。
「いや、そうじゃない」
けれどベルンハルトは違うときっぱり否定した。
「私は別に、あなたと無理矢理結婚させられたとは思っていない。エアハルトのこともあったし、いずれは再婚しなければと考えていた」
「でも……」
「それと、私はきみのことが嫌いではない」
いつものような軽薄さはなく、ひどく真面目な口調でベルンハルトはユーディットに伝えた。おかげで彼女は彼の言葉が一瞬理解できなかった。
「うそ」
「あんなことがあった後に嘘は言わない」
「でもそんなの、」
信じられないわ、と彼女は消え入る声でつぶやいた。
「わたしに酷いこと、たくさん言ったじゃない」
敬語が外れ、つい子どものように反論する。
「それは……そういうものかと」
「そういうものって?」
「だから、ほら、そういうやり取り……大人の駆け引き、戯れというものさ」
ちっともわからない。
「世間の夫婦はそうやって愛するのですか?」
「いや、それは私も知らないが……おそらく、」
なんて曖昧で頼りない返事。彼はユーディットより大人なのだから、もっとはっきり答えて欲しい。
(よくわからないけれど……)
「あなたはわたしのこと、嫌いではないの?」
不安に揺れた瞳でユーディットがじっと見つめれば、ベルンハルトは視線を逸らして頷いた。
「ああ。嫌いじゃないよ」
「どうして目を逸らすの?」
「いや、それはきみが……」
「わたしが?」
さらにじっと見つめれば、彼は勘弁してくれというように片手で顔を覆った。
「じっと見つめるから。照れ臭いんだ」
(そんなこと言われても……)
「だって大事なことですもの」
「普通は言葉にせずともわかるものだよ」
ユーディットはまだ十六だ。そんなものわかるわけがない。
「あなたは、そういう経験、数え切れないほどなさってきているでしょうけれど……わたしにはありませんもの」
「それは……」
言葉に詰まるベルンハルト。別に夫を責めたいわけではない。彼がユーディット以外の女性と愛をいくら確かめようが、ユーディットはそれを咎められる立場ではない。
「けれどせめて、わたしの見ている所ではおやめになって下さい」
もう、傷つきたくない。傷つくにしても、自分の知らない所で、傷を増やして欲しかった。
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