10、看病

 夜会から帰った日、ユーディットは熱を出し、三日三晩うなされ続けた。夢とうつつを繰り返し、朦朧とする意識の中で、このまま死んでしまいたいと思った。


 ――僕はどんなに自分が落ちぶれても、汚れても、生きることは諦めたくない。生きていれば、あの時生き抜いてよかったと思える日がいつか必ず訪れると信じている。


 そんな日は来ない。来るはずがない。


(スヴェンのうそつき……)


 本当は、アルフォンスの謝罪より、ベルンハルトの仕打ちより、スヴェンとのあの短い再会が何よりユーディットを打ちのめした。


 一言だけでも自分の名を呼んでくれれば、きっと救いになった。ほんの少しでも自分に特別な笑みを向けてくれれば、ユーディットはそれまでの理不尽さをすべて許すことができた。


(わかっていたのに……)


 スヴェンはああしなければ、生きていけなかった。何とも思っていない相手に媚を売ることで、自分を助けてくれた。わかっている。でも、あんな彼の姿は見たくなかった。まるで自分を見ているようで、辛かった。


(彼はわたしの恋人でも何でもない)


 それでもユーディットに口づけしてくれた唇が、他の女性に何の躊躇いもなく触れたことが、とても悲しかった。


(どうして……)


 このまま永遠に熱に浮されていたかったけれど、医者の出した薬と使用人の手厚い看病により、ユーディットの熱は引いてしまった。


「母上。気分はどうですか」


 移るといけないからとずっと会えなかったエアハルトが三日ぶりにユーディットの寝室に足を踏み入れた。強張った表情から、彼の不安と心配が伝わってくる。


「心配させて、ごめんなさいね。もう大丈夫よ」

「本当ですか」

「ええ、本当よ」


 じっと見つめる少年は、大人の嘘を確かめるように繊細である。ユーディットは安心させるように微笑んだ。


「……僕に、何かできることはありますか」


 何もないと答えることは簡単だったけれど、お願いすることで彼を安心させられるならとユーディットはそうねと言った。


「それじゃあ、そばで何か本を読んでくれないかしら」

「本、ですか」

「そう。あなたの好きな本でいいわ」


 そうしてできればあなたの声で聴かせて欲しいとねだれば、エアハルトは自分の部屋へ引き返し、だいぶ経った後で数冊の本を抱えて持ってきた。


「どの本がいいですか」

「あなたがよく読むのはどれ?」


 エアハルトは迷った後、これですと本を指差した。じゃあそれを読んでとユーディットは言い、エアハルトは戸惑いを見せつつ、椅子に腰かけて、音読し始めた。


 緊張しているのか、初めの方は声がつっかえ、何度か読み直していた。けれどしだいに、朗々と読み始める。この年にしては、上手な読み方だと思った。


「月がとけて、星が落ちる。涙のようにぼくたちをつつみ、すべてを覆い隠す――」


 ユーディットは目を瞑った。


 子どもの頃、自分もこうして居間で詩を朗読した。暖炉の火が編み物をしている母を優しく照らして、目を閉じて微笑を浮かべる父の姿がすぐそばにあって、生まれたばかりの弟がゆりかごの中ですやすやと眠っていた。


 幸せな思い出は、辛いことがあって初めて呼び起こされる。こんなにも、今を生きることを苦しくさせる。胸を締めつけて、枯れていた涙を流させる。


(あの頃に帰りたい……)


 そう強く思いながら、ユーディットの意識はまた眠りへと落ちていった。


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