9、涙

 ユーディットはひどく疲れてしまった。


(もう、帰ってしまおうかしら……)


 ベルンハルトはどこへ行ってしまったのだろう。自分を探してくれているのだろうか。


「あら、奥様」


 ぼんやり歩いていると、婦人の一人に捕まってしまった。伯爵はどうしたの? と無邪気にたずねる声が、鈍い頭に重くのしかかる。


 どうして誰も彼も人の心に平気で入り込もうとするのだろう。答えなんか求めていないくせに。真摯に受け止めてくれるつもりなんかこれっぽっちもないくせに。


「奥様?」


 感情が空っぽになりそうだった。ぼんやりとするユーディットを訝しげに見つめ、女性の手が伸ばされる。それを彼女は振り払いたかったけれど、その気力も、すでに残っていなかった。


「――失礼、美しい人」


 そんなユーディットを、男性にしては高めの、けれどひどく落ち着いた声が救った。


(ああ……)


 スヴェン、と彼女はもう少しで声に出してしまいそうだった。けれど、彼がちらりと、まるで他人を見るような目で自分のことを見たから、すぐに現実を突きつけられる。


「まぁ、シュナイダー子爵。今夜はあなたも出席なさっていたの?」

「ええ。あなたのような美しい方と出会えると思って」


 そう言って彼は恭しく夫人の手の甲に口づけした。若く美しい男の接吻に相手はうっとりと頬を緩ます。夫人はもうユーディットのような小娘などどうでもよく、スヴェンもそれをよく熟知していた。空いた左手を後ろに組むようにして、ユーディットに今のうちにと押しやった。


 彼女は悲しさに包まれたが、すぐに言われた通り、その場を離れた。


 最後にどうしても彼の姿が見たくて、ちらりと振り返れば、女性の腕はスヴェンの腕に絡みつき、彼の手は、彼女の腰へと添えられていた。甘く、とろけるような微笑は、偽りない愛の言葉を囁いているようで、ユーディットはそれ以上見るのをやめた。


 廊下を出て、ふらふらと歩き続け、なんとなく目の前にあった階段に座り込む。ここにいても、いずれ誰かに見つかってしまう。早く安全な場所へ非難すべきだった。


 でも、そんな場所はどこにもないように思えた。空き部屋にはアルフォンスの愛する人クリスティーナがいる。中庭にはアルフォンス本人が。ホールには、伯爵の愛した人がたくさん。そうしてスヴェンも……


「ユーディット!」


 相手が誰かもよく確かめず、反射的に逃げ出した。しかしあっさりと捕まる。本当に今日はよく腕を掴まれる。強引に振り向かされ、自分がまるで置物のように思えた。


「やっと見つけた。一体どこにいたんだ」


 ――もし、伯爵の態度が焦っていなければ、あるいは少しでも揶揄うような響きがあれば、ユーディットはいつも通り何でもないと答えただろう。


 けれどベルンハルトは、息を切らしていて、心配した眼差しでユーディットを見つめていた。


「っ……」


 言葉にならないたくさんの感情が、涙となってあふれた。ベルンハルトが息を呑む。彼女は泣いたって意味がないと思った。こんなの予想していたことじゃないか。


 でも辛くて、涙がとまらなくて、ユーディットは顔を覆った。


「ユーディット……」


 ベルンハルトは声を殺して泣き続ける妻を呆然と眺めていたが、やがて彼女に近づいて抱き上げた。そうして今夜はもう帰ろうと優しく言った。人目につかないよう裏口から出ると、彼は素早く馬車にユーディットを乗せ、そのまま御者に出すよう命じる。ユーディットはその間、一言も発さず、されるがままだった。


「ユーディット」


 ベルンハルトがあふれる涙を拭ってくれたけれど、間に合わず、ユーディットのドレスにぽたぽたとこぼれ落ちていく。


「……すまなかった」


 初めて聞く、気落ちした声。


「一人にするつもりはなかった。すぐに、戻るつもりだった」


 何も答えないユーディットに、ベルンハルトは諦めず言葉を続ける。


「けれど声をかけられて、急いで戻ったらあなたはいなくて、あちこち探しているうちに……」


 ガタンと馬車が揺れて、ベルンハルトがユーディットを引き寄せる。


「アルフォンスに、何か言われたのかい」


 ユーディットは肩を震わせた。


「……あなたは、ひどい」


 涙で濡れた目で彼を見上げ、もう一度彼女はベルンハルトを罵った。


「わたしのこと、嫌いなら放っておいて下さればいいのに。どうして……」


 彼はアルフォンスが夜会に出席することを知っていた。そしてわざとユーディットを一人にして、アルフォンスの愛した人とひき合わせた。アルフォンスに傷つく言葉を吐かせ、絶望したユーディットを嘲笑うために。


「きらい。あなたもアルフォンスも、だいきらい……」


 感情が昂って、ユーディットの声はひきつった。


「本当にすまなかった、ユーディット。だからもう泣かないでおくれ……」


 滲んだ先に、困ったように眉を下げる伯爵の顔が映った。いつもは自分の思うがままに抱きしめるくせに、今の彼は壊れ物でも扱うようにぎこちない。子どもをあやすように腕や背中を擦るけれど、その手にはためらいがあった。


(きらい。みんなきらいよ……)


 ユーディットはベルンハルトの胸に濡れた頬を押しつけ、彼の忙しなく動く心臓の音をずっと聴いていた。


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