5、過去と現在

 夜遅く、今日はもう帰って来ないかと思われた頃、ベルンハルトは帰宅した。煙草とお酒、それからいろんな香水が混じりあった臭いをさせて。


「エアハルトと、ずいぶん仲良くなったみたいだね」


 タイを緩め、コートを乱雑に脱ぎ捨てると、ソファに腰を下ろしたベルンハルトはユーディットを見上げた。華やかな社交界の空気に当てられてか、気怠そうに見えて、どんな人間でも虜にする妖しさを纏っていた。


「ええ。優しい子ですわ」

「私を置いてけぼりにして、二人だけで仲良くなるね」


 衣服をハンガーにかけようとしたユーディットの手を引き、伯爵は自身の膝に座らせた。向かい合う形で、二人は互いの目を見つめ合う。


(逸らしちゃだめ……)


 伯爵はこちらが逃げれば逃げるほど、追いかける性質だ。従順な態度こそが、この場は正しい。ユーディットは必死にそう言い聞かせながらも、本心では今すぐにでも逃げ出したくてたまらなかった。


「そんなに怯えずとも、取って食いはしないよ」

「怯えてなど、いませんわ……」


 下手な芝居を見抜いて、ベルンハルトは微笑んだ。ユーディットの頬を撫で、ゆっくりと顔を近づけてくる。彼のにおいではなく、他人の、あの悪意に満ちた人々の臭いが肺に押し寄せてきて、彼女は思わず顔を背けた。吐き気がする。


「ユーディット。大丈夫かい」


 はっとして、自分の過ちに真っ青になった。


「ごめんなさい、旦那様。わたし、とても失礼なことを……」

「いや、私の方こそ失礼だったね。先に湯浴みをすべきだった」

「すぐに準備をさせますわ」


 膝から降りようとして、またすぐに腰に手を回される。


「せっかくだ。一緒に入ろうか」

「……わたしはもう、先に入りました」

「たまには二度湯もいいじゃないか」


 だめです、と彼女は首を振った。


「それにお酒をお飲みになった後の湯浴みは危険です。さっと水を浴びるくらいにしておいて下さい」


 いつになく強い口調で言えば、ベルンハルトはわずかに目を瞠った。


「ふむ。そういうことなら従うしかあるまい。きみの言う通りにしよう」


 今日はもう先に寝ていなさい、と言って伯爵は出て行ってしまった。今日は抱かれなくていいのだとわかり、ユーディットはほっと息をつく。


(久しぶりにゆっくり眠れるかもしれない……)


 エアハルトと過ごした時間を思い返しながら、彼女は目を瞑る。戻って来たベルンハルトに、気が変わって起こされるかもしれない。それまでどうか、何も考えずに夢の中にいたい……


 ――誰かに頬を優しく撫でられ、ユーディットはその暖かさに涙が出そうだった。幸福につつまれ、薄っすらと目を開けると、ベルンハルトの端正な顔がすぐ近くにあって、彼女は大きく目を見開いた。


「おはよう。ユーディット。今日は私の方が早起きだね」

「……おはようございます」

「うん。おはよう」


 ベルンハルトはくしゃりと笑った。前髪を下している彼は、いつもより幼く見え、エアハルトに似ていると思った。


「まだ早いから、もう少し寝てていいよ」

「ずっと、起きていらしたの?」


 少しは眠ったさ、と彼は答えた。


「あの後部屋に戻ったら、きみが熟睡していてね。珍しいと思って、ずっと見ていたんだ」

「……そう、ですの」


 どうして自分の顔なんかじっと見ていたのか、ユーディットは混乱したが、深くたずねることはしなかった。


「あの子と遊んで疲れたのかな?」


 あの子、というどこか他人行儀な言い方で伯爵は自身の息子を呼んだ。


「いいえ、わたしはじっと隣で座っているだけでしたから」

「あの子は何していたの?」

「本を読んでいましたわ」


 ふーんとどうでもよさそうに彼は相槌を打った。以前から薄々感じていたことだが、彼とエアハルトの距離間は、ユーディットの知る親子よりも遠いものであった。決して冷たくあたっているわけではないが、必要以上に構うことは決してない。


「ベルンハルト様は、普段エアハルトと何をして遊びますの?」

「私? 私はあの子と遊ばないよ」


 え、と思う。


「でも、一度くらいはおありでしょう?」

「いや、おそらくないよ。抱き上げたことはあるけどね」


 それくらいは当然ではないかと困惑するユーディットに、貴族の親なんて、みんなそんなものさと彼は答えた。


「きみのご両親は、きみと遊んでくれたことがあるのかい?」

「わたしは……そうですね。よく考えたらそんなに……でも、詩の朗読をよく聞いてくれたりしましたわ」


 野原を一緒に駆けまわったり、人形で遊ぶのは、同年代の子どもたちか、乳母の役目だった。ベルンハルトの態度も貴族の親としては普通なのかもしれない。


「アルフォンスとも遊んだのかい」

「いいえ。アルフォンス様とはほとんど……たまに会っても、何を話せばいいのかわかりませんでした」


 婚約者だから仕方なく、といった感じで話を振ってくれていた気がする。それも人の目がある時だけで、二人きりになると、彼は本を読んだり、ユーディットにも好きなことをしていいと、――悪く言えば相手にすることを放棄していた。


「ふーん。幼馴染と聞いていたけれど、そんなものかな」

「そんなものですわ」


 そう答えながらも、ユーディットは内心どうなんだろうと思った。自分たちが、特別だったのかもしれない。


 思えばユーディットは、いつもアルフォンスに対して気後れしていた。何でもできるアルフォンスを前にして、幼稚な発言は、ユーディットを劣った存在だと彼に認識させる気がして、結果何も話せず、大人しい子どもの振りをしていた。


 さぞつまらない存在だったろう。彼が別の女性を好きになっても、当然のような気がした。


「アルフォンスのことを考えているのかい?」


 頬を撫でられ、ユーディットはいいえと答えた。元婚約者のことをいつまでも考えていると相手に伝えるのは、失礼である。逆の立場なら、ユーディットは聞きたくない。


(伯爵は、違うみたいだけど)


 ふうんと相変わらずどうでもよさそうな返事をしながら、伯爵の目はユーディットを探っていた。どうしてこんなにも気になさるんだろうと不思議に思いながら、彼女は夫の口づけを受け入れた。


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