2、伯爵

「ユーディット嬢。ようこそ我が家へ」


 卒業を迎えることもなく学校を辞めさせられ、ベルンハルト・ブラウワーのもとへ嫁いだユーディットは、今年十歳になる伯爵の息子を紹介された。


「エアハルトだ」

 

 父親譲りの黒い髪に青い目が特徴の利発そうな少年は、じっとユーディットを観察していた。


「初めまして、エアハルト様」


 緊張して声が震えるユーディットに、もっと肩の力を抜きなさいと伯爵は言った。


「それからエアハルトと、もっと気楽に呼んで構わないよ。きみは今日からこの子の母親になり、私たちは家族になるのだからね。エアハルトも、彼女のことは母上と呼びなさい」

「はい、父上」


 子どもとは思えぬ淡々とした口調に、ユーディットは少年の拒絶を感じ取った。けれど、自分にはどうすることもできない。


「きみのような子が私の奥さんになってくれてとても嬉しいよ」


 伯爵は馴れ馴れしくユーディットの肩を抱き寄せ、耳元で囁いた。


 この家の主はベルンハルトであり、ユーディットとエアハルトは彼に従う立場でしかなかった。


「さ。立ち話もなんだから中へ入って食事をしようじゃないか」


(これから、どうなるんだろう……)


 今日からここで生きていかなければならないと思っても、ちっともユーディットには実感がわかなかった。


 伯爵は気さくな人柄だ。すらりとした容姿は無駄がなく、実年齢よりずっと若く見える。


 ――お前のことを、うんと可愛がって下さるはずだよ。だから……


 父の言葉を思い出し、ユーディットは薄く笑った。

 

 夕食が終わり、一度ユーディットはベルンハルトと別れた。またすぐに彼と顔を合わせることになるが、その前に彼女は身支度を済ませなければならない。


(結婚式も何もかも、あっという間だったわ)


 式は身内だけのひっそりとしたものであったが、花嫁衣装を着せてもらえただけでも伯爵に感謝すべきなのかもしれない。


 ユーディットがそう思っていると、寝室の扉が開かれた。男の姿に、彼女は今までの曖昧な意識から覚醒し、今すぐ逃げなきゃ、と思った。けれど思うだけで、身体はピクリとも動かない。


「今日のきみはとてもきれいだったよ、ユーディット」


 湯浴みしたユーディットの隣に腰掛け、伯爵は彼女の白い肌を撫でた。薄いネグリジェは、ユーディットの胸元や細い腰のラインをいやらしく浮かび上がらせていた。それを彼女は、不潔だと思った。


「ベルンハルト様も、すてきでしたわ」


 そうかな? と彼は慣れた手つきでユーディットを押し倒し、唇を奪った。近距離で覗き込んでくる瞳に、思わずぎゅっと目をつむる。


「怖いかい?」


 いいえ、と掠れた声で答えれば彼はちょっと笑い、大丈夫さと額に口づけした。


「ぜんぶ、私に身を任せればいい」


 ユーディットは、言われた通りにした。そうすることしかできなかった。


 ――ああ、スヴェン。


 心のどこかで、伯爵は自分を抱かないのではないかと期待していた。


 でも、そんなことなかった。彼はたくさんの女性と浮名を流し、恋をしてきた。彼にとって女性の心を得ることは一種のゲームであり、勝ち負けだった。ユーディットだけ見逃してくれる道理はない。


 逃げることは許されない。ならばさっさと負けを認めてしまった方がいい。つまらない相手だと思わせて、相手が次の獲物を見つけてくれるよう振る舞うだけ。


 それが、今のユーディットにできる精一杯のことであった。


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