諦めて、もがき続ける。
真白燈
1、諦め
どうしよう、とユーディットは途方に暮れていた。
彼女には婚約者がいる。アルフォンス・ミュラー。六つ年上で、王太子の側近として働いている。ユーディットとは家同士の繋がりを強固にするための、いわゆる政略結婚であった。
昔から――そして今も、近寄りがたい雰囲気を常に身に纏っており、真面目な性格で他人にも自分にも厳しい人だった。
そんな彼がまさか他の女性と想いを重ね、子どもまでつくるなんて……とユーディットは未だ信じられない。
けれど彼ははっきりと、こんなことになってしまったからには一緒にはなれない。別れよう、とユーディットに告げた。言葉を失うユーディットを置き去りにしたまま、慰謝料は払うと義務的に答え、彼は婚約を一方的に解消した。
それから、ユーディットの時は止まっている。
日をおいた今でも、怒りよりも困惑が勝っている。と同時に諦めも。
両親は娘を慰めるよりも、公爵家との縁が断ち切られてしまったことに危機感を抱き、頭を悩ませていた。数年前、父が多額の額を投資した会社が潰れ、その借金が家計を逼迫し、没落寸前といった状況であったから。
早急に次の婚約者、我が家を救ってくれる金持ちを見つけねばならない。ユーディットの心は焦り、けれども夢を見ている心地で毎日を過ごしていた。
「久しぶりだね、ユーディット」
「……まぁ、スヴェン」
顔を上げ、目の前にいた青年の姿にユーディットは沈んでいた気持ちがいくらか浮上した。今の自分に何の躊躇いもなく声をかけることができるのは彼くらいだろう。
「大変だったみたいだね」
他人事、なのだけどまるで天気の話でもするような口調に思わず苦笑いしてしまう。
「遠い昔の出来事じゃないのよ? 今もまだ大変なの」
「ああ、ごめん。新しい婚約者を探してるんだよね」
「ええ。でもおそらく、伯爵のもとへ嫁ぐと思うわ」
ベルンハルト・ブラウワー伯爵はユーディットより二十歳、年上の男性だ。結婚もしていたが若くして妻に先立たれ、それからずっと幾人もの女性と浮名を流していた。彼にはたしか一人息子がいたはずだから、ユーディットは子持ちの母親ということになるわけだ。
「それは伯爵からのご要望?」
「……どうかしら。父が向こうの家へ何度か出向いて、いろいろ話をして、それでこの前舞踏会で伯爵から声をかけてきたの。きみさえよければ、私の奥さんになって欲しいと。子どもも、きみのような若い母親を望んでいるでしょうからって……」
相手の妊娠がきっかけでアルフォンスと別れ、母親を亡くした子どもを理由に結婚を望まれる。つくづく、子どもに縁がありそうだ。
「子どもの世話を任せるつもりで、自分の老後を看取らせる魂胆かな」
気持ち悪いね、と彼は足元の葉を踏みながら言った。ユーディットは父と同じ年齢の人間を紹介されるよりずっといいのよと心の中で答えた。
「それできみは結婚するの?」
「それしか、ないでしょう」
「家族のために自分の人生を犠牲にするわけだ」
「幻滅したでしょう?」
いいや、と彼はユーディットの方を振り向いた。陽の光な照らされた彼はとても眩しくて、けれどいつもどこか陰があった。
「きみの気持ちはよくわかるよ」
「……どうして今日わたしに会いに来たの?」
「もしかするときみが死ぬんじゃないかと思って」
たしかに婚約者に振られて、二十も上の男のもとへ嫁ぐ経緯は悲劇じみたものがある。でも、
「死ぬ勇気はわたしにはないわ」
「うん。だからほっとした」
少し彼に意地悪したくなり、ユーディットは恨みがましく言った。
「あなたが代わりにわたしと結婚してくれるなら、もっと安心するわ」
スヴェンは沈黙して、やがてそれは無理だよと力なく笑った。
「僕の家だって誰かの施しを貰わないとやっていけない状況なんだ。きみだって、僕の婚約者が僕を捨てたこと、覚えてるだろう?」
「……彼女はあなたのこと、愛していたわ」
許さなかったのは彼女の両親だ。
「知ってる。だから、しょうがないことなんだ」
彼はとっくに諦めているから、そんなに明るく答えられるのだとユーディットは気づいた。
「あのね、ユーディット。僕を美しいと言って、可愛がってくれる奥方がたくさんいるんだ。施しもたくさん……だから学校にもこうして通わせてもらってる。母さんの拵えた借金も、その人たちが口を利いて期限を延ばしてもらえたんだ」
「……あなたはそれでいいの?」
ユーディットがそうたずねると、彼はうんと目を合わせないで答えた。
「身体の弱い姉さんにはこんなこととてもさせられないけど、僕は男だし、なんとかなると思ってる」
彼も、自分もひどくちっぽけな存在で、翻弄されるしかない運命にただ悲しくなった。
「どうしてこんなことになってしまったのかしら……」
「そうだね……でもね、ユーディット」
スヴェンは立ち上がり、ユーディットの前にしゃがみこむ。そうして彼女の手を取り、真っ直ぐとその目を見つめた。
「僕はどんなに自分が落ちぶれても、汚れても、生きることは諦めたくない。生きていれば、あの時生き抜いてよかったと思える日がいつか必ず訪れると信じている」
だからきみも生きるんだ。辛くても、死にたいと思う目に遭っても。
ユーディットはこれが慰めではなく、彼なりの激励なのだと気づいた。
「……ありがとう。スヴェン」
彼は微笑み、いいえと首を振った。
「一つだけ、お願いがあるの」
「僕にできること?」
「ええ」
あなたにしかできないこと。
「口づけして欲しいの」
身体は別の人に捧げなければならないから。たがらせめて……
「いいよ」
スヴェンのかさついた掌がユーディットの頬を包み込む。彼女は目を閉じた。幸せだった。
「好きだよ、ユーディット……」
スヴェンの声は泣いていて、ユーディットは彼を慰めるように強く抱きしめた。
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