(九)
二人が、目指していた町に向けて山を降りてきたのは、あばら屋を出て三日目の夕刻であった。あいにくの雨模様で、濡れた体に寒風が吹きつける。暖を取るためにも、宿に泊まりたいところであったが、そのように不用心な動きはできなかった。
善四郎を逃がす算段をつけるため、まずは快尚が一人で町に入る。善四郎は降り続く雨に打たれながら、林にあった大きな銀杏の下で待つこととなった。
「一刻で戻る。それまで、決して動くでないぞ」
快尚は善四郎に念を押すと、周りに誰もいないことを確かめてから林道に飛び出し、早足で山を下っていった。
町に着いた快尚は、宿を探す旅の僧侶を装いつつ、さりげなく番所の門前を通った。所内は至って平穏で、特別な注意が払われている様子もない。
だが、舟着き場まで赴いて、快尚の背筋は凍った。そこにはほかでもない、善四郎の人相書が掲げてあったのだ。あまりつぶさに見ていると怪しまれかねないので、素通りしながら流し目で読んだところ、背丈に齢、着物の色、髪型などの特徴が並んでいた。
尊王攘夷を唱える不逞浪士という触れ込みで、国脱けの罪を犯そうとしていることや、刀傷を負っていることまで書いてある。加えて最後に、「力添えする者あり」とも記されていた。
「これは、考えていたよりも難儀だ」
快尚は早々に立ち去ると、商家の軒下に干してあった笠を一つ拝借し、善四郎が潜んでいる巨木まで戻った。
「善四郎、舟着き場にはすでに、お主の人相書が掲げられていた。その身なりで町をうろついておれば、たちどころに見つかってしまうだろう」
「そうですか……ここまでのようですね」
「そのように容易く諦めるな。いいか、よく聞け。今から、お主は私だ」
「どういうことです?」
快尚は、善四郎に笠を差し出しながら策を伝えた。
「私とお主で、衣を取り換えるのだ。幸い、私たちの身丈はさほど変わらぬ。互いの服を着ても、怪しまれることはあるまい。難点があるとすれば、お主には髪を短く切り、大小を手放してもらわねばならぬということだ」
「私が、快尚様になりすますのですか」
「そうだ。国脱けをしようという志士が、まさか坊主の姿とは誰も思うまい。笠を被れば、一目では齢も分からぬ」
「このような仕儀となったからには、髪を切ることについては仕方ありません。大小も、元は捕り手のものですので、お渡しします。それより、この策では御身が――」
「私は、お主が無事に舟へと乗り込むのを見届けた後、その足で寺に戻る。なに、見つからねば良い話だ。万が一のことがあっても、山の中に逃げ込んでしまえば、追手はついてこられないだろう」
「そう上手くいくでしょうか」
善四郎は不安げな声を出したが、快尚は平静な面持ちで言った。
「心配無用だ。お主は、何があっても堂々としておれ。ただ、なるべく喋らぬようにな。声を聞かれると、齢が若いことは割れてしまう」
日が沈む前に、快尚は脇差で善四郎の総髪を切り落とし、できる限り短く整えた。互いの衣服を取り換え、善四郎は金剛杖、快尚は大小の刀を持つ。これで善四郎は、修行中の仏僧にしか見えなくなった。
朝から降り続いていた雨は、夜の帳が下りるとともに止んだ。ずぶ濡れのまま茂みの中に座っているしかなく、凍える思いであった二人にとっては、それだけでも仏の慈悲のように感じられた。
快尚が翌日の動きを繰り返し思い描いていると、善四郎のいびきが聞こえてきた。まだ夜は更けていないが、これまでの疲れが一気に出たのだろう。
「私も、少し休んだ方が良さそうだな」
快尚は銀杏の木に背中を預けると、刀を抱えたまま眠りに就いた。
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