(七)
それから数刻の間、快尚は善四郎と獣道を歩き続けた。善四郎は手負いながら、快尚と同じ歩調で付いてきた。血こそすでに止まっているとはいえ、動かしたり、力を入れたりすると腕はかなり痛むはずだが、弱音一つ吐くことはなかった。この早さであれば、北の町まで三日ほどで着けるだろう。
あばら屋を発って二日目の昼、渓谷の水辺で干し飯と山菜を食べながら、善四郎がふと聞いてきた。
「快尚様は、なぜ士分を捨ててしまわれたのですか」
快尚は少し思案して、つぶやくように答えた。
「浮世に愛想が尽きたからかな」
善四郎は、快尚の心中を推し量りかねてか、続きの言葉を待っている。快尚は再び口を開いた。
「私は、自分が世を変えられると過信していた。だが、それは誤りだったのだ」
「どうして、そのように思われたのですか。草莽の民が決起すれば、大事は成せる。長州の吉田松陰という偉い方が、そのように言っていたそうです」
吉田という男の名は、快尚も聞いたことがあった。なんでも、黒船に乗ってメリケンへと渡ろうとした、とんでもない人物だという。最後は、老中を殺める謀を企てたかどで公儀に捕らえられ、首を刎ねられたそうだ。
「数年前、その吉田という者を死に追いやった公儀の大老が、浪士たちに討たれた。しかし、それほどの大事が起きようと、世は変わっておらぬではないか」
「確かに、依然として世は乱れております。それでも、心ある者たちが各々の本分を全うすれば、世直しの大きな力となるはずです」
熱っぽく語る志士の姿を見て、快尚は少しばかり昔の自分を思い出した。
「善四郎、若き善四郎よ。私とて、初めはそのように考えていたのだ。自身のできることをせねばとの思いから、仕えていた殿に意見もした。だが、その果てにどうなった? 私は国を追われ、親も友も失った」
「それで、前科者、というわけですか」
「まあ、そういうことだ。私は、望みを抱くだけ無駄だと悟った。そして、辛うじて残っていた身代も、全て捨てることにしたのだ」
ここまで話すことはなかったかもしれない。それでも快尚は、何ともなしに善四郎には語っておきたいと感じた。
「快尚様が志士であったとは、驚きです。それも、ただの志士ではない。私などよりよほど学があり、武芸にも長けている方とお見受けします」
「それは、年の功であろう。おそらく、お主の倍以上は生きているからな」
「とにもかくにも、そのお力を国事のために振るわれないとは、いかにも惜しい」
昔語りをすれば、善四郎が興味を持つであろうことは分かっていた。ただ、この若者には申し訳ないが、快尚が話をしたのは、善四郎ではなく、快尚自身のためであった。それも、語った内容ではなく、語るという行い自体に意味があったのだ。その相手が善四郎であったのは、奇縁としか言いようがなかった。
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