(二)
どれほどの刻が流れただろうか。快尚の周りに、現世が戻ってきた。
風に吹かれた木々の喧騒に紛れ、何者かが茂みをかき分けてこちらへと近づいてくる音がする。その者は、あばら屋の前で一旦立ち止まると、恐る恐る中へと入ってきた。
快尚の気配を察し、安堵したような声を上げる。
「ああ、
月光を背負っているため、顔はよく見えないが、息をするのに肩を大きく揺らしている様子から、ここまで休みなく進んできたことがうかがえた。声色からして、若い男だろう。
「いや、違うが」
快尚がそう返した途端、男はハッと息を呑み、素早く後ずさりしながら刀の柄に手をかけた。
「お主、何者だ!」
「私は大延山久円寺の仏僧で、快尚と申す。毎日、このあたりの山々を巡り、修行をしておる」
快尚は、ひとまず男を落ち着かせようと、ゆったりとした調子で答えた。
「ぶ、ぶっそう? 坊主ということか」
「いかにも。今夜はここで眠ろうと考え、その前に坐禅を組んでいた次第。この通り丸腰ゆえ、刀から手を離してはくれぬか」
快尚は、男から自身の顔と姿がよく見えるよう、あばら屋に差し込む月明かりの下へとにじり寄った。
ただ、それでも男は、快尚への疑いを解かなかった。
「偽りを申すな! この小屋で寝泊まりする坊主がおるなどという知らせは受けておらぬ」
「それはそうであろう。私がここで休むのは初めてのことだ。今回の修行は少々遠出となったゆえ、このあばら屋を一晩の宿にしようと考えたまで。決して怪しい者ではない」
厄介なことに巻き込まれたものだ。修行の最中というのに、曲がりなりにも屋根のあるところで安眠しようと横着を考えたため、罰が当たったのかもしれない。
「自ら怪しくないなどと申すあたり、怪しいことこの上ない! このような時分に、人里離れた場所におるというのは、やはりおかしい」
「それは、お互い様であろう。お主こそ、ここで何をしておるのだ」
「いや、俺は……」
言葉を詰まらせた男の明らかな慌てぶりを見て、快尚は微笑を禁じえなかった。
この若者は、おおかた国脱けをしようというのだろう。快尚が起居している山奥の寺でも、行脚より戻った僧侶から世情を伝え聞くことはできた。それによると、ここのところ自らを攘夷の志士と称し、国を脱ける者が増えているという話であった。
夜更けに、わざわざ山に分け入って道なき道を進むのは、十中八九、何らかの事情で逃亡を図っている者と決まっている。この男の齢や旅の装いからして、国脱けと考えるのが穏当であった。それならば、不自然なまでに用心するのも無理はない。
国脱けは武士が主君を裏切る行いであり、大罪だ。捕えられれば、死罪となることもある。そればかりか、手助けした者はもちろん、親類縁者にまで罪は及ぶ。したがって、この男が相当な覚悟で故郷を飛び出し、夜通し走り続けてきたことは想像に難くなかった。
「お主、名は何と申す」
「善四郎……」
もはや、若者に当初の気迫はない。快尚は、早とちりで斬られてはかなわないと思っていたが、もう身構えずとも良さそうであった。
「善四郎とやら、国脱けならば、やめておけ。命を落とすことになるぞ」
二の句を継げずにいる善四郎に対して、快尚は続けた。
「お主が国を脱けようが、私の知ったことではない。だが、ここで出会ったのも何かの縁と思い、忠告しておるのだ。たとえ無事に国を脱けられたとて、お尋ね者のまま生き延びていくのは至難だからな」
「命は、端から懸けておる」
ようやく声を絞り出した善四郎に、快尚は生きるか死ぬかという話には似つかわしくないような気楽さで返した。
「そう死に急ぐことはなかろう。今からでも引き返せば、出奔とは分かるまい。元々、誰にも悟られぬように出立したのであろうし、仮に身内が気付いたとて、国脱けのことは隠さねばならぬ。何事もなく、これまでの暮らしに戻れるぞ」
「馬鹿を申せ。命は賭しているが、死ぬと決まったわけではない。それに、仲間の志士とここで落ち合う手筈となっておるのだ。その者が、俺を手引きしてくれる」
快尚は、善四郎があばら屋に入ってきた際、誰かの名を呼んだことを思い起こした。
「なるほど。では、その者には私から事情を話しておこう」
「そのような論ではない。危うい橋を渡って国脱けのお膳立てをしてもらいながら、己の都合で逃げ出すなど、武士の風上にも置けぬではないか。皆から、臆病者の誹りを受けることになる」
「人からの誹りなど、命に比べればどうということはあるまい、と私は思うが、武士という生き物は、そういうわけにはいかぬか」
快尚はあくびを一つすると、月明かりの下、善四郎に背を向けてごろりと横になった。
「明日には寺に戻らねばならぬので、私は寝るぞ。連れが来たら、勝手に行くのだな」
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