国脱け
才谷祐文
(一)
思いのほか早く、日が傾いてきた。桜の季節は近づきつつあったが、まだ夜は冷えることがある。
「我ながら、慣れたものよ」
急峻な崖を難なく下って沢で水を飲み、一休みとばかり砂利の上に寝転がった快尚は、ふとつぶやいた。その声には、人の世に対する執着を捨て去ったかのような響きがあった。
国許を追われて、もう二十年になる。武士の身分を捨てて出家したのは、罪を償おうなどという殊勝な心がけからではなかった。言わば、
今でも、殿に宛てた進言書の中で、公儀の政に意見したことが間違っていたとは思わない。無論、若さの致すところで、分不相応な行いであったが、物事の道理はわきまえていたつもりだ。日ノ本の行く末を案ずるこの思いは、必ずや殿のもとに届くはず。そう信じていた。
だからこそ、自身に下された処分を聞いて、快尚は愕然とした。国許からの追放――まさか、それほどの重い刑が課されるとは思っていなかった。
確かに、あの頃は間が悪かった。上方では大塩某という男が公儀に反旗を翻し、続いて、国を開くべきだと唱えた蘭学者たちが次々に裁かれるなど、御上が不穏な動きに目を光らせていた時期であった。殿が、要らぬ波風を立てたくないと考えたのも解せる。
ただ快尚は、追放の処分は一時のことで、時勢が変われば再び国許に呼び戻されるものと望みを抱いていた。力がある者を齢や身分にとらわれず重用し、英邁との呼び声も高い我が主君であれば、あの進言書を差し出した自分のことを必ずや買ってくれていると自負していたのである。
それが心得違いであったと快尚が気付くまでに、そう長くはかからなかった。追放の沙汰が下るや、にべもなく親子の縁を切られた快尚は、せめて国許の様子だけでも知ろうと、親しかった者に向けて文を送ったが、誰からも返事が来ることはなかった。まるで皆が示し合わせて、快尚という人間をもとよりいなかったことにし、自分たちとのつながりを包み隠そうとしているかのようであった。
罪人との交わりが明るみに出れば、どのような累が及ぶか知れない。そう考えるのは分かる。しかし、困難なときにこそ力を尽くすのが親兄弟や友ではないのか。このような仕儀となったのも、全て自身の不徳ゆえと思うと、快尚は己の非力と不甲斐なさに腹が立って仕方なかった。
あるいは、裏で糸を引く者がいたのかもしれない。快尚の文が途中で破り捨てられ、故郷の人々との関わりが絶たれていたということもあり得た。ただ、今となっては、真のことは分からない。
いずれにせよ、公儀に手向かう者の末路は初めから定まっていたのだ。所詮はこの命など、風にあおられ、なすがままに宙を踊らされる木の葉に等しい。力を持つ者が軽く咳をしただけで、吹き飛んでしまうような儚いものなのである。
快尚は、そのようなことがまかり通る現世に絶望した。たとえ声を上げたとて変わらぬのならば、いっそ自ら世を捨てよう。望みを持つほど、それを失ったときの悲しみは深くなる。しからば、煩悩を滅却すれば、心の痛みを感ずることはなくなるはずだ。士分など捨てて仏門に入り、解脱への旅路につこう。
こうして快尚は、刀を金剛杖に持ち替えた。あのとき、森下実臣という武士は死んだのだ。
それからは、自分自身との戦いであった。大延山の久円寺に入った快尚は、命を顧みず、ひたすら山での荒行に打ち込んだ。
激流の中で足を滑らせて転び、岩に頭をぶつけて、気を失ったまま溺れかけたこともあった。またあるときは毒虫に刺され、左目の周りを殴られたように青く腫らして寺まで戻り、驚かれた。
翻って今は、齢こそ五十を迎えようというところだが、むしろ若い頃よりも体が強くなっている。加えて、山々を駆け回る中で、岩や草木の声が聴こえるようになった。不思議なことに、山道を行く際、「その幹を掴め」、「その岩に乗れ」と周りから教えられているような心持ちがするのだ。
自然と一体になって地に溶け込んでいる快尚の目に、薄紅の雲が映る。両側にそそり立つ岩壁の間から見える空の色は、徐々に濃さを増し、紫を帯びつつあった。
「いかん、少々物思いにふけり過ぎた」
快尚は跳ね起きて、腹に抱えていた笠を被ると、せり出した岩に手足をかけて崖を登り、再び木々の中へと分け入った。
間もなく日は落ちたが、それに取って代わるように顔を出した月が、快尚の足元を照らした。まだ真ん丸とはいかないが、かなり満ちていたので、明かりとしては十分であった。
快尚があばら屋に着くと、はがれ落ちた壁の隙間から、中まで月の光が差し込んでいた。その明かりが届かない部屋の片隅で坐禅を組み、目を閉じる。雑念を消し去り、ただ無の境地を目指す。
まぶたの奥で、先ほど見た薄紅色の雲が流れていく。しかし空は、うつつとは裏腹に、透き通るように青く澄み渡り、最後には色さえも失っていった。
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