第2章 Trance- トランス⑨
自分の家に帰ってきたら普通そうするように、挨拶をして靴を脱ごうとしたとき・・・
「きゃあああああ」
台所から現れた久美子が悲鳴を上げた。相変わらず声がでかい。何だ?
「あなた、誰です?」
「誰って・・・俺、純だけど・・・」
怪訝に思ってそう言いかけ、すぐに背筋がひやりとする。何だろう、このすごく嫌な感じ・・・。
久美子は呆然と立っている。
「・・・・・・・ひょっとして・・・、久美子さんに『純』と言う名前の息子はいませんか?」
恐る恐る変な言葉遣いで聞いてみる。まさか・・・。え・・・?
この世界に、男の「ジュン」は存在しないのか?
「ええ、私には娘しかいません。息子はおりません。」
久美子も変な言葉遣いで答えた。・・・・そんなばかなことって・・・・・・。
久美子はしばらく思案してから、すごいことを思いついたかのように答えた。
「わかったわ。あなた、あれでしょ!息子を語るオレオレ詐欺!残念でした。家の純は男みたいな名前だけど女の子なんですよ。」
お母さん・・・・バカですか・・・・。それは普通は電話でやるんだよ!別人の顔を見せる詐欺がどこにいるんだよ!相変わらず天然だよ、この人は。
いや、そんなことより。もっと重大なことが・・・・
「・・・娘さんは・・・、ジュンは家に帰ってますか?」
「いいえ。朝自転車で飛び出したきり帰ってきてませんけど。そのうち帰ってくるんじゃないかしら。いいから、あなた帰ってくれます?・・・・警察呼びますよ。」
「あの、信じないかもしれないけどあんたの子供のジュンは俺で・・・!」
ガチャン・・・。
言い終わる前に、自分の母親は迷惑そうにドアを閉めた。
・・・なんで?どうして?
この世界に男のジュンはいなくて・・・・、女の子のジュンも、もはやいない。じゃあ自分はいったい誰・・・・・?
この事態になってから、初めて本気で恐怖を感じた。久美子は、今の自分より頭一つ分も小さかった。
自分を生んで、育ててくれた、久美子という女性。自分の親なのに「久美子」と名前で呼ぶ。これも、自分じゃない自分が現れてからの一つの変化だった。ジュンの中に突然現れた新しい自分にしたら、ジュンの母親は母親であり母親ではなかったのかもしれない。
あるいは、一日のうちに男になったり女になったり、異性を愛したり同性を愛したりしているうちに、「性」というものに対しての考えが全く変わってしまったのも一つの原因ではある。「性」という概念がなくなってしまったら、「親子」は成立しなくなる。そしてそれは自分自身の「生」を否定することにもなる。限りなく怖い話だ。でも、・・・・・現に「もともといたジュン」の母は久美子だとして、後から現れた自分の母はいったい誰?母親がいない人間なんて、存在しえないんだぞ・・・・・。
人には言えなかった。そんなこと。「母」の存在は、佐知の存在と同じくらい自分を混乱させた。
分かってもらえないかもしれないけど、「親子」としてではなくて、一人の人間として「久美子」という女性と向き合いたかったのかもしれない。
わけも分からず、また自転車に乗り、来た道を引き返す。どこに行くのかは分からない。でも自分にはもう帰る家がない。
あっという間に、また駅に戻ってきた。駐輪場に自転車を停めて、切符を買い、改札をくぐる。駅員が不思議そうな顔をして見ている。そりゃあ、そうだろう。
なんでだか、理由はよく分からないが、自分はまた××市へ行く電車に乗った。来た道をそっくり引き返している。頭が混乱していて自分の行動がよく分からないが、とにかくこの街にいるのは嫌だった。
ちょうど電車が来て、空いている車内に座ると、自分が酷く汗をかいていることに気がついた。はぁはぁと息を切らす。これからどうしよう?スマホを探そうと鞄の中をがさごそやる。
・・・・
・・・・・・・
・・・・・・・・・・!
「・・・・・・・スマホがねぇ・・・・。」
酷く、動揺した。スマホがない・・・。それはこの物語の二つ目の悲劇のような気がした。
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