第2章 Trance- トランス②

 さぁ、出かけるか。家にいても久美子がうるさいから図書館で仕事をしよう。仕事道具をおしゃれなバックに入れ、身体は女、中身は男の奇妙な自分は家を出た。


 自転車に乗って、慣れた道をさーっと走る。春の風が気持ちがいい。

 図書館に着くと、自分はいつもの席にと急ぐ。窓側の個人用机の、一番奥の席。その席に座ると、ちょうど大きな柱と本棚の陰になって、自分からは他の場所が全く見えないし、図書館にいる他の人からも自分の姿が見えない。その席自体に気づいていないのか、どんなに図書館が込んでいる日でも、必ず空いている。二年前に見つけた特等席だ。

 飲食禁止と書いてあってもコーヒーが飲めて、誰にも邪魔されずに小説が書ける。それに、レースのスカートをはいた女の子が椅子の上で膝を立てて座っても人目を惹かないのはこの席だけだった。よく考えれば、自転車に乗っている時点ですでに痛いのだけれど。

 外見と中身があっていないってたまに困る・・・・・。気取ってジュンに化粧をさせてスカートを穿かせても、中身の自分が男らしく歩いているのだから・・・・・。朝は女の子だったのに途中で気分が変わるというのも良くあることだ。


 とりあえず、席に着くと、ぼろぼろになったノートを広げて書き始めた。何作目かの自作小説。数十ページに及んでいる。

 いつから書き始めたのか分からない。なぜ書き始めたのか分からない。気がついたら書いていた。頭の中で・・・・。

 自分が見たもの、聞いたもの、感じたことはいったん自分の頭を通すと必ず小説になった。なぜかは分からない。今生きているこの瞬間も、ノートに書いているものとは別に頭の中には新たな物語が作られていく。

 書かなければ、吐き出さなければ頭が重くなって生きていけない。だから、書く。

 不思議なことに、自分にとって、嫌なことや辛い体験ほど良い小説になる。楽しく生きているときはあまり小説を書かない。小説を書かないとつまらない。だから書く・・・。書くためには・・・・・、自分を追い詰めていく。

 辛いことを辛いと感じている自分のほかに、それを遠くから眺めて小説にして喜んでいる自分がいる。あるいはどんなに平和に日常が流れていても、何かつまらないと思っている自分もいる。

 人はなぜか哀しい話が好きだ。だから小説家にとっては、悲劇は喜劇であり、喜劇は悲劇であると自分は思う。

 「人生を小説にしてはいけない。ドラマのような展開の人生なんてあなたを不幸にするだけ――。」

 どこかで、そんな言葉を聴いた。書いたことのある人間にはよく意味が分かる。自分が人生を演じ始めてしまったらもうおしまい。次々と面白い事態になり、悲劇のストーリーが展開して小説としては面白くても、必ず自分は不幸になる。

 しかし、それをすべて承知の上で、やっぱり面白いものは面白い。どんな状況でも面白いと思ってしまう。頭の中で小説を描き始めてしまう。

 自分の中にいるジュンという主人公は悲劇を嘆き、自分という小説家はガッツポーズをする・・・・。今回のこのことだって、自分はそういうふうにしか見ていない。


 ただ、面白い。


 はっきりいってもう、自分が生きているのは現実なのか、小説なのか、たまに区別がつかなくなる。

 自分は頭の中に出来たストーリーを今、紙に移すという作業をしているが、こうしている間にも自分の中には別のストーリーが進んでいく。

 やはり、自分は異常者だ。とても面白い。


 ・・・・・・・しかし、そのうち手が止まる。

 コーヒーを一口、二口。

書くのがめんどくさい。手で書いているストーリーよりも、頭の中のストーリーを先に進めたい自分がいる。

 ただ何もしないまま、ぼんやりと空想にふけりながら時間だけが過ぎていく。


 ・・・・


 書けない。手で書いているほうの小説が書けない。本当にめんどくさい。自分の頭で思っていることを、そのまま書いてくれる機械があったらいいのにと、いつも思う。頭の中には完全にストーリーが出来ていて、綺麗な言葉で文章がつながっているのに、字を書くことが面倒だ。

 集中力がほしい・・・・


 「やめた。今日はやめ。」 

 自分はまたノートとペンケースを片付け、帰ることにした。図書館を出て、また自転車に乗る。道行く人がちらほらと視線をやる。本当に見られているのか、ただ単に自分だけがそう思うのかは分からない。それは不快であり、また快感。



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