第21話 醤油か?
宴の準備はまだ続いていた。
陽が傾いてきて薄暗くなりつつある伐採場の片隅で、三つの
その上に置かれた大鍋の中で、亀の肉がグツグツと良い音を立てていた。
棘亀の解体はほぼ終わっており、甲羅は全て取り外され肉の部分もほとんど残っていない。
食べられない部分や、使えない骨はそのまま埋めてしまうそうだ。
裏側に付いていたゼラチン部分を全て綺麗に剥ぎ取られた甲板は、他の骨と一緒に木陰に並べられ乾くのを待っている。
これは少し手を加えて盾などの防具にするらしい。ゼラチンの方は膠になるとのことだ。
食べきれないほど取れた内蔵部分は、
精霊の加護は残らないだろうが、味に深みとコクがでて酒の肴に凄くあうと聞いたので今から楽しみだ。
「おい、それちょっと見せてくれ」
何気なく皆の食事の支度を眺めていたのだが、一人のゴブリンが持ち出してきた瓶に気付いた瞬間、ふと懐かしい記憶が蘇ったのだ。
古びた容器は見た目からして大変怪しげな代物だったが、俺が興味を示したのはそこじゃない。
同じく年季の入った木蓋を外させ、中を覗き込む。
中に入っていたのは、予想通り真っ黒な液体だった。
同時に先ほどから漂っていた匂いが、さらに濃く立ち昇る。
生臭さが少しだけ鼻をつくが、それ以上の香ばしさが鼻孔をくすぐる。
勝手知ったるこの独特の匂いは、もしかすると醤油か?
「味見させてくれるか?」
瓶を持ったゴブリンに尋ねると、目をまん丸に開いて頷かれた。
小さな柄杓ですくい上げた液体を少しだけ手の甲に垂らして貰う。
恐る恐る舌をつけてみた。
うん、醤油じゃないな。
だが、それにかなり近いものだ。
コクと塩気は、こちらの醤油もどきのほうがかなり強い。
しかしそれ以上に、臭みもきつい。
柄杓を入れた時に、粘性の液体の中に少し固形物が混じっているのが見えた。
これは内臓を発酵させたモノに色々混ぜた感じだな。
魚以外でつくった魚醤のようなものか。
上目遣いでこちらの反応をこわごわと窺っていたゴブリンに、俺は力強く頷いた。
正直なところ、亀肉の味には全く興味がなかった。
俺が考えていたのは、魔物の肉を食うと精霊術関係の技能がどうなるかって部分だけだ。
だが、この醤油もどきがあると話が変わってくる。
竈に並んだ三つの大鍋、これら全てが立派な鍋料理に早変わりだ。
「なんだザッグ、ゴブリンソースはイケる口なのか」
思わず欲望に目がギラついてしまったのだろうか、隣で同じく暇そうにしていたテッサが笑いながら話しかけてきた。
「これゴブリンソースって言うのか。俺の故郷の味に少し似てたんでな」
日本といっても通じないし、少し言葉を濁してごまかしておく。
分かったのか気づかなかったのか、その辺りをスルーしてテッサが話を続けてきた。
「ゴブリンソースは鬼族の好物なんだ。ただ普通の人だと、癖が強過ぎて口に合わないんだが平気とは珍しい」
「ああ、これは人を選ぶだろうな」
そこそこアクと臭みが強そうだが、それでも懐かしい味に近いのは変わりない。
俺は竈に近寄って、調理中のゴブリンたちの後ろから煮えたぎる鍋を覗き込んでみた。
真ん中の鍋は亀の脂で白く濁ったスープに、細かく刻んだ
そこにゴブリンどもが森で取ってきたのか、石づきをとった小さなキノコが豪快に投げ込んであった。
キノコと亀肉のスープって感じだな。
左の鍋はモツ煮込みのようだが、その表面は真っ赤であった。
こちらは激辛鍋か。酒によく合いそうだ。
酒といえば右の鍋であった。
こちらはすじ肉や軟骨が、水を足した酒で仲良く煮込まれていた。
ほかに丸芋や人参も入っており、芋酒煮といった感じで味の想像ができない。
丁寧にアク取りをしていたゴブリンが、醤油もどきを鍋肌に沿わすように流しこむ。
溢れだした匂いに俺の胃袋が、ギュッと音を立てて猛烈に暴れ始めた。
出来上がりを急かすように周囲を見回していた俺だが、こちらの様子を窺っていた一人のゴブリンが目に止まる。
俺の視線に気付いたのか、そのゴブリンは近寄ってきておずおずと話しかけてきた。
「……あの、勇者様。下の小屋まで来て欲しいと」
「要件は何だ? というか、誰の呼び出しだ?」
「要件は伺っておりません。小屋にいたのは髭が生えた人と、あと馬を操っていた人でした」
「ああ、トルースと御者の奴……、名前が出てこないな。その二人だけか?」
「はい」
「じゃあ、こっちに呼んできてくれ」
俺の指示にそのゴブリンは明らかに萎縮した。
首を縮こませ、眼に戸惑いの色を浮かべる。
「大丈夫だ、俺が呼んでるって言えばいい。それだけだろ」
「……わかりました」
覚悟を決めたその若いゴブリンは、しっかり頷いて踵を返した。
伐採場の坂を下る小鬼の後ろ姿を見送った俺は、鍋に向き直ろうとしてこっちを見つめる族長の姿に気づいた。
俺と視線が交わると、ギーソッドは静かに穏やかな笑みを浮かべてみせた。
大亀の死骸が全て片付け終わり、夕餉が始まったのはそれから間もなくだった。
「って、何であっしまで食べるはめに」
「魔物の肉料理というのは初めてだよ」
呼んでこさせた森林監督官と御者も食事に参加している。
ぶつくさぼやいている御者の名前は、改めて確認したらガズだった。
どうも日が暮れてきたが俺たちに帰る気配がないのに焦れて、薪を集めていたゴブリンに呼び出しを頼んだらしい。
そしたら逆に監督官ともども、怪しげな夕食会に招かれてしまったというわけだ。
「よし。皆に行き渡ったな」
俺は切り株に腰掛ける面々を見渡した。
給仕係を除いた全員に、湯気のたつ木皿となみなみと注がれたジョッキが行き届いているかを確認する。
「それでは魔物の解体完了を祝して、乾杯!」
ジョッキを高らかに持ち上げると、皆もそれに合わせて大きく杯を掲げる。
ゆっくりと沈みゆく夕日を背景に、野趣溢れる魔物鍋の宴会が始まった。
さっそく木匙で亀肉とキノコのスープをすくって口に運ぶ。
鶏肉に近いかと思っていたが、もっと柔らかく味も複雑だった。
生姜がよく効いているせいか臭みも綺麗に取れており、肉を噛みしめると旨味が口の中で急速に広がっていく。
汁の方もまた格別な味わいに仕上がっていた。
ゼラチンが溶け込んでいるのか、ねっとりと舌にまとわりつき妙味を存分に発揮してくる。
俺はあまりの美味さに驚いて、思わず周囲の反応を確かめた。
横に座るテッサは一心不乱に、真っ赤なスープを口に運んでいる。
我を忘れる美人の横顔は、なかなかに素晴らしい。
その向こうではタルニコが、同じく赤いスープを少しだけ口に運んでは、横を向いて舌を突き出し大きく息を吐いている。
小さく舐めては舌を伸ばすを繰り返す様は、美味いけど辛いから一息に食べられないといったとこか。
反対側を見ると、森林監督官のトルースが芋煮を旨そうに食べていた。
匙を口に運ぶ度に、顎鬚を下に引っ張る仕草をしている。
どうやら初めての魔物料理は口にあったようだ。
その横で御者のガズが、流しこむと言った様がぴったりの食いっぷりを見せていた。
匙をひっきりなしに木皿に突っ込んでは、夢中で口に運んでいる。
亀肉を味わいながら眺めてみれば、ゴブリンたちも同じような有り様だった。
全員が手の中の料理に、声を出すことも忘れ没頭しきっている。
唯一食事を控えていた給仕係のゴブリンが俺の視線に気付いたのか、急いで
こいつらの目敏さは、かなりのものだと思う。
と、感心している場合じゃないな。今はこの美味さを存分に楽しもう。
それからの一時、誰もが声を忘れたようで、静穏の森を賑わすのはしばし咀嚼と嚥下の音のみとなった。
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