第8話
フニにとって、リガミアの言葉は絶対だ。疑いなんて持たないし、まして逆らうなんて有り得なかった。リガミアに従えば、絶対に幸せになれるとフニは信じている。刃向かう理由なんて存在しないとフニは思っている。
きっと、挑んだところで敵わないのだ。「サーシャが一人で死ぬ」という未来から、「サーシャとフニの二人が死ぬ」という未来に変わるだけだとリガミアは言っているのだ。
見捨てるのが最善だとは理解できる。理屈ではよく分かる。
でも、でも――
「――サーシャが死ぬのは、嫌なんです……ッ」
闘技場の中では、司会の声だけが響く。観客の中で喋ろうとする者は、誰一人として居ない。それは無駄口を叩けば殺されることを、全ての人が知っているからだった。
『それでは、二人は誓いのキスを』
そして遂に聞こえてきた、タイムリミットを示す言葉。
静まり返る観客席の中、フニは必死に立ち上がろうとする。しかし、足が震えて動かなかった。
リガミアに逆らうことが、恐ろしくて仕方がない。不幸へ飛び込むのに足が竦んだ。
「サーシャ、サーシャ、サーシャサーシャサーシャ……ッ」
彼女を救えるのはボクだけだ。早く飛び出せよ、フニ・サーチレイ。
歯を食いしばる。全身から汗が吹き出る。悪寒が一向に収まらない。やはり大人しくリガミア様に従うべきなのではないか?という思考が、どうしても頭の端から消えきらない。
それは何年間もリガミアに従い続けたせいだ。フニの精神は、完全にリガミアに依存しきっていた。
「早く、早くしないと……ッ」
やるべきことは分かっている。だが身体が言うことを聞いてくれないのだ。情けなさにポロポロと涙が溢れて、少しずつ視界が歪んでいった。
だが、そのとき。
「――――っ」
サーシャが舌に歯を立てようとした。フニの背筋が凍りつく。
唯一フニだけが、サーシャが「自殺を試み、思い留まった」ことに気づいた。フニは水晶玉に映った、サーシャの死に姿を思い出す。サーシャはベッドの上で、恐らく情事に至る直前に、舌を噛み切って死んでいた。
――汚されるくらいなら自殺する。
だからサーシャは今も、本気で死ぬつもりだった。本当は口づけすら許さず、死のうと思ったのだろう。
――でもサーシャは、自殺を止めた。
理由は簡単に分かる。
――ボクがこの観客の中に居ると思ったから。サーシャが自殺する瞬間を見たら、ボクのトラウマになると思ったから。
サーシャからしてみれば、今すぐに死んでも初夜前に死んでも、大した違いはない。であれば微塵も汚されることなく、口づけもせずに死ぬのが最善だ。
「……自殺したいほど嫌なのに、その豚とのキスを我慢してくれるんですね。ボクのために」
フニは小さく笑う。いつの間にやら、フニの震えは止まっていた。
――ボクはどうして、こんなにもリガミア様に固執するようになったんでしたっけ。
フニはゆっくりと立ち上がりながら、過去の記憶を思い返す。それはずっと心の奥底に眠らせていた、両親を失った日の記憶。リガミアの予言を変えられず、予言の通りに父と母が死んだあの日の出来事だった。
――今度こそ。今度こそ、ボクは。
フニの瞳は爛々と燃える。大切な人を助けるために、クソ喰らえな運命を変えてやろうと。
巨大な闘技場で、万を越える人間が座している中、ただ一人フニが立つ。周囲は僅かにざわめき、多くの視線がフニに集まった。
【止めなさい。殺されるだけです】
再び聞こえた、リガミアの声。
フニは小さく、答えを返す。
「ごめんなさい。ボクは貴方を信じません」
信じたくもない未来を、信じる理由など何処にもない。幼く弱かったあの日とは違う。今はもう、立ち向かう刃を持っている。
フニは大きく飛び上がると、アリーナ――闘技場の中心へと降り立った。静寂の中、ただ着地する音だけが響く。
誰一人言葉を発さないこの闘技場において、それはあまりにも人の目を引く異質な音だった。全ての観客の視線は、新郎新婦からフニへと移る。
そして、今にもギルヴァとサーシャの唇が触れる……という直前。
「――待ちなさい。ギルヴァ・グレイグ」
空気を切り裂くようなフニの声が、闘技場全体を覆った。そこに幼さは欠片もなく、ただ息を飲むほどに凛々しい戦女神が立っていた。
群衆のざわめきは、波紋の如く広がっていく。
『……あれは、フニ様?』
『フニ様だ。あんなところで一体何を……』
動揺、疑問、困惑。フニを慕う者たちは、それに不安を付け加える。少なくとも、フニの奇行に対して無反応な人間は存在しなかった。
しかしフニは周囲に構わず、ギルヴァだけを見つめる。遥か高みから己を見下すギルヴァに、殺意の塊をぶつけていた。
「ボクは『第二位』。フニ・サーチレイ」
名乗りを上げると同時、フニは腰に掛けていた
常軌を逸したフニの迫力に、群衆は再び黙り込む。
一人残らず口を閉じ、続くフニの言葉を静かに待った。
時の止まった、闘技場の中。
フニは
「『第一位』ギルヴァ・グレイグ。貴方に決闘を申し込む。……サーシャを、返してもらいますよ」
一切の畏れなく、そう言い放った。
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