第4話 善悪の境

 ヘナロとロレンシオは街道を逸れて野宿していると少女の弱々しい思念を拾って探した。

 高原の夜は寒い、すっかり体温を失ったソランジュの身体を膝に抱え毛布越しにヘナロは擦った。ロレンシオは内側から温まるように即席のスープを作ってやった。

 手がかじかんでコップを落としそうになるのにヘナロは手を添えてやる。武骨な温かみが冷え切った小さな手に伝わってくる。

「ありがとう神官様」

 男二人は軍神マウォルスの神官服を着ていた。兵役に就く者達はその加護を祈って、マウォルスの神官服に似た服を好んだから、神殿は近隣になかったが自然と覚えていた。

「どういたしまして。私達が偶然野宿していて良かった。大変だったね」

 ソランジュは現実とは思えない衝撃的な出来事を自分の胸の内に納めておくことが出来なくて、寒さに震えながらも目にしたまま一部始終を話した。

 それは二人にとっても大収穫だった。

(とうとう見付けた継ぎ接ぎロラン!)

 ケルク・ジュール監獄を脱走したヘナロ・アルファ―ロは歪んだ正義感の持ち主である。

 自身を正義だと思い込んでいたから、同じく脱走したロラン・セルファチーを先ずは処刑しようとしたのだ。それは間違ってはいないがヘナロは時と場合を考慮しない。ロレンシオ達が苦労して計画を立てたのに危うく再び捕まるところだった。セルファチーを追おうとするヘナロの追跡を逸らすのは難儀で、予定にはなかったがメダルドの同僚のロレンシオ・ゴメスが彼に付かざるを得なかった。本来はロレンシオとメダルドでセルファチーを聖ルカスに連れて行く手筈だったのだ。

 ロレンシオにとって幸いでアルトワ・ルカスの民にとって不幸なことに、ヘナロは悪人を見付けては道草を食ったから時間稼ぎにはなった。

 無辜の民に対しては間違いなく善良な神官であるヘナロはだから進んでソランジュを助けたが、犯罪者だけでなく娼婦に同性愛者や特殊性癖を持つ者達には過酷な正義を称する処罰を下した。

 ロレンシオからすれば自分の加虐趣味を転嫁しているに過ぎない。

 軽い鞭打ちですむような軽犯罪者でさえ神罰と称して拷問しては殺してしまった。処罰に耐えられればそれがディケー女神に許された証なのだそうだ。正義の女神も狂人にいいように使われて災難である、ロレンシオは同情した。

 彼がディケー女神の信徒を公称していることは知られている。着ていたボロボロの神官服を脱ぎたがらないから、マウォルス神の神官服を着るように説得するのは一苦労だった。入浴し伸び放題の髪を短くすると、所業に反しそれはそれは爽やかな雰囲気の神官姿になった。

 セルファチーの居所を聞いてもヘナロは直ぐには動かずソランジュの看護を優先した。それがヘナロ流の正義の建前だ。

 メダルドからの連絡が絶えていたからセルファチーの居所が知れたのはゴメスにとって収穫だったが、セルファチーはまだ聖ルカスに向かっていないのだ。焦りと共に同僚に身に何かあったことを察した。

(やはりやられたか、メダルド)

 こんな家業をしていれば同朋だからと何かを感じることはない。だが、背中を預けられる者は少なく、危険な任務では互いに助け合う貴重な仲間だ。メダルドは情に甘いところがあったからそこを付け入られたか。

「神官様、どうかどうか軍神マウォルスのお力を持って悪い医者を懲らしめてやって下さい。弟の仇を討って」

 神罰を請うソランジュにヘナロの笑顔が見れなくて幸いだった。ロレンシオも見たくなかった。


 一夜明けると村は大騒動になった。それもそのはずだろう夜間に村に住む一家族が惨殺されていたのだ。狭い村社会で善良な家族として認識されていたから、何故彼らが選ばれたのか誰も小さな理由でさえ思いつかなかった。諍いを起こしていた隣人などはいない。犯行を起こしそうな者も思いつかない。それだけに恐怖は大きかった。何せ辺鄙な田舎の村とはいえ比較的家々が建ち並ぶ村の中心地での話なのだ。

 朝一番でヴァンサン・デュソーと名乗る医師を尋ねたカジミール達捜査官は驚きと苦い思いが沸き上がった。

 平和な村で起きた惨劇に現場を目の当たりにした村長は腰を抜かしていた。

「あわわ…」

 医師を尋ねるより先に現場に行かざるを得ない。村長を助け起こしたのはパコ・モンロイだった。

「村長しっかり、僕達は行方不明者を捜索している捜査官です」

 ここで身分を明かすのは不味いが仕方がない。

「警官?じゃあもしかして極悪犯とかが逃げて来てブリスの一家は殺されたのかね?」

 代わりに答えた村人の一人は、犯人をそこに結びつけたようだ。

「まだ分からないよ。中を見せてくれないか?殺されたのは一家全員?」

 言質を取らせず訊き返した。

「いや、ソランジュの姿がねぇ」

 中を確認したらしい男が答えた。

「ソランジュ?」

「俺の姪っ子で兄貴の娘だ。上の子だよ。それ以外は全部居る」

 最後の台詞が棒読みだったのは俄かに直視が難しい現実だからだろう。告げて顔を逸らした男の肩をカジミールは叩いた。

「辛かったな。悪いが中を見せてもらうぞ」

 モンロイに外での聞き取りを任せて女捜査官のマルジョリー・セルトンと現場検証する。

 寝込みを襲われたのではない。食卓に並べられた食器は使われた形跡がなく、火は消されているが鍋の中身はそのままになっている。惨劇は村人達が思うより遥かに早い時間にあったのだ。壁も床も血塗れで靴を汚さぬよう歩くのは至難の業だった。犯人は転移して現れ犯行を冒して逃げたのだろう。でなければ血塗れの姿を目撃されるか足跡を残しているはずだ。

(派手に血を飛び散らせてあるな)

 その理由は直ぐに分かった。両親の血を子供に浴びせているが、子供の死因は失血死ではない首を折られた所為だ。

(先ず子供が別の場所で殺された…)

 早計であるかもしれないがこの件が医師と別件だとは思えない。両親は血が大量に噴き出す場所を的確に斬られている。刃物の切れ味も抜群だ。経験上覚えのある、医療従事者の犯罪者が医療機器で切った後とそっくりだった。

「両親共に若いわ。上の子、っていっても歳は離れてないな、これは」

「だな、そして姉弟で…」

「先生!」

 外で声が聞こえた。医師らしい、洗練された都会的な男が美人看護師を従えている。

「うっわ、若くて美人な看護師連れてるじゃん」

 男性医師は若い女性を雇いたがる、マルジョリーが吐き捨てた。誰が開けたのか木製の窓が開いている。血の匂いに耐えられなかったのだろう。

 お陰で密かに医師の様子が覗けた。調べた通りの容貌風体である。

「どうだ?」

「大当たり!あの看護師死霊だわ」

 死霊使いでもあるマルジョリーの見立てなら決まりだろう。継ぎ接ぎした人工人間を看護師として使うのも特徴だ。そりゃ看護師になるような人物がセルファチーの手伝いなど給料を弾まれても出来るものではない。

 そろりと玄関からは死角になる場所に移動する。ここで捕まえる気はないがじっくり観察しておきたい。

「うわあ、これは酷い」

 医師が屋内の凄惨さに眩暈を起こした。演技には見えなかった。看護師はだが大根で、眉を顰めていても痛ましそうでも心を動かされたようでもない。

「無残です。何てことでしょう」

 口調も何となく空々しさが感じられた。

「警吏の方ですか?」

 死角に向けてデュソーは声を掛けた。バレている。カジミールとマルジョリーは素直に姿を現した。

「捜査官のカジミール・ラモワンとこっちの素敵な女性はマルジョリー・セルトン捜査官です。村のお医者様かな?」

「そうです。今年からね。ヴァンサン・デュソーです、よろしく。のんびりと仕事がしたくて移って来たのですが…」

 死者に敬意を表してからデュソーは遺体を検分する。

「痛ましい。どの人も切り刻まれて殺されている。こんな幼い子まで…」

 涙ながらに祈りの言葉を唱えた。

「ジョゼフは、この少年は診療所をよく手伝ってくれる良い子でした。昨日も元気に手伝ってくれていたのに…どうしてこんな惨いことに…」

「ああ、惨たらしいもんだ。この家族のことで思い当たることは?こんな目に遭うような…、まあ、田舎に住んでて大層な恨みを買うことなんてないんだろうが」

「あるはずがない」

 即答だった。

「それより私より早いお出ましですね。まるで事件が起こるのを見越したようなご登場だ」

「よせよ嫌な偶然だよ。俺達はエン=プタンで行方不明になってる人達を捜しててね。先生の患者もいたから話を聞きにね」

 変わり身が早過ぎるんじゃないかな先生、と胸の内でごちる。

「しかしこれじゃあな。先ずは医師としての検分書の作成を頼むよ」

「承知しました」

 血腥い屋内から出ると空気が美味かった。パコはまだ聞き込みの最中だ。

 村民達の恐怖が伝わってくる。ブリスの家は村外れの一軒家ではなく村の中心部で、悲鳴が上がれば聞こえる民家も一軒ではない立地だ。なのに押し入った形跡もなく襲われたことに朝まで誰も気付かなかった。屋内の凄惨さを考えれば悲鳴を上げていないはずがなく、そんな凶行をやってのけた者が野放しになっている。

 錆びついた金具を大急ぎで手入れして、今夜は鎧戸を堅く閉じて眠れない夜を過ごすのだろう。そんな様子が窺える。

「なあカジミール」

 家の周辺を調べる振りをしてマルジョリーが話し掛ける。

「うん?」

「看護師位なら動けないように出来るけど、どうする?」

 医師がセルファチーならば彼の魔法は研究されていて、強制的に死霊の従属を解く術は開発されていた。

「話が訊きたい。医師の支配からこちら側に引き込めるか?」

「奴の手口は分かってっから出来なくないけど、安心して術を展開出来る場所と時間がいる。看護師の一部も」

「了解」

 答えて聞き込みを終えたパコと合流する。

「村人達が捜索隊を出すってさ」

 今度は村人達が話し合う捜査官を窺っている。

「娘か?」

「十中八九殺されてるだろうけど。息子のジョゼフが診療所に入り浸ってたのは皆知ってるし、昨日も薬を届ける手伝いをしてたってさ。ジョゼフを呼び戻しにソランジュも診療所に向かったのは、他の子に話し掛けられて答えてたのを何人もが聞いてる」

「やだやだ、田舎は会話が筒抜けだわ」

 生理的に受け付けないらしい、マルジョリーは吐きそうな動作をする。

「お陰で居所の確認が簡単で安全なんだ」

 カジミールが窘める。

「ま、ね」

「で、そのまま帰って来てないと…親は心配しなかったのか?」

「陽の落ちる間際にジョゼフは帰ってるそうだから、何か説明を持って帰ってたのかな?誰も娘が帰って来ない、なんて訴えを聞いてないし、捜したり夜間に外出した目撃もない」

「ソランジュって幾つなの?」

「十歳だって」

「まだ幼いのにね」

 検分を終えたデュソーが出て来ると、待ってましたとばかりに村民達が囲んだ。口々に不安を訴えている。

「誰の魂魄も残ってなかった」

 ボソッとマルジョリーが呟いた。

「殺される早々魂魄が抜かれて連れてかれたんだわ。痛ましい」

 つまり彼ら自身から話は聞けないのだ。

 本来なら埋葬されるまでに最寄りの神殿から人が派遣されて、魂が死霊として使役されないように処置が施されるのに、そうした安らぎすら彼らは奪われている。

「デュソーはまだ足止めされるだろう、診療所の位置は頭に入ってるか?」

「ええ」

「先回りして継ぎ接ぎが実際何体居るか確認してくれ。おっつけ班長達も応援に駆け付けるから、確認だけしたら何処かで看護師に引き抜き掛けろ」

「了解。そっちは?」

「俺とパコは捜索隊に加わる。その前に美人看護師の一部を調達しなきゃな」

 言いつつ誰かの家の庭に咲くバラを一枝折り取った。ふわりとアニスの甘い香りが広がった。

「うわ、古典的」

 やり方がクサい。

「古典的だけど方法としては有効なんだよ」

 パコも苦笑しながらも同僚を擁護した。

 人の輪の外に大人しく控える看護師は凄惨な現場を見た後だというのに微笑を湛えていた。

「テレザ」

 振向くと村の悪戯好きの少年だった。柔らかいピンクと白のグラデーションのバラを手にしている。

「あちらのハンサムからだよ」

 大人っぽく片目を閉じて指差す方でカジミールが手を振っていた。

「セブランさんちのバラじゃないの?」

 バラ好きで、特に芳香の強いバラが好きで丹念に世話している。手折られたことに直ぐ気付くだろう。

「だと思うよ」

 少年も悪戯っぽく笑った。受取ろうとした指をバラの棘が引っ掻いた。

「あ、ごめん。このバラ棘が大きいな」

 慌ててハンカチで零れた血を拭う。

 テレザの微笑が深まった。

「棘が大きいバラ程美しいからね」

「でも、次に誰かに渡す時は棘を取ってからにするよ」

「そうした方がいいね。ハンカチを汚しちゃったから洗って返すわ」

 だが少年はさっさと血で汚れたハンカチをポケットに突っ込んでしまった。

「バラも枝が血で汚れちゃったね」

 バラも持って行こうとするのをテレザは許さなかった。

「いいの。気持ちを無下にしたくないし。届けてくれてありがとう」

「どういたしまして。怪我させてごめんよ」

 身を翻して少年はカジミールの所に駆け戻った。さり気なく路地に入るとこそっとハンカチをポケットからポケットへ移す。礼を言ってカジミールが銅貨をやると駆け去った。

「これで足りるか?」

「十分だよ」

 ハンカチを受取ってマルジョリーは消えた。


 低い囁き声でソランジュは目を覚ました。心も身体も衰弱していたが、神経が張って度々眠りから覚醒していた。

「村に行くんだろう?」

「そうだ、正義を成さねば」

「だったら俺は連中を引き付けて減らしておく」

「頼む、友よ」

 また眠りに引き込まれた。

 きちんと目を覚ました時には陽はとっくに上がっていて、ロレンシオ神官の姿はなかった。

「寝坊…しちゃった」

 恥ずかしくなった。こんな時間まで寝ていた経験はない。

「仕方ないさ、昨日の今日なんだ。食事は摂れるかな?」

 首を横に振った。お腹は空いているが食べる気が全くしない。

「昨夜と同じスープだが一口でも飲んでおきなさい。全く摂らないのも良くないからな」

 頷いて無理矢理口をつける。暖かさだけがありがたい。

「起きるの、待っててくれたんですね」

「大したことじゃない。私は転移が得意だから直ぐに村に帰れる」

 ヘナロが示してくれる優しさが心を打った。

 昨日の出来事は少女が抱えるには大き過ぎて、村に帰ってそれに向き合うのが怖かった。このまま何処かに逃げてなかったことにしたい気持ちもあったが何処に逃げるというのか、村しか知らないソランジュに逃げる宛などない。それに反面で早く両親の腕に飛び込んで、何もかも投げ渡して楽になりたい気持ちがある。きっと心配しているだろう。捜しているのではないだろうか。辛いが目にしたこと全てを両親に抱かれながら話すのだ。弟の最期を思い出すのはそれで最後にしよう。

「行こうか」

「はい」

 悲壮な決意をして村に帰った少女は、転移した広場に村人達が集まっているのを目にしても驚かなかった。

「捜索」

 という単語が耳に入ったからやはり自分を捜す為に捜索隊が集められているのだ。

「ソランジュ⁉」

 姪を見付けた伯父はだが幽霊を見るような目だった。蒼白になっている。

「生きて…無事だったのか!」

「神官さんに助けてもらったの」

 嬉しくて思いっ切り抱きついていた。

 彼女を認識して広場がざわついた。

「良かった!お前だけでも助かって良かった。転移したのか?お前出来たもんな」

 お前だけでも、その言葉を不吉だと思うのはこんな時だからだろうか。

「父さんと母さんは?」

 自分を捜しているのだろうか、広場に姿がない。

 伯父の腕の力が強くなった。

「誰があんな惨いことを…お前は犯人を見たんだろう?」

 何を言っているのだろう?ソランジュの聡さが邪魔をする。何故父さんや母さんを呼ばないのだ、何故知らせようとしない。弟か?弟のことか?そう思いたかった。父さんも母さんも私を必死で捜しているに決まっている。

 人垣が割れてデュソー医師が現れた。

 ショックで視界が歪む。

(ジョゼフにあんなことしたのに逃げてもいないんだ!)

「神官様、あいつです弟を殺したのは⁉」

 瞬間的に湧き上がる怒りに任せて指を突付けて叫んだ。

「何言って…ソランジュ?」

 姪は何を目にして誰を告発しているのか、心が挫けそうだ。

 田舎者達の中に一人だけ垢抜けた都会的な男がいる。

「あいつよ伯父さん。テレザに命じてジョゼフを殺させたの」

 思い出せば気が遠くなりそうだったが堪えた。

 デュソー先生が?、まさか、と言った声が疎らに上がる。何だと、何言ってるんだ?、と訊く声。

「父さんや母さんにも報せなきゃ」

「兄貴は…ソランジュ。知らないのか?…もう……」

 いつもははきはきとした伯父さんが涙を溜めて言葉を詰まらせていた。

 その時血の雨が降った。

「キャアアアア」

 ソランジュの絶叫が広場に響く。

 高速で動いたテレザはソランジュを殺そうとし、その腕にヘナロの棘の付いた鞭が巻き付いて、外れる際に腕の肉を削いでいた。

 耐えられずに叫び続ける少女と伯父をカジミールが抱えて広場を飛び出す。

「ギィヤアアアア」

「いやーーぁ」

 このままでは少女の精神が保たない。強制昏倒を掛けるとソランジュから力が抜けた。

「ラモワンさん」

「この子を安全な所へ連れて行くんだ」

「村長さんとこへ…」

 田舎では何かあった時そこに皆が逃げ込めるように長の家を頑丈に作る。

 広場ではパコが展開についていけない村人達に号令を掛けていた。

「逃げろ⁉ボケっとしてるな!魔法合戦に巻き込まれたいか!」

 テレザとヘナロの闘いが始まっていた。

 村人達の肩や背中を叩くと弾かれたように動き出す。しかし魔法合戦という言葉にピンとこないのか今一つ動きが鈍い。都会なら蜘蛛の子散らす勢いで人が退くのだが。田舎は平和だ。

「怪我するぞ!広場から出ろ!」

「広場から出たら安全かね?」

 猟や家畜を潰すので流血に慣れている。好奇心を覗かせて老人が訊いた。

(見物する気か!)

 確かに戦いを見物出来れば孫子へのいい語り草にはなるだろう。

「ダメだ逃げろ!家に帰れ!」

「爺さん、こっちだ」

 広場に面した家から呼び掛けがある。そちらも高みの見物気分なのだ。

 が呼掛けに答えたのはテレザで、家の壁に叩き付けられると分厚い壁が壊れて穴が空いた。

「逃ぃげぇろ⁉」

 一語一語を強く発声する。今度こそちゃんと逃げてくれた。急いで結界を張らねばならない。セルファチーは逃がせないし、それにテレザとたたかっているのはヘナロ・アルファーロだ。間違いない。


 戦闘をテレザに任せてセルファチーは逃げ出したが、前方にカジミールが転移していた。結界が完成するまで逃がせない。

(こんな狭い空間で転移したのか!)

 人や建物が密集する場所で転移を使えば人を巻き込んだり、座標が上手く取れずにそこにあった物と合体する恐れがあった。余程自信がなければ出来ない。

 戻ってヘナロの鞭と共に繰り出される雷撃を避けながら逃げ道を探す。

「やっと見つけたぞ継ぎ接ぎロラン!神妙に降れ!正義の裁きを受け容れろ」

 鉄線を編んだ棘の付いた鞭で広場の石畳を打つとその部分が壊れて地面が剥き出しになる。都会的な洗練された紳士は足を取られてこけつまろびつ逃げ回る。恰好悪いことこの上ないが、ヘナロ相手に四の五の文句はつけられない。セルファチーは攻撃魔法が苦手だったから《槍衾》を放っても鞭の一閃で散らされてしまった。

「逃げて下さい、先生⁉」

 テレザでは実戦経験もあり、攻撃魔法に長けたヘナロの相手にならない。その身を攻撃に晒してセルファチーを庇ったテレザが悲鳴を上げる。

 逃げたいがカジミールが転移で行く先々に現れ退路を塞ぐのだ。そうしている間にパコが結界を張り終わる。

「ちょろちょろと…、まだかアラン。早く来い」

(この距離なら思念が届くはずなのに!)

 どちらかを潰したい、相討ち上等なカジミールの思考が手に取るように分かる。

 その内に雷撃を受けたテレザが背中にぶつかった。

 美女が身を挺して守ってくれているというのに何の気遣いもない。

「どけテレザ!」

 そうしたいが、テレザはその頃マルジョリーが解呪を始めた為に思うように動けなくなっていた。

「女を盾にしてネズミのようにちょろちょろと、貴様に相応しい逃げ様だな」

 嘲笑と鞭がセルファチーを打った。仕立ての良い上等な服が裂ける。

 痛みと屈辱で頭に血が昇った。

「貴様―ッ」

 メダルドを息子にしたことを今さら悔いていた。あの戦闘力があればヘナロを倒せただろう。

 被害者は患者や看護師で強い者を相手にしたことがない。作品が出来てからは強い者の相手や汚れ仕事は彼ら彼女らに任せていた。非力なセルファチーは二打、三打と受けてもどんなに屈辱的でもなす術を持たなかった。情けなく「ヒイヒイ」とテレザ以上の悲鳴を上げる。

「先生…」

 満身創痍のテレザの叫びは力ない。

 四つん這いで逃げようとするセルファチーの脇にヘナロの蹴りが入って裏返される。腹を強く踏まれた。

「うげぇっ」

「ここまでか?たわいのない。では正義の女神の神罰を受けてもらうぞ!」

 手応えの無さに不満そうである。茨の綱がセルファチーを捕えた。

「死刑は確定しているが楽に死ねるなどと思うな。女神は貴様に慈悲を与えはしない。苦しみ足掻き悶え抜いて長き苦痛の末に貴様は地獄に逝くのだ」

 それは確かに継ぎ接ぎロランに相応しい死だったろう。

 果たされていれば。

竜の爪アルティーリョ・デル・ドラゴ⁉〕

 突然幻影の竜の鉤爪がヘナロの身体を分割した。派手な血飛沫が四方に散り、ボトボトと石畳に落ちた物体が跳ねた。茨の綱が霧散する。

(アランじゃない)

 しかしセルファチーにとっては救い主だった。

 そろそろ動く頃かと身構えたカジミールとパコは意表を突かれて愕然とした。

「新手⁉」

「まさか、僕が結界を張ってたのに!」

 パコの結界を突き破って現れた人物はいとも簡単にヘナロを殺してしまった。

「セルファチー、手を取れ!」

 ロレンシオは追手の捜査官を返討ちして急いでヘナロを追って来たのだ。セルファチーを殺されては元も子もない。

「間に合って良かった」

 言葉と共に差出されたその手をセルファチーは強く握りしめた。

〔フェザー!〕

 羽毛の幻影が彼らを包もうと迫る。ゴメスはそれを闘気で弾き返した。

「強い⁉」

獅子の顎マショワァー・ド・リオン

 転移しようとしてロレンシオは《獅子の顎》に邪魔される。直ぐには払えなかった。巨大な幻影の獅子は強く鋭い牙と強靭な顎で執拗に二人を襲った。囚われれば幻影で無くなる。

「パコ!結界を封鎖に変えられないか?」

「無理だ。それはセルファチーに防がれてる!」

 二人の逃亡を阻止する為にパコは懐から魔法陣が描かれた布を取出そうとした。発動すれば二人だけでなくカジミールとパコもその空間に閉じ込められることになる。だがセルファチーを捕える為には他に方策がない。

 テレザが動いた。右手の人差し指と中指の爪が指より長く伸びる。

 パコも捜査官だ、凶器の爪を躱すのは容易いがそれでは魔法が使えない。助力したいがカジミールも《獅子の顎》のような大きな術を展開している最中だから下手に動けない。

 結界や封鎖を得意とするパコは体術は不得意だった。躱し続けている間に足がもつれ始め、次第に躱したと思った凶器の爪が当たり出す。

 ところがパコが攻撃をしていないのにテレザは悲鳴を上げてうずくまった。カジミールの攻撃じゃない。いよいよマルジョリーの解呪が終盤に差し掛かっていたのだ。凶器の爪が引っ込んでいる。

「ああ、よかった」

 ホッとしたのも束の間で、テレザの左手が一閃した。

「うわあああぁっ」

 右脚の膝から下が切断されていた。

「パコーッ」

「術に集中しろ!」

 叫び返してパコは止血に集中した。結界は解くしかない。

 解呪の進むテレザの攻撃はそれが最後だった。もう苦しむばかりで何も仕掛けられない状態になっている。

 斬られた脚に保存魔法を掛ければ再び脚を付けてもらえる。だが意識を失いそうな痛みの中での止血は上手くいかない。早く再参戦してカジミールをサポートしないと二人に逃げられてしまうのに。

 危惧した通り結界の外で待ったを掛けられていたアランは広場に飛び込んだ。大きな術は必要ない気を逸らすだけでいい。カジミールに《槍》を放った。

 パコが放った《盾》は何とかカジミールを守ったが、気を逸らされて獅子の動きが鈍った。

 この機を逃さずロレンシオは攻撃魔法を放った。さらに気を逸らせればいい。が、そこにカジミールの姿がない。

「!」

「逃がすかよ」

 背後からの声に振返る横っ面に、雷撃を乗せた拳がめり込んだ。

 頭部が破壊されるはずだった。確かに手応えもあった。

 だが神速でセルファチーの治癒魔法が壊れるそばから治癒させていたのだ。

 アランが体術を繰出すのにカジミールは魔法ではなく己の体術で応えて返り討つ。

「クソがぁ⁉」

 中指を立てて吼えたカジミールの眼前からロレンシオとセルファチーの姿は消えていた。

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