第3章「少年と魔女」

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 タナラ村とその周辺の森が心地よき静けさを取り戻すのに多くの時間は必要としなかった。いうまでもなく、死食鬼の群れがこのタナラ村にやって来たのは事実である。群れの規模を考えても、決してその数が少なかったとは言えないだろう。状況が悪いほうへと向かっていたとしたら、最悪村人全員が死んでいた可能性もあった。大人だろうと赤子であろうと死体が残りもせず、あったとしても食い散らかしたあとだけがそこにある。村や森には咄嗟に鼻を摘まんでしまうほどの腐った臭いが充満し、人や動物も好き好んで寄り付かない場所となっていただろう。草木が枯れていたかもしれない。水は汚れていたかもしれない。森が泣いていたかもしれない。伝染性の高い病気がはやっていたかもしれない。

 しかしひとつの不幸でこの美しかったはずの森にたとえ生き物たちがすまなくなったとしても、大いに暴れた死食鬼は新たな獲物を探しに村を出る。さて次を狙うはどこなのか。相手の気持ちなど理解もせず、欲望にかられ移動していく。

 今回の出来事で、タナラ村は被害が生じた。悲しいことに死者が出ている。それは村人の半数とまではいかない。子供を失ってしまうという事態にも奇跡的にはなかった。だが、犠牲者が出ているのははっきりしている。あの日から、どれだけ願おうと、いくら待っても家に帰ってこない者が数名いた。

 死食鬼の群れはタナラ村を超えて、別の場所へと移動していった。では、彼らはどこへ向かったのか。彼らは死体を目当てに行動する。

 通常なら、彼らのそれなりといえよう規模の群れは極めて珍しい。つまり、『群れができてしまう』ということは、こことはまたはるか昔か最近か、はるか遠くで、それだけ何かが起きてしまったということなのである。


 群れが去って数日後、タナラ村には付近の町から数人の兵士が見回りでやって来るようになった。なぜならば、あの恐ろしい死食鬼がまだ近くにいるかもしれない。大きな群れから外れたものがいたとして、いまだに森のなかで潜んでいる可能性があった。

 森のようすが戻っている。風が吹いている。タイラーは上のほうを眺めながら思った。気付けば、若々しいこの森のなかで数日と残っていた異臭もしなくなった。

「兵士がいるな。まだ外は危ないのかな」

「まだ、危険?」とエマは言う。彼女は三人の兵士をじっと眺めている。

「どうなんだろ。村のみんなはあれからすっかり死食鬼を見ていないと言っていたけど」

 タイラーはこれといって納得できるような説明もできず正しい判断もできなかった。村の大人たちは危機が去ったと口にしている。皆揃って、同じ意見のようだった。

 彼が尋ねて、耳にした範囲ではそうだった。

 エマの手を取る。タイラーはあの日の出来事を思い出してしまった。言葉が溢れてくる。そうだよな。まだ森のなかは危ないかもしれない。

「ソラ、かわいそう」

「家から出られないことか?」タイラーは彼女に目をやる。

「うん」

 タイラーは歩み始めた。ふたりで自宅へと戻るところだった。偶然にも、街道から見える木々の隙間に無骨そうな男たちが立っていた。

「まあ、そうだよな。外で、おもいっきり遊べないと考えると。でも、あのようすだとな。外に出すのは」

「ソラ、かわいそう」

 エマは彼の手を離さない。遅れないように、ぎゅっと握っていた。

「たぶんだけど、あの人たちもずっといるわけではないはずだから、いつかソラも外で遊べるようになると思う」

「そとで?」

「たぶん、だけどな。今すぐにではないとは思うけど」

「わからない?」

「だな。わからない。ここ何日か、わからないことだらけだ」

 しばらくはこの状態だ。何を言おうが。タイラーは長老から聞いた話を振り返る。今現在、武装したものが村の周りをうろついている。(悪気はないが)そう考えるとすると、それは多少気持ちが落ち着かないかもしれない。お前だけでなく、村のなかには、同じようなことを言っているものもいる。はっきりと、怖いとな。だが、どういう気持ちであろうと兵士のほうが、死食鬼がいるよりはいいだろう。かれらは私たちが助けを求めたからやってきた。遠いところからな。それなのに、こちらがすべて終ったと思って、やれすぐに帰ろというわけにはいかない。

 タイラーはそのときの長老の表情を鮮明に覚えている。どこか疲れたような表情だった。もう何度か他の人にも似た説明をしたのだろう。

「もしもの話だけど」とタイラーは言う。

「もしも?」エマは首を傾げる。

「あの人たちが家に来ても大丈夫なようにしておかないとな」

 方角でいえば北側になるだろうか。野鳥の鳴き声が聞こえてくる。それは懐かしさのあるさえずりだった。どのくらいになるだろう。長い間、その高い音と強弱に出会えていなかった。

 仮に、ソラが見つかってしまったらどうなるのだろう。タイラーは考えた。誤りのない想像をするのがむずかしい。仮に見られたとしたら、国の兵士に無理やりにでも連れていかれてしまったりするのだろうか。村の子供が、幻獣を所有していた。毎日、餌を与えて、育てていた。これは一つの武力となりえるだろう。近い将来、危険だと。国を脅かす。

 ソラは誰も傷付けない。彼は信じて、心のなかで言った。疑わず二回ほど繰り返して言った。ソラはだれも襲わない。たとえこの先、どれほどの年月が経とうと、成長しても、絶対にそんなことはしない。ソラは危ない幻獣ではない。

 見つかってしまったら、その場で射殺されたりしてしまうのだろうか。彼は口を固く閉じる。想像をしていると、膨れ上がるように現実味が帯びてくる。そのようなことにはならないとは思いたい。その場ではなくとも、町に連れていかれて、最後には命を奪われる。それはいやだ。

 なぜ、殺さねばならないのだろう。なぜ、死なねばならないのだろう。なぜ。

 死食鬼がタナラ村を離れ、危機が去ったばかりだ。そのはずだ。でも、まだ終わっていないと考えないと。長老が言うように、しばらくのあいだは。

 まだなにも起きてはいない。とはいえ、「そのような事にはならない」と願いたい。

 仲間のもとへ連れていくべきなのでは。

 

 タイラーはタイロンの忠告に従っている。ソラを外には出すな。ただでさえ、死食鬼の群れがやって来た日に、エマを危険な目に合わせた。彼が連れ出したわけではなかったが、彼も自分が目を離したことが悪いと思っている。必死に走って、エマに追いつけなかったこともそうだ。もうすこしはやく動けていれば。あんなことには。

 タイロンはべつにそのことで叱りつけたりはしていない。彼もそこにはきっと理由があるのだろうと考えている。ただ彼はその理由を知ろうとはしなかった。タイラーが面白がってエマを連れて、外に遊びに出掛けたとはすこしも思えない(あの状況だ)。エマが飛び出していった。まだそれなら無いとは言い切れない。どちらにせよ、自分の知らないところで何かがあった。そうでないとおかしい。森の魔物か、悪魔か、何かがタイラーたちの命を欲しがっていたのだろうと。こっちへ、こっちへ。彼らを手招いて呼んでいたのだ。

 

 タイラーは、国の兵士が家に尋ねてきた時に相手とどう接するべきかとあれこれとはかりごとを巡らす。一つか二つほどだった。そこで、彼は思考を止めてしまう。

 二人の行く先には、一人の若い女性が立っていた。森の奥を見詰めている。

「見たことない人、だよな?」

 彼は呟いた。記憶を確かめても、ぼんやりとしてうまく思い出せなかった。

 その女性は髪の長いひとだった。背は高く、身体はすこし細身である。黒色の長髪に似合う衣服は、同一の色彩のドレスのように思える。後ろ姿でしか確認できないが、スカートの丈は長かった。

 タイラーは立ち止まって、その女性を眺めていると、少しずつ不思議な気持ちになる。彼女が母親のように思えた。だが、彼はすぐにと「母親ではない」と思う。トリッシュ・マイエがあのようなドレスを着ている姿が思い浮かばなかった。

「タイラー?」

「誰だろう? 話しかけてみようか」

 彼は純粋に気になった。この森で、ドレスを着た若い女性がいる。美しい黒髪、裕福そうな見た目なのに、たった一人で寂しそうに木々の隙間を眺めている。もしかすると、鳥のさえずりに耳を傾けているのかもしれない。野鳥観察かなにかだ。だが、それはどちらでもいい。とにかく、そこにあるのはなにひとつ大袈裟なのではなく、幻のような光景だった。

 その女性に近づいていくと、花のような甘い香りが彼の鼻をくすぐる。強烈な草の香りでもなければ、湿った土でもない。死食鬼とは大きく異なり、死を誘う異臭でもなかった。

 タイラーは見上げる。女性の身長が高い。

 顔は見えない。だが、とても綺麗な人なのではないかと思えてくる。

「あのう」

 彼女は振り向いた。丈の長いスカートが春風を感じる草花のように揺れた。

「どうかしたんですか?」

 彼女は沈黙を守っている。そして、彼の本質でも知ろうとするように見つめていた。

 タイラーは嘘偽りなく戸惑った。くわえて綺麗な人であると彼は思った。反応に困り、エマの顔に視線を逸らす。自身の声が、この静けさが、自分一人でいるかのようなおかしな気分にさせる。

 エマは首を傾げるだけだった。

 彼女はやっと口を開く。「タイラーですか?」

「えっ?」

「タイラーなのですか?」彼女はわずかな硬さと優しさを交えて問い返す。

「はい、タイラーといいます」

 なんなのだろう。すこしだけ、怖い。彼は不安定な橋の上にでもいるかのような思いになる。少しの迷いが、この人を傷つけた。一回の問いかけで答えるべきだった。

「タイラー・マイエ。そうなのですね」

 彼女はそう言うと、もういちど森の奥へと身体を向ける。スカートが時でも戻すかのように自然と揺れた。黒髪は風を浴びて、夜に浮かぶ雲のように輝いている。やさしくて甘い香りがする。

「あの、なぜ、俺の名前を知っているんですか?」

「貴方に、会いに来たからですよ」

「俺に?」

 彼女は黙っている。そして、誰よりも落ち着いたようすで木々の色合いでも調べている。どこか遠くのほうを見ている。そこに、彼女にしか見えない気色でもあるのかもしれない。

 なつかしい風が吹いていた。

「タイラー?」とエマが言う。

 彼は首を横に振った。エマが不思議そうにするのもよくわかる。

 タイラーは間を置く。「俺は、あなたが、誰なのかはわかりません。その、『会いに来た』、というのは」

 彼はその続きを滞りなく言葉にすることはできない。まぶしく、混乱があり、それが様々なものを邪魔しているようだった。

 彼女は黙ったままでいる。身体の向きを変えた。しかし、それでもなにも言わない。唇をかたちよくあわせて、力強い一対の目で彼を見ている。

「名前は、なんて言うんですか?」

 タイラーは思い切って見上げてから尋ねた。理由はよくわからない。だが、彼にとってその質問は覚悟が必要だった。

 彼女は問われたあと三秒間ほどのあいだ孵化でも待つようにじっとしていた。彼を見ている。ひとときほど視線を外してから、何かを考え、表情を一段階ほど暗くした。

 彼女は吐息をもらした。そして「ジュナ」と言う。

 よくわからない。わからないことだらけだ。タイラーはたとえどれだけ明瞭な発音で、彼女の名前を耳にしても、彼女が誰であるのかわからなかった。「聞いたことがあるような」と思うと、そのような気がしてくる。「聞いたことがない」、「知らない」と思うと、そのように思えてくる。まず、いつどこで耳にしたというのか。

「行きましょう」

 ジュナはそう言って、街道を歩き出す。おそらく飽きてしまったのだろう。

 だって、彼女は目的があって、この村へとやって来たはずのだから。


 タイラーは一部を除いてなにも変わらず自宅へと向かった。彼の傍には一人の客人がいる。彼女がどういった目的でこの村を訪れたのか、(貴方に会いに来た、と告げたとはいえ)より正確なことが判明するのにはもうすこしかかりそうだった。すくなくとも、森のなかでは明らかにはならない。ここでは駄目だったようだ。彼女はなにも語らなかった。

 エマはタイラーの手を握った状態でいた。彼女は不思議が消えないようだった。何が起きているのだろう、と顔に書いてある。

 そして彼もまたそうだった。

 しばらくすると森を抜けて古い建物が見えてくる。庭では、タイロンが煙草を吸っていた。白髪と背中があり、散弾銃が傍にある。どこか出かけようとしているのかもしれない。

「おじさん」

「タイラー、ちょっと手を貸してくれないか」

 タイロンは家の屋根の部分を眺めていた。煙草を吸うと、空に向けて煙を吐く。いつもよりも大きなもので、やわらかい煙だった。

 彼は振り向くと、顔色を変える。銃を手にとった。「タイラー、離れろ」と彼は言う。

「コイツに無暗に近づくな。こいつは魔女だ」

「魔女」

 彼は驚くしかなかった。

「ここには、ウォルターもトリッシュもいないぞ」

 冷たい銃口は、彼女を狙っている。

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