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倉庫はいくつか光源でも失ったかのように光が薄れていった。扉を開けたことにより緑のにおいが混じり、部屋の中は目にはわからないところで複雑な模様でも描いているようだった。夜ではないその一室は、物言わぬ化け物でも潜んでいるかのようにおもえた。
タイラーは沈黙を守っていた。どうすることもできなかった。わかりきっていたことが起きて、そのまま見ていることしかできなかった。「ついていく」は違う。だが、「止める」のも違うだろう。「ここで待っている」、それぐらいしか自分にできることがない。そんなふうにしか彼は思えなかった。
平気なのだろうか、とタイラーはひとり考える。村の人たちは逃げ、タイロンは何事もなく帰ってこられるのか。みんなは。
彼は鼻で息を吸い、長めに口で息を吐いた。草と、土と、どこか湿気を感じる。視線をずらせば、テーブルの上に銃弾が二発ほど残されていた。微かに、煙草のにおいがあった。
そうだ。俺は俺ですべきことがある。
そうしてタイラーは居間に戻る。
雨の降る日がやってくる。それよりも確実に家のなか、森のなか、白い雲浮かぶ空が不穏さを漂わせている。戸締りを厳重にしないと。もしものことがあってはならない。見つからないように。入られないように。エマとソラを守れるように。
タイラーは口を小さく開けて、歩みをやめた。つぎに彼は頭を動かして、数秒と時間をかけて部屋中を見回す。それほどまで、この古い家屋の居間は広くはないというのに。
信じられない光景だった。
エマがいなかった。そして、ソラもいない。
カリカリッと音が廊下のほうから聞こえてくる。とても軽い音だった。聞き慣れている。
タイラーはすぐに足を伸ばした。よかった、と思った。彼は物音が聞こえただけでも緊張が緩み、安心する。
廊下には、エマの姿はない。ソラがいる。廊下を、ゆっくり歩いていた。
翼はたたんでいる。頭を上げて、横を向く。「ぴー」と鳴く。
「ソラ」
「ピー」
タイラーは彼女を探した。だが、どこにも見当たらない。とりあえず、ソラはいた。こちらへと向かって歩いている。では、エマは。
「ソラ。エマは?」
「きゅう」と悲しそうに鳴く。
頭を下におろして、右を向いたかと思うと左に向ける。そのあと、ふたたび頭を下におろした。
「わからないのか」
ソラは返事をしなかった。足元で翼を広げたかと思うと、小さな足を交互にあげて、爪で床をかるく引っ掻きながら移動する。通り過ぎて、頭をあげると、ちいさく鳴いた。そして、こちらに目をやる。
「わからないんだな」
タイラーは腰を曲げて腕を伸ばし、ソラを持ち上げた。下手に暴れないように、両手で抱える。彼は自分の頭には乗せなかった。抱きかかえた状態が一番だと考えた。
そしてタイラーは大声を出さないで、家のなかにいるであろうエマを探す。「相手」に声を聞かせてはならない。それはタイロンに言われている。お前がエマを見ていろ。それも言われている。
家中を探して回る。彼女の名前を、彼は呼んだ。しかし返事はまったくない。なんども呼んだ。
「いない。どこにいったんだ?」
タイラーは徐々に焦っていく。なぜ、みつからないのだろう。なぜ、声が返ってこないのだろう。どうして、エマは姿を現してくれないのだろう。
彼は次第に声が大きくなる。気付かないうちに、少しずつ声量を上げていった。足の運びも速くなっていく。心臓が規則的に収縮しては拡大を続けている。呼吸も激しさを増している。
二階の部屋、三階の部屋までタイラーは見て回った。だが、どういうわけかエマの姿はどこにもなかった。ホコリが舞っていた。光が差していた。
「なんでいないんだ」
タイラーは走るようにして居間に戻り、彼女を探し続ける。戻ってきているのではないか、と彼は思った。かくれんぼでもしているつもりなら、ほんとうに勘弁してほしかった。
すると、窓の向こう側で一つの影が横切る。きわめてわずかな間だ。とはいえ見逃すことにはならない。あきらかに、何かがそこにいた。晴れた空、草木は揺れ、緑が美しい。
タイラーは窓際に駆け寄る。ソラが腕のなかで数回と鳴いた。竜もその目でなにかを見た。
「エマ」
彼はそう言って、すぐに走りだした。玄関にとにかく急いだ。
彼が目にしたのは、エマの後ろ姿だった。家から遠く離れた場所に、はっきりと彼女が立っていた。見間違いようがない。赤毛の長髪に、小さな身体。もう長いことひとつ屋根の下で暮らしている。彼女は森に行こうとしている。村へと続く街道。
それは息がつまるようだった。すべての音が遮られたかのように遠くなり、多くの存在がまわりから薄れていった。心臓は鼓動をやめてしまったかのようだった。
なんで外に。タイラーは思った。わけがわからなかった。どうして彼女は外にいるのか。いつから外にいるのか。ここにいろ、と伝えたはずだ。戻ってくるまで、ここに静かにしていろと。おじさんと話があるから。手伝えることがあれば。俺もやろうとおもっているから。死食鬼がいるんだぞ。村に向かって。なのに。
ソラを床に下ろして、靴を履き直す。もたもたしている場合ではない。
ソラが飛び立つ。そのあとに、鳴いた。
「エマ」
このとき彼は冷静ではいられなかった。そばで飛んでいるソラを、家に待たせようとは考えない。ありのままに余裕がなかった。ひとつのことだけに集中していた。危険が差し迫っている。彼女が危ない。
待っててくれ。なんでもいい。奴らがいないことを。そこで、立ち止まっていてくれ。
タイラーは家の扉を蹴るように勢いよく開けて、飛び出していった。
ほんのすこしのあいだ日差しがまぶしかった。まるでそれはさきほどまで、外にいたことを忘れているかのようで(走っていたことでさえ)、両目が圧倒的な光を受け付けようとはしなかった。
家を出た時には、もうエマの姿はどこにも見当たらない。彼女はあのまま街道を進んでいったらしい。窓から窺えたその背中は、あの道を歩んでいた。絶対に。
タイラーは走った。走るしかなかった。声は出さない。声を出すのは見えてからだ。そこにすばらしい考えなどはない。「危ないから」、「走って声を出すのがつらいから」でもない。ともかく、彼は彼女を視界に入れようとした。
なんでだ? どこに向かっている? タイラーはひたすら追いかける。森を走った。まさか、農園に向かっているのか? 彼は考えた。聞いていたのか?
森のなかでエマはときおりその背中と赤毛を見せる。しかしながら確認できたかと思うと、奇術でも見ているかのように姿を消した。まさにそれは人の目をくらましている。
タイラーは立ち止まる。これ以上、彼は走り続けるのが難しかった。ひとまず息を整えないとどうにもならない。数秒と大きく呼吸をする。耳にはソラの声が響く。
「なんで」
彼はそう言うと、歯を食いしばって走り続ける。
ようやくタイラーはエマの腕を取った。声をかけても、彼女が足を止めなかったから。
「エマ」それはかすれた音だった。
彼女はなにも言わない。
「エマ!」
タイラーは強く名を呼んだ。声だけにおさまらず、手にも力が入ってしまう。彼は無意識に少女の腕を(入り組んだ感情でも表すように)おもいきり掴んでしまった。
彼女は遅れて反応する。「タイラー」といった。
「家にいろって言っただろ」
エマは口を開きかけた。だが、先はない。表情に変化はない。それは、恐く見えるのかもしれない。
タイラーは彼女の顔を見詰め、ふと手の力を弱めた。その顔で、冷静さを取り戻す。
「なんで家を出た」彼は落ち着いて問いかける。
「エマは……」
おじさんが心配だった。そうなのか。タイラーは彼女が言おうとしていることに耳を傾ける。その気持ちを汲み取ろうとした。だが実際には、エマはなにも言わない。いくら待っても、なにも言わなかった。時間だけが過ぎた。
「帰ろう、エマ。はやく。家にいないといけない」
エマは帰り道ではない方を見詰める。そのあと、俯いてみせた。
「おじさんは大丈夫だから」
タイラーの言葉は、つまり自身にもそう言い聞かせている。少しまえ、彼が家の倉庫で悩んでいたことだ。銃弾と煙草のにおい。まだ記憶として残っている。
だからなのか、エマも俯きをやめる。彼がどうしたいのかを彼女は知った。
すると、ソラが鳴いた。鳴いたのは確かだ。しかし、どちらかというと、その音からして「唸る」にちかい。いままでに、幼き竜からは聞かない音がそこには見られた。
「ソラ、どうした」
タイラーは何に注意を向けているのかやけに疲労を感じる身体を動かして知ろうとした。『威嚇をしている』のは、彼もそのようすを見て理解した。だが、「何に威嚇をしているのか」それが大事なことであり、すばやく事実を知るべきだった。
タイラーは咄嗟に判断する。エマの手を取った。
「家に戻るぞ。はやく」
彼は囁くように言う。それから、「ソラ」と名を呼んだ。彼がその目で見たものは、本来であれば確実にこの森では出会うことはない。
その姿は、大きな犬のようだった。だが、猿のようにも見えた。いや、あえて言えば人間か。容姿を一見したかぎりでは毛と呼べるものが見当たらない。日焼けなのか、それとも火傷でもしたかのような皮膚。脚は長く、(人間と比べると)手が発達している。爪が長い。その鋭さは、トカゲの爪に似ていた。
大口を開けている。それを目撃してしまったためだろうか。又は、もう目の前まで迫ってきているからか。異臭がする。
気付かれないように。気付かれないうちに。家へと戻る。そして、タイロンの言っていたように安全とわかるまで外には出てはならない。窓から顔を出さない。
タイラーは逃げ出すことを念頭に置いた。奴らがいる傍ら音を立てないのは大事ではあるかもしれない。それでも、彼は家に逃げ込むことに専念した。自分たちが直面している状況は、危険であることには変わりはない。息を潜ませているばかりではいられなかったのだ。相手は匂いでわかるだろう。
だれでもわかるだろう。彼らはとても無力だった。子供が二人。竜が一匹。襲う側からしてみると、これほどまでに楽なものはない。人間の子供というのはなにもできやしない。もし子供ではなく大人であれば(といっても必ずではないが)非力なりにも知恵を使い身を守ろうとするだろう。なかには立ち向かってくるものがいる。家か、庭か。どこからか武器となるものを持ってくる。
幼き竜は魔法を使う。攻撃的な火は草木をも燃やす。しかし恐れるほどのものではない。なぜなら成熟した大型の竜でもなければ、成熟した幻獣でもないのだから。何をするにしても程度が知れている。
魔法で眠らせる。そんなもの、下手な小細工だ。
タイラーは森のなかを必死に走った。エマの手を握って、その小さな手をすこしも放さなかった。彼女は速くは走れない。だからといって、タイロンのように背負うのは無理だ。かえって遅くなる。彼にはこうするしかなかった。
「ソラ……」
エマが振り向きながら言った。彼女は後方が気になっている。
「エマ、今は走れ。ソラはすぐに戻ってくるから。俺たちが急がないと、ソラが」
時間稼ぎでしかなかった。あれがどんな魔法であるのかを、タイラーは彼女にうまく説明できない。赤い「炎」は見えた。ソラが魔法を使って、注意を引いているというのはわかる。俺たちが足を止めている場合ではない。
「ソラ、来た」
「そうか。よし、急ぐぞ」
彼らは全速力で駆けていく。
疲労を感じて、かたい地面をたくさん蹴った。
馴染みのある森は、空気とその色、地形までも変えているようだった。
異臭が強くなる。奴らの声も増えていく。数は減りはしない。
逃げ道は塞がれ、彼らは街道を外れてしまう。
そして、到頭その時が来てしまう。
エマが転んでしまった。おもわず目を瞑るような転び方ではなかったが、タイラーは心配して呼びかける。だいじょうぶか。ほら、はやく背中に。
エマは背中に乗らなかった。彼女は動けるという。ゆえにふたたび走り続ける。
死食鬼との距離が縮んでいく。引き離すのは不可能だった。
間もなくして行き場がなくなってしまう。追いかけっこは終わりだ。
タイラーはエマから離れなかった。ソラもまた同じで離れなかった。
ソラは威嚇を続けている。
「エマ、怖い」
「俺も怖い」
タイラーは安心させようと彼女を抱き寄せていた。彼は初めて彼女が感情をぶつけてくれたように思えた。普段なら、怖いとか直接的な言葉を彼女は口にしたりはしない。いや、それはそうか。ここまでくると。
「エマ、こわい」
「ああ」
九死といえるだろう。彼らにはもうどうすることもできない。家には戻れなかった。走ることもできなくなった。有効であろう武器も持っていない。
タイラーはエマを守るように抱きしめていた。彼女が怖がっている。それがわかる。
死食鬼の荒々しい声が響く。そしてそのあとに、少し遅れて銃声が鳴り響いた。
まだ安全とは言えない。だが、ひと安心はしていいのだろう。九死に一生を得た。彼らの前に、タイロンと数人の大人たちが現れたのである。
「よくやった。よく頑張った。最後まで」
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