・9




 今日は空がいつもよりも青く晴れていた。野鳥の声は耳を傾けてしまうほどには多くはない。風のない一日だった。数日前に雨が降っていたことを忘れそうになるぐらいに穏やかな天候である。明日も、その次の日も、続くと思えるような。

 タイラーはときおり上を意識しながら、午後となる頃にタナラ村に訪れていた。その理由はタイロンの手伝いであり、要するに荷物運びである。友人の家や知人の家に訪問しては、狩りの成果を分け与えていた。もちろん狩りの成果だけあって中身とは肉ばかりである。野菜はない。魚もない。しかしながら、町に行ってお店に出しても問題がない(それどころか自慢してもいい)動物の肉だった。

 この日はタナラ村にタイロンのほかにもエマとソラがやって来ていた。これは初めてとなるだろう。タイラーの記憶からしても、タイロンがソラを連れて、タナラ村を歩いて回ることはこれまでになかった。彼は針尾竜の子供が国の兵士に見られてしまうことを恐れている。それなのに自宅で留守番をさせるのではなく、散歩と呼んでもいいような、皆揃っての外出を選んだ。

 彼は兵士に見られた場合によってそのあと起きてしまうであろう結果を危惧している。第一にソラの為だ。彼はもっとも針尾竜をパラノマ山に帰してあげることを望んでいる。それが、ソラにとって幸せなのではないかと。

 兵士に見られたとして、そのあと起きてしまうであろう結果は、ソラだけではなくタイラーにとっても、エマにとっても、気分の良いものとして終わることはない。これは単なる憶測に過ぎない。それでも推測ができてしまう以上、タイロンはそれを避けようとする。手の届く範囲でしかないだろう、操ることの難しい、世界の均衡でもとるようにして。

 エマが出掛けたいと望むことも影響しているだろう。ソラの気持ちも影響しているのだろう。タイラーはどうなのだろう。


 タイラーがタナラ村で暮らす児童数人と話をしている時だった。タイロンが大きな布製の袋を背負い、こちらへと向かってくる。要らない力を感じさせない、口を閉じた状態だった。唇は閉じて歯は見えないのに、舌の筋力の強さが感じられた。

 タイラーは彼の機嫌に気付く。土を踏む姿だろうか。休憩ついでに煙草でも吸ったかのようで、どことなく愉快なように見えた。

「おじさん、終った?」

「タイラーは配り終わったか?」

「俺は終わったよ。全部、家を回った。家にいない人もいたけど、玄関に置いた」

「そうか。よし、それなら家に戻るか」


「タイロン。タイロンはどこだ!」

 その一言から続いて、タナラ村に住む者たちへと危険が知らされる。


 タナラ村の男たちはそれを耳にしてとにかく騒然としていた。村で暮らす数少ない大人たちがとくに慌て出し、動揺してみせた。不都合極まる知らせを聞けば必然だろう。状況が掴めず声を出せない者もいたが、その場で一人でも動き出せばその者も理解する。現在、このタナラ村に、『死食鬼(ししょくき)』の群れが向かっている。

 死食鬼がまっすぐ向かっている。それは命の危険を感じとれる通知だった。行動に移すには十分な言葉だろう。人間からしてみれば、死臭を撒き散らす彼らを安全で穏和な野生の動物だと思うものなどいない。鹿でもなければ、熊でもない。それがこの村に。群れで。

 村人たちは事態を知って慌てながらも、すべき事を決めて動き始めた。タイラーもまたそうだった。彼はタイロンに促されて、自宅へと目指す。これが道理にかなう行動なのかそれについては彼はわかってはいない。「死食鬼」と言われると、危ない生き物である事は理解している。しかし生まれてこの方、実物を見たことはない。触れたことも、その獣らしい匂いを嗅いだこともなければ、存在することで生まれるその場に走る緊張を感じたことでさえない。名前と特性といったものだけが彼の頭にある情報で、そのため不思議な感覚に襲われる。そこには恐怖があり、それでも実感するにはどこか希薄だった。

 従うしかなかった。どうしよう、という考えには至らなかった。自分ではどうにもならないことが起きている。村の大人たちが慌てるように、タイロンが急ぐように、大きな「何か」が村に迫っている。

 タイロンは急ぎ足でエマを背負い、いつもよりも静かに街道を走った。だからか、エマもまた激しく揺れながらその背中で黙っていた。村だけでなく、人々の変化に彼女は気づいているだろう。だが声を荒げて泣き出しもせず、落ち着かないようすも見せない。恐がっているように見えない。(宙を飛ぶ)ソラを見て、白髪頭を見ている。

 死食鬼が何であるのか、理解していないだけなのだろう。タイラーはそう思った。彼女がその存在を知っているのかは疑わしい。それからおそらく、わけの分からない恐怖を感じて、不安から騒ぎ出さないのもそんな彼女だからだ。

 村の人たちはみんな、自宅へと急いでいた。俺も家を目指し、走っている。森に逃げるのはよくない。たぶんそうだ。だから、家に隠れようとしている。

「急げ」

 タイロンが不意に急かした。タイラーは足の指に力を入れて、かたい地面を蹴る。おいていかれるのは嫌だった。のんびりして襲われるのも彼は嫌だった。

 この世界に、恐ろしい生き物がいる。その姿を見てはいない。それでも、後ろから「何か」が少しずつ迫ってきている。それが否応なくわかる。少しずつ呼吸が荒くなる。背中を触れられるような気がした。

 油断すれば、見えない長い腕に、その手に、足を掴まれる気がした。

 村外れの自宅に到着するのは、子供でも走ってしまえばそこまで時間は掛からない。だからタイロンはたいした息切れもなく、エマを自宅前で背中から降ろした。昔と比べて体力が落ちていることは彼も実感している。といっても、呼吸が乱れるほどではない。

「タイラー、平気か」

「俺はだいじょうぶ」

 ソラが鳴いた。

「そうか。よし」

 タイラーは彼の姿を眺めて、次にどのように行動するのか知ろうとする。しばらくは家にいるのは決まっている。籠るのだ。村の人たちは少なくともそうするようだった。家の扉に鍵を掛けて、窓を閉めていた。まだ小さい子は抱えられて。

 タイロンは家の扉を開ける。

 タイラーは振り返り村のほうを眺めると、エマに目をやる。彼女に家のなかへ入るよう促した。事態を把握していないとは思わない。それなのに、彼女の顔には不安の欠片がみえない。

 村の人たちは、大丈夫だろうか?

 扉の鍵を閉めると、タイロンが早足で居間の方へと姿を消す。

 タイラーは言った。「大変なことになったな」

 エマは白髪頭を追いかけるように視線を向けていたが身体の向きを変える。「大変?」

 ソラが床に飛び降りて、一声鳴いた。

「ああ。だから」

 タイラーはそう言いながら、小さく呼吸をする。そして彼はその次の言葉を口にはしないで、居間へ移動することにする。俺だけでも、しっかりしないと。彼はそう思った。

「おじさん」

 タイラーが居間へと向かい、見回しながら彼を呼んでみると、そこには誰もいなかった。短いあいだでタイロンはやることを済ませ、すでに家中を回っているらしい。

 すると、食卓のある部屋から物音がする。

「なんだ」

 彼は意識しているわけではないのだろう。だが物音を抑えているようにおもえた。急を要しているとはいえ必要以上に目立つことでも避けているかのような。

「その、死食鬼って」タイラーは間を置く。「家にいればいいのか。家なら、安全なのか?」

「ここにいろ。家から出るな」

 タイロンはそれだけ言うと、その場から離れようとする。まだやることが残っていたらしい。

「ここで、エマとソラといろ。家から一歩も出るな。いいか。一歩もだ」

「ここで、エマとソラと」

 タイラーは言われたとおりにすべきだと、やや俯き、繰り返し口にしようとする。どのようなものでも、大切に言葉にすれば、忘れることは減る。大事なことだ。たとえこういった出来事が、忘れるような事態にはならないとは思うとしても。

 ここで、エマとソラと……。

「おじさんは?」

 タイラーが問いかけると、そこにはすでにタイロンはいなかった。彼はやはりまだなにか残っていたらしい。時間はなく。やらねばならない。

 タイラーは居間に戻り、エマとソラを見つける。

「おじさんは?」と彼は言った。

「じじ、あっち」

 エマが指さしたのは家の裏側のほうだった。ほんとうに家の裏側であるのかはわからない。だが、玄関でも二階でもなく、奥のほうをはっきりと示した。

 ソラが鳴く。

「ここで待ってろ。いいか、動くなよ。おじさんの手伝いをしてくる」

 ソラは大きく鳴いた。「待つ」といっている。そんな気がする。

「エマは」

 彼女は呟くように口にした。

「うん? エマは、なんだ?」

「待ってる」

「まってろ。ちょっとだけだ。少し話すだけだから。すぐに戻ってくる」

 タイラーは家の裏側を目指した。タイロンと話すことがある。聞かないといけなかった。彼はどうしても胸騒ぎがした。タイロンは、俺たちと一緒に家にいるわけではない。そうなのではないのか。先ほどの彼の発言からは、タイラーにはそのように聞き取れた。お前たちは家で待ってろ。家から一歩も出るな。俺はまだやることがある。

 タイラーは玄関から出て庭を通るのではなく、まっすぐ(家の裏側)倉庫のほうへと進む。音を頼りに、彼は探した。べつに耳を澄ませる必要はない。空気が少し重く、温度が低いように感じるだけで、これといって邪魔になるものはすこしもなかった。

 タイラーは倉庫で彼を見つけると、物静かに近づいていく。何をしようとしているのか、これからどうしようと思っているのか。それらを知ろうとした。木製のテーブルの上で物を並べている。散弾銃が見えた。銃弾にナイフ。背中を眺めていると、決まったわけでもないのに、一つの未来が確信に変わろうとしている。

「おじさん」

 タイラーの声は小さかった。いくぶん細くて、人の耳にはっきりと届くには物足りない。伝えるには不十分だ。ゆえに相手は気付いてくれなかった。

「おじさんってば」タイラーは間を置いて、強めに言った。

「なんだ?」

 彼はそう返事をした。だが、こちらを見ようとはしない。作業を続けている。

「ここでエマたちといればいいんだよな」

「ああ」

「ほかに、俺にすることはないのか?」

「不用意に窓から顔を出すな。見られないようにしろ。エマが顔を出さないように、お前が見ろ。何をするかわからない。あの子は、危ない」

 タイラーはなにも言わない。口を閉じていた。彼女の顔が浮かんだ。「見張っておかないと」心のなかで言う。

「あのさ。死食鬼って、死体を食べるんじゃないのか」

「生きた人間も食べる。死体につられて、行動するというだけだ。生きているのか、死んでいるのかなんて関係ない。相手が死んでいれば、食べるし、相手が生きていれば、襲って食べる。本でもあっただろ。『死体を残すな、奴らが来る』、そういうことだ」

「おじさんは家に残らないの?」

 タイロンはテーブルと向き合った状態で作業を止めた。その白い頭が左右と揺れるように動いていたはずが、誰かの手によって固定でもされたかのように動かなくなった。太い腕さえも目的でも無くしたかのように運動を弱め、次第に止まってしまう。考えているのだろう。後ろ姿からはそのようにしか見えなかった。

「逃げ遅れた者を助けに行く。農園にはまだいるだろう。何も知らないやつがいる」

 タイラーは黙った。予想していたのだ。「彼」は一緒に居るわけではない。終わるまで、傍にはいない。散弾銃を持って、走って、時には撃って。やらねばならないことがある。行かねばならない。

「だから、頼んだぞ」

 タイロンは作業を再開した。ナイフは一本だけではない。銃弾も一発なわけがない。彼は一つ一つ丁寧に準備をし、武器となるものを身につけ、最後に銃を背負う。身軽な格好だ。「狩り」とは異なる。その顔付きもまた普段とは異なっていた。

「行ってくる」

 彼はそう言って裏口から出ていった。鍵を掛けて。


 タイラーはなにも言えなかった。

 頭のなかには不安がある。恐いのだ。ここには紛れもなく恐怖がある。死食鬼が怖いだけではない。それだけではない。

 その家から出ていくすがたが、好ましくない未来をつよく浮かばせる。

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