・3




 エマは二手の道をそれぞれ分かれてから――タナラ村への道を外れて――森のなかへと入っていったようだった。「森には入るなよ」とは注意したはずだ。だが、彼女は聞く耳を持たないで、あのあと自分のしたいとおりに行動したようである。森にひとりで入って、歩き回った。そこに計画とか期待とかそういったものはおそらくない。成り行きに任せる、というほどのものでもない。彼女は自分の意思に従ったのだ。

 タイラーは彼女に向けてなにも言えなかった。彼だって自分のやりたいようにやっている。見てわかるとおり、竜の子供を抱えている。彼は芽生えた興味に逆らえず、目指して、森に入っていったのだ。こんな人里近くの森で「竜」と遭遇した。そのおかげで家までの帰り道を見失いそうになっている。消えてしまいそうな薄い記憶が、どれだけ役に立ってくれるのかと。木々を見て、根を踏み、岩を見て、キノコを見つけて。見た記憶はあれど、なぜこうも不安になるのか。

 エマと巡り合う。すこしうれしく思う。彼は少女に向けて感情を態度で表すことはしなかった。

 タイラーはそのあとエマと二人で村を目指した。見慣れた草木を見つけて、どこか見慣れた道を発見する。彼は帰り道を鮮明に思い出し、できるだけ急ぐようにして帰路につく。

 エマの服が泥で汚れていた。上から下、どこを歩いてきたのかと思いたくなるほどに土がついていた。背中には、葉も張り付いている。いかにもなその汚れを、タイラーは手で取れそうなものだけ取り除く。しわのある、タイロンおじさんの顔が浮かんだ。

 少しのあいだ、彼はいくつか質問した。エマは竜に興味を示さない。「示さない」のは、ほんとうのところそこまで重要ではない。だから、彼もそこは質問しない。しかしながら、二手の道で分かれて、間もないはずという時間で、『衣服を汚し』、『何をしていたのか』、そこは気になるところである。無くした物は見つかったのか。目的はそれだったはず。

 エマは探し物を見つけられなかったようだ。彼女は首を横に振り、「見つからなかった」と言った。簡単な返事はひどく寂しく、その後の言葉を期待してもとくに次はない。

 彼女に落ち込んでいるようすはない。続けるつもりがあるようには見える。

「タイラーはみつかった?」エマは頭を傾けて、問いかける。

「いや、俺は」彼はそこで言葉が詰まった。竜が鳴いた。

「なかった」

「また、探しにいこうか」

 タイラーはほかに聞きたいことがわずかにあったがそう言った。

 真剣に探していたわけではない。とすると、最後(諦める時か、見つける時)まで付き合うべきだと考えた。


 タナラ村から南西にすこし歩くと、二階建ての家が一つある。それは高い木々に囲まれ、草花に囲まれている。村にある家々と比べるといくぶん古惚けており、外観は取り立てるほど異なりはしないのだが何とも言えない独特なあじわいがあった。タイラーは、白色や黄色の小さな花を見せびらかす草花を通りずぎて帰宅すると、すぐにタイロン・シモンズを探した。彼の身体では見上げるほどに大きな家屋は、一人の人間を探すのに手間を要する。この時、とにかくわかることは周りに人の気配はないということだった。

 もっとも簡単な探し方と言えば、「大声を出せばいい」だけだった。しかし、そのような方法を取ったとしても、見つからないこともある。簡単な方法で行う探し方は、「必ず」ではないのだ。なにひとつ反応がない――そういう時は決まって、おじさんは家にはいない。どこかに出掛けていっている。それでは、その時、どんな用事でおじさんは家を空けているのか。答えは、常に同じではない。

 タイロンおじさんは「狩り」に出掛けていっているのかもしれない。このたびは、おじさんはどこかに出掛けていっているようだ。タイラーはそのように考えた。名前を呼んでも返事がなかった。姿を現すようすもない。

 タイラーは不在を知ってから、玄関から家の裏手に回る。雑草が伸びている。地面がわずかに湿っている。少し前、森のなかで嗅いだにおいが彼の頭を過った。唾の味がした。土の匂いと汗の匂いが混じり、そのなかで強く主張するにおいがある。彼はもういちど「森」の一部になるほどの感覚には襲われはしなかった。だが、三秒ほどのあいだ立ち止まってしまう。

 すると、ちょうどよく竜が鳴く。

 現実に戻される。草木を押し潰していた。竜の顔が浮かんだ。

「タイラー、おなか空いた」

「お腹空いたって、まだ夕食の時間ではないぞ」

 空はまだ明るい。正確な時間についてはわからない。だが、早いのはわかる。

「空いた。すいた」

「ああ、空いたのはわかった。腹減ったんだな、歩いたもんな。でも、もう少し待て。何か食べ物を探す前に、タイロンおじさんを探さないと」

「家にいない」

「っぽいよな」

 タイラーは俯くと、どうするべきなのかを考える。竜の健康状態を調べてもらおうと思っていた。暴れもしないし、興奮するように喚くこともしなくなったとしても、平気であるのかどうなのかを知らないと落ち着かない。

 竜は鳴く。弱弱しい感じだった。

「タイラー、おなかすいた」エマは続けるようにして言う。

「わかったって」

 彼は竜にも同じように告げられたような気がした。お腹が空いた。食べ物が欲しい。水が欲しい。空の観光は疲れたよ。タイラーは想像して溜息をつく。

 でも、エマ。お前はご飯の前にその服を着替えないとな。

 およそ五分後に、タイロンは散弾銃をその大きな背中に負い、重そうな足取りで帰宅した。表情がいつもと変わらずやや険しい。目の下、額などにシワが何本かあり、ミミズのような波ができている。短い白髪頭は乱れがなく、そして若い雑草のようでもあって張りがあった。

 タイロンは家を空けて、森に入っていたようだ。彼が散弾銃を所持している時は、おおかた森のなかにいたと決まっている。目的が「狩り」であるのか、はたまた別の目的があったのか。とにかく、彼は年季の入った散弾銃のほかには獲物もなにも持っていない。彼が狩りに出かけていったとして、獲物を持ち帰らないのは珍しいことだった。

 タイラーは散弾銃を観察した。見てわかるものでもないが、使用されたのか知ろうと思った。タイロンは背負うのをやめて、それを玄関前に置く。

「おじさん」と彼は竜を抱えながら歩み寄って、声を大きく呼びかける。

「タイラー、明日、ひとつ、すまんが頼みがあるんだが」タイロンはそう言うと、振り返る。彼は目の前のありさまを見て、目を大きく開いた。そして、「お前、それどうした」と呟くように言う。

「おじさん、こいつをみてほしくて」

「また、お前ら、バカみたいに汚しやがって」

 タイロンはエマの状態に顔を歪めた。シワが増えている。

 竜が鳴いた。白髪頭の男を見詰めて、あいさつでもしているかのような。こんにちは。

 タイラーは腕をすこし上げて、竜の顔に目をやる。「どこか悪いところが無いか、みてくれないか? 高い場所から落ちたんだ。見た感じ、何ともないようには見えるけど」

 元気がないようには見えない。それでも、起きた出来事は生命を脅かすものであったのは疑いようがない。

「こいつを」タイロンは間を置く。「どこで拾ってきた?」

「ああ、えっと」とタイラーは迷う。素直に言うべきか。遠回しに、『探し物をしていた』では許されないだろう。怒らないよな?「森でみつけた」彼は素直に答えた。

「みつけた」とエマが繰り返す。

「森で?」

「村外れの池があるほう。たぶんだけど」

「タイラー、言っただろ。あの辺には行くなって。村から離れすぎるのは――」

「悪いとは思ってる。だが、それよりも、こいつが大丈夫なのかみてくれないか。空を飛ぶ『見たことのない奴』に、足で掴まれていたのを見たんだ。その途中で落とされて。だから落ちていった場所に向かって」

 タイロンは口を閉じて、もの言いたげな顔をする。喉の奥に詰まるものがある。事情をよく知らない彼にとって、少年の言葉だけでは物事の過程を正しく把握するのも難しい。どういった理由で、入るのは駄目だと伝えたはずの場所に訪れたのか。エマと二人でいったのか。タイラーもそうだが、エマはどうしてそこまで汚れている。危険なことをしていないだろうな。何度も注意して、それでも入って。しっかり帰ってきているのだから、そこまで心配する必要はないのかもしれないとしても。

 タイロンは短い呼吸をすると、無言で少年の腕にいる竜のほうを眺めた。やや険しい顔は変わらない。鳴き声が響く。そのあと、彼は両手を伸ばして、竜を持ち上げる。三秒間ほど経過した。本を探し、読むなどといった大掛かりなことはしないで、彼は即座に「竜」がどういう存在なのかを理解する。

「竜だろうな」

「それは、俺もわかってるよ」

 平気そうには見えるが、とタイロンは独り言のように言う。

「なにもないのか。そっか、それならよかった」

「森で拾ってきた、と言ったな。こいつを、空を飛ぶ『見たことのない生き物』が足で掴んでいたって」

 ああ、とタイラーは頷く。「叫んで。飛んで。大きかった。あんなの、森で見たことがない。そいつが俺の上を通る前に、森の動物たちがやけに騒いで」

「それは、パラノマ山にいる飛竜だろうな」

「飛竜? あれが?」

 タイラーは叫ぶ者の姿をおぼろげに思い出し、正確な姿形を思い描こうとする。竜のように見えたことは覚えている。大きな翼があって、二本の脚があって。

「あれ、飛竜だったのか」と彼は呟いた。

「何かわからねえ生き物が、何かを落としたから、気になってそこに向かったのか」

「何を落としたのか知りたくて。あれがなんだったのかも」

「じじ、怒ってる?」とエマが尋ねる。見上げる少女は、恐がっているわけではない。

 タイロンは一目してから、溜息を吐いた。

「気になったもんはしかたねえだろ」とタイラーは控えめに言う。

「こいつは幻獣だ」タイロンはそう言うと、右手でやさしく竜の翼に触れた。太い指が、一枚の布の感触でも調べるように翼を摘まんでいる。

「幻獣? こいつが?」

「おそらくだがな」タイロンはすこしだけ間を置く。「見た感じ、針尾竜の子供だろ」

「針尾竜」

 タイラーには初めて聞く名前だった。村近くには、竜も飛竜もいない。

「針尾竜ってのは、この辺にいる生き物なのか? 俺、聞いたことねえけど」

「ここら辺では、青針尾竜とも呼ばれている。青針(あおはり)、青尻尾(あおしっぽ)とかもな。さっき言った、パラノマ山を住処にしている幻獣だ」

「パラノマ山ってあの山だよな」

 タイラーが示した先には、そびえて並ぶ山々があった。頭の部分には白い雪が積もっている。「あんな場所から」

「遠くはない。とはいえ、近くはない。この辺りなら、まあ、飛竜が飛んできてもおかしくはないだろう。おそらくこいつは、ひとりでいるところを攫われたんだろうな」

 子供といっても竜であり、幻獣だ。近くには、成熟した仲間の竜もいたはず。ところが、襲われてしまった。

「飛竜って、竜を襲うもんなのか? 幻獣なんだろ?」タイラーは問う。

「さて、どうだろうな。だが、パラノマ山にいる飛竜は、そこにいる針尾竜の子供を攫って、別の場所に持っていき、捨てる、というのを聞いたことがある。実際に、そんな光景を見たわけじゃねえが、そこの飛竜はそんなことをするらしい」

「別の場所に捨てる」

 タイラーにはパラノマ山での「飛竜」と「竜」の暮らしを想像するのは困難だった。『飛竜が針尾竜の子供を攫い、別の場所に持っていき、捨てる』。彼のなかでは「竜」とは身体が大きく、力強く、そして何よりも立派な生き物であるという位置づけだ。他のどんな生き物にも負けない。その彼らが、なぜそのような出来事にあう? たんにパラノマ山にいる針尾竜が弱い生き物だったりするのかもしれない。強き竜であり、幻獣でもあるのに。

「針尾竜の数が増えると、飛竜にとっては、面白くはないんだろう」タイロンは最後に竜の首のぐあいを見てから、配慮して手渡そうとする。

「こいつは」とタイラーは言う。

 竜が返事でもするように鳴いた。彼のほうを見詰めている。

 タイロンは額にしわを寄せる。「しかし、この竜、よく生きていたな」

 タイラーは顔を上げた。

「飛竜に襲われ、しかも高い場所から落とされた。落ちていったのをお前は見たんだろ。だとすれば、生きているのが不思議なもんだ」

「俺も、最初は死んでると思ってたよ」

「魔法でも使ったのかもしれないな」

「魔法が、使えるのか? こいつ」

「魔法」とエマは言う。

「子供でも幻獣なんだから、魔法ぐらい使える。なにをしたのかは知らねえが、こいつもこいつで、身を守ってたってことだろ」

 針尾竜は二回ほど続けて、元気よく鳴いた。

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