・2




 落下する物体は道沿いではなく、深い森のなかへと姿を消した。タイラーはそれでもひたすら追うように、道など関係ないと突き進む。岩を踏んで、濁った水たまりを踏んでいった。あれがなんなのか、彼は知りたくてしかたがなかった。木の実のように落ちていったものを発見し、知ることで、一つの可能性としてあの竜のような生き物の正体もわかるかもしれない。彼を動かしているのはまさに冒険心のようだった。

 彼がこのときやっている行いは、危険であるとしかいえなかった。叫ぶ者は空を飛びながら、「何か」を森のなかに落とした。そうして叫ぶ者は、そのまま飛び立っていく。『飛び立っていったのだ』。しかし、かれが戻ってくることをタイラーは考慮すべきである。状況から考えて、興味があるからと近づくのは危険でしかない。周りを注意しているようにも見えない彼の行動は、村にいるような大人ではしない行動であり、自分の気持ちに素直な子供でしかなかった。

 湿った土を踏みつけて、草を折っていく。虫たちは彼を避けるように動く。彼の行動に素早く対応できない虫たちに関しては、(安全な場所で)行く末でも見守っているようだった。

 土が乾いている。足を取られるようなものではなかった。サイズのあわない、くたびれた靴は気付かないうちにひどく汚れ、彼の手も汚れていく。幹に触れたり、木の根に触れて。

 影のある場所には、きのこが生えている。全体的に茶色で、傘の表面は湿っていた。平らな一枚の皿にも見える――帽子のような箇所に、きれいな雫がついている。

 黒いアリが木の幹を歩いては、さらに高い場所へと上っていく。そこにはきっと目的があるのだろう。森のなかを突き進む少年のように、冒険心が働いているのかもしれない。より高い場所に上って、その眺めを楽しみたいのかもしれない。広々とした、空間がそこにはある。ひょっとすると場所によっては、豊かな草木が邪魔か。あるいはアリも――彼と同じで――いったい「何が」空から落ちてきたのか知ろうとしているのか。

 タイラーは足を止めて、一匹のアリを一瞥する。彼は小さな虫をとくに気にはしなかった。休憩のつもりだった。思っていたよりも落下地点が遠いように感じた。身体に疲れがあった。

 楽な道のりではなかった。だから、疲労している。タイラーはひとまず呼吸を整えた。おそらくあとすこしで。

 一層に森が深くなる。自分は元の場所に戻れるのか。彼はそんなことは考えない。彼はそこに行ってみたいという雑多のない気持ちで溢れていた。未来についてはそれだけで頭のなかを満たし、その後のことなど考えない。目の前が光り輝き、眩しかった。

 タイラーはおよそ「この辺りだろう」と思える場所に到着すると、歩みをほんのすこし遅くした。木の根に手で触れて、その上を飛び越える。ここに落ちたはずだ。きっと、そう。たぶん、そう。彼は首を回して、注意深く探す。

 光沢のある葉が淡い光を反射している。草木が豊富に生い茂っていた。そしてそこで、彼は瞬時に奇妙なありさまを発見する。日差しを求めるように地面から盛り上がった植物にぽっかりと小さな穴が開いていた。そこは目立つように黒く、薄暗いものになっている。タイラーの目には、つい先ほど「何か」が草木を押し潰したようにしか見えなかった。(人ではない)真ん丸の口のようでもあった。あからさまに異様な場所に、穴が空いている。

 彼は一時的に足を止めると、周囲を見回した。誰かいるのではないか――そんなことを彼が考えたわけがなく、たんに近づくのに心構えを必要としていた。草木を掻き分けたあとのことを考えていた。そこには「死体」があると思われる。空からいきおいよく落ちていったのは、傷だらけ、血だらけの死んでしまった動物だろう。叫ぶ者が、両手で抱えるような枯れ木を運んでいたとかでなければ。

 タイラーは唾を飲んだ。顔や首に汗を感じる。そして彼は盛り上がった草木の前まで近づくと、緑を掻き分けていく。土の匂いに混じって、葉のにおいが舞った。

 彼は葉のにおいを嗅いで、頭でも殴られたような感覚を覚えた。新鮮な草といえばそうだが、「森」のさらに奥へと飛び込むような。森のなかに自分が入っているようだった。森の一部になろうとしているようにも思えた。そうか、口のように見えたのは。

 タイラーは呼吸をする。途中まで息を止めていたが我慢はできなかった。彼は大きく息を吐き出すと、足を伸ばす。うっすらと、蛇が飛び出てこないことを願う。

「これ、か?」

 タイラーは穴のあった場所に訪れて、首を傾げる。それは彼が想像していた状況ではなかった。まずはじめに、草木の上に落ちていたのは死体ではなかった。見たところ、肺を動かしてまだ息をしている。そのことからもう分かるだろう。枯れ木ではない。動物だ。

「竜だよな?」

 タイラーはその存在をまったくと言っていいほどに見慣れたものではなかったが、お話に出てくるような『竜』であると判断する。背中には翼が生えている。皮膚は鼠色のように見えて、それからあまり硬そうには見えない。顔のかたちはどちらかというとごつくはなく、ほっそりとしている。尻尾は長くはない。手足は短い。爪もやわらかそうだ。身体をまるめている。

「子供っぽいな。竜の」

 タイラーは草木をさらに押し込むように広げて、足場を確保する。距離を縮めた。

 竜は目を閉じている。穏やかな呼吸をしている。

「怪我をしている感じは、ないか?」

 竜は傷付いているようには見えなかった。緑色の床に、赤い血が流れているようすもない。もちろん一見だけではわからないことではある。これ以上は、お腹の周辺を見るためにも身体をひっくり返したり、翼を広げてみないと、正確な状態を知ることはできない。

 とはいえ、彼は「竜」にすぐに触れようとはしなかった。様々な感情が混じっていた。

 すると、タイラーが口を開けて感情の整理をしているあいだに小さな竜が目を覚ました。竜は翼を一瞬広げて、元に戻す動作をとる。身体が意思とは関係なく動いたようだった。それから、目を開けて、頭を上のほうに移す。

 タイラーは竜と目があった。

「ぴゃー」

 竜はそのようにはっきりと鳴いた。か弱さといったものは一切ない。眩しい日差しに向けて、鳴いているようなぐあいだった。高い音であり、澄んだ音。

 タイラーはすこし間を置く。「平気そうかな?」

 竜は三秒ほど待って、もう一度鳴く。

「お前、かなり高い場所から落ちてきたんだぞ。よく平気でいたな。死んでいてもおかしくないのに」

 ちょうど上であろう場所には、青い空が見えている。雲はなかった。ほかにも、(生き物とか)とくべつなものはなにも見当たらない。

「ほんとうに平気なんだよな?」

 竜は鳴かなかった。じっとみつめている。

「ああ、どうしようか」

 タイラーはそう言うと、周りに目をやる。見晴らしの悪い場所だった。大きな木が集まるようにこの空間を囲っている。下はやや背の高い植物が密集していて、人が歩くようなところとは言い難くとても歩きづらい。タイラーは周辺を眺めながら考える。触るのにはすこし勇気がいる。触っても平気なのか。痛めつけようとか、そういうつもりはない。だが「相手がどう思うか」は立場的にも。

 というか、もし触って、俺はこいつをどうしようというのか。何をする気だったのか。ここまで来て。

 彼にはこの先どうすればいいのかわからなかった。

 竜はそれでも鳴く。音の調子を変えていた。呼んでいるかのような。

「あんま鳴かないほうがいいぞ、ここは。なにが来るかわからない」

 竜は理解したわけではないように思えた。頭を下げて、今度は草に関心を寄せている。

 タイラーはしばらくそのようすを眺めてから決心をすると右手を伸ばした。人差し指を立て、その指先を竜の顔に近づける。恐がらせるようなことにはならないように注意した。驚かすような行為はどう考えてもやめたほうがいい。

 竜は警戒するようすをみせなかった。そして恐がる素振りもみせない。竜の子供はただただ人間の子供の指を不思議そうに見つめていた。

 竜は口を開けると、舌を出した。彼の指先を舐める。

 タイラーは指先に「舌の小さな粒々」を刺激というかたちで情報を得た。竜の舌は粘り気はなく、うすく水気があり、表面に小さな突起がいくつもあった。全体的にさらさらしていた。

「立てそうか?」

 タイラーは問いかけた。小さな竜は舌を伸ばして、舐め続けている。ときおり口で咥えることもあるが、腕を引っ込めるほど痛くはない。

「飛べそうか?」

 竜は彼の言葉を理解しているようすはない。首だけを動かして、身体は起こさなかった。

 竜は指先を舐める行為をやめる。

「家まで来るか? こんな森のなかだと、一人はつらいと思うぞ」

 竜は見つめ返すと、一声だけ鳴く。それは、タイラーには返事のようにも聞こえた。

 ううん、と彼は唸る。「よし、わかった。家に連れていく。お前が、動こうとしないのがわるい」

 タイラーは竜をこのまま森に置いていくのに気が引けた。村外れまで来たはいいが、結局なにもなかったということにしてしまえば、彼は一人で帰ることにはなるだろう。しかし、この小さな竜を、この状態で何もすることもせず、放ったままにしておくのはどうしても彼は自分が許せなかった。叫ぶ者が、その足で掴んでいた。そうして空から落ちてきた。始めは、すでに傷だらけで血だらけの死体ではないかと思っていた。それなのに、こいつは今のところちゃんと息をしている。それなのに、飛び立つようすをみせない(飛び立てないだけなのかもしれないが)。翼はある。身体は小さいが、鳴くことだってできている。

 狐に襲われたりなど、他の動物に虐められるかもしれない。それに、こいつはひとりで食べ物を取れるのだろうか? ここでじっとして、結局死んでしまうのではないのか。

 タイラーは腰を落として、慎重に腕を伸ばして、一匹の竜に触れた。彼は鼠色の皮膚に両手で触れて、「かたくはないな」と感想を浮かべる。とくべつ柔らかいわけでもなかったがそう思った。そして彼は、竜の繰り返し鳴くようすを見て、「暴れないでくれよ」と願うようにやさしく口にする。嫌がっているようには見えないが、こうも繰り返し鳴かれると、とても酷いことをしているのではないかという気持ちになる。

 俺は、今、とても悪いことをしているのではないだろうか。タイラーはふとそう思った。

 その後、彼はひとつ恐れを感じた。もしかして、この竜はどこか骨を悪くしたりしているのではないだろうか。高い場所から落ちてきた。草の上でまるで動こうとしなかったのは、そこに理由がある。暴れはしないが、鳴いている。

 竜は鳴き止んだ。最後に「ぴゅー」とだけ鳴いた。

 タイラーは懸念を抱きながら竜を持ち上げると、可能な範囲で再び念入りに状態を見た。傷は無いように見える。身体のどこからか血が出ているような感じはない。骨は。ほかには。

 タイラーは確かめていった。さりとて、少年の知識には限界があった。


 彼は光沢のある葉が密集する場所から、竜を大事そうに抱えて歩き出した。子供の手にはその竜はいくぶん大きいが持てないことはない。

 さきほど踏んできた道は、足場が安定しないのは変わりはなかった。どうにか休息として立ち止まっていられる場所を見つけると、思い出したように竜が鳴く。タイラーは口を開かなかった。ずいぶんと静かだったな、とそのようすを見ていた。

 竜は頭を動かして、周辺を見回している。高さが変わり、位置が変わったからか、今度は頭を下のほうに向けてじっくりとその景色を眺めている。

 竜にとっても見慣れない場所なのだろう。

 タイラーは声を聞いてから、来た道を戻ることにした。それが安全だと彼は考えた。直感だけに頼り、下手に帰り道を間違えてしまえば、家に戻れなくなる。覚えていたはずのぼんやりとした記憶だけが頼りだった。

 なかなか記憶が思うようには鮮明になってくれない。心細い。

 しばらく歩き続けていると、竜が鳴く。微妙な音の違いに、タイラーは立ち止まった。

「もうすこしだけ我慢してくれ」と彼は言う。

 竜は答えなかった。頭を動かして、別のほうへと向けた。

 近場の草陰から物音がする。それは唐突だったとしか言いようのない訪れだった。激しく葉っぱが揺れる前までは、動物の気配なんてものはなかったはずだった。

「エマ」

 草陰から出てきた少女は、自分の頭についた濃い緑色の葉っぱを指で摘まむと取り除く。「タイラー、帰ろう」と言う。

「お前、なんでこんな場所に」

 いまだに、彼がいる場所はタナラ村から近くはない。

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