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 道を歩き続けることはそれほど難しいことではなかった。小さな岩があったりと平らではない地面であるのは森に入る前から知っていた。良く育った木々のため、見通しの悪い場所でもあり、下手すれば帰り道を見失う。とはいえ、村に住んでいるものであれば、このぐらいはどうという事はない。この辺りの地形や地理に詳しいのであれば、そうとう森林の奥深くに行くでもしないかぎり、一度ぐらいは「散歩で来た」といったような経験があるのではないだろうか。

 空には白い雲がうすく見受けられた。視線を上に移してみると、背の高い木々の隙間からそのかたちがわかるぐらいにははっきりと見える。見覚えのある雲のかたちだった。およそ一時間前ぐらいだろうか。家を出ていくときに見た覚えがある。タイラーは確信のあるものではなかったがそう思った。手間が掛かりそうだなとひとりで心に浮かべて、それを一目してから、そのとき歩き出していた。

 緑色の葉が、頭上で音を立てている。少年はその耳で聞いた。そして彼は森のなかの道から逸れるように、右側のほうに目を向ける。鼠色の大きな岩があった。丸みのある形状、その表面からは沈黙と不屈が含まれているように感じられる。滑らかな岩は、一本のこれまた大きな木に寄り添うようにして、隣の幹の色合いや土の硬さを調べていた。

 タイラーは前を歩く彼女に目をやる。頭一つぐらいほど身長が低い。赤毛、肩幅も狭く、柔らかそうな腕とその手が交互に揺れていた。

 彼は声をかける。「思い出せそうか?」

 タイラーはまちがいなく目の前にいる少女に問いかけたつもりだった。だが、彼女は歩みを緩めず、口を開くようすもない。聞こえていない、ということはない。

 彼は息を吐いた。思い出せそうか。さあ、どうだろう。そんなところか。彼は考えて、とりあえず追いかける。勢いでこんなところまで来たけど、もっと奥に行く気なのだろうか。

「見つかりそうにはないな」

 タイラーはこの先の少女の予定を知るつもりで口にした。このまま道を歩き続けるのもいいだろう。行き先があるわけでもなくタナラ村から離れ出してはいるが、このぐらいの距離であれば帰ることはできる。ここまで走ってきたのではない。ほんとうに軽い旅のようなものだった。

 すると、エマが足を止めた。「うん」と彼女は言う。

 やっと止まった。タイラーは思った。

「どのへんで無くしたのか、そういうのもわからないのか?」

「うん」

「そっかあ。まあ落としたら、そんときに気付くもんな」

「どこにいったのかな」

「それはなあ。諦めるつもりはいっさいないんだよな?」

 エマは答えなかった。悩んでいるようには見えない。やめるつもりも無いように思える。

「いつ無くしたのか知らないが、見つかるとは思えないんだよな」

 タイラーはそう言って、エマを見つめる。そしてすぐに、探していたいんだ、と彼は思った。「要らないことを言ったな」と、森の奥を気にする。

 もうやめよう、と彼は遠回しに言いたいわけではなかった。無くした物があるなら、見つけたい。彼もエマの気持ちを理解しているつもりではいる。年齢がそこまで離れていないというのもあるが、彼女のその気持ちをよく理解しているつもりではいた。しかし、森のなかで『物を無くした』というのはさすがに。

「なんだ?」

 エマは、彼を見つめていた。表情からして、怒っているようではない。

 少女はなにも言わず、その場で振り返り、再び歩き出そうとする。

 タイラーは慌てるように「エマ」と名を呼ぶ。「いつ無くしたのか、それもわからないのか?」

 彼女はなにも答えてはくれなかった。聞いて、足を止めている。名前を呼んで、止まってくれるだけでもありがたいものだ。もうちょっと言葉数が多くてもいいものだが。

 女子って、もっと、うるさいイメージがあったんだけどな。今年で十歳の彼には、どうしてもエマの性格に慣れないところがある。

「もうすこしだけ、探すか」とタイラーは言うと、空を見上げた。「だが、暗くなる前には帰るぞ。タイロンおじさんが怒るから」

 エマは首を縦に振る。その意見には賛成のようだった。怒られたくはない。

 二人はそうしてタナラ村付近の道を辿る行為を再開する。

 その後、タイラーはなんどかと後ろのほうを気にした。どこで切り上げるべきか、危険は無いか、そのようなことを考えていた。年長である自分がしっかりしないといけない。エマはまだ子供だ。

 すると不意に遠くから、茂みを掻き分けるような音が聞こえてくる。風が木々の隙間を抜けて枝の先を撫でるように吹いているだけかとも思ったが、どうやら違ったようだ。黒っぽいイノシシがいる。見た目は大きくはない。しかし子供のようには見えなかった。

 この森に凶暴な生き物はいない。たしかそのはずだ。この森で注意するとしても、熊と蛇ぐらいか。だからイノシシぐらいなら大丈夫。この距離なら、こちらが近づかないかぎり、あっちも向かってはこない。

 時々、村に熊が現れることがあるんだっけか。タイラーは思い出すと、エマとの距離を縮めた(すこし離れすぎていた)。その場面を見た経験は一度もないが、そのようなことがあるらしい。だから、その時はいつも大騒ぎになるんだとか。

 エマは大きな熊が村に来ることを知らないだろうな。

 少女が歩みをやめた。一本道だったはずが、彼女の前で二手に分かれていた。

「どっちに行く?」

 タイラーは問いかけながら、エマの背中を見つめる。なにか見込みがあって、歩いているわけではないのは知っている。どちらの道を選ぶのだろう。片方を迷いなく選択すれば、もしかしたら目的の物を発見できると思ってもいいのかもしれない。

 片方は森の奥に向かう道だ。もう片方は、タナラ村に向かう道である。

 エマはさらに森の奥へと向かう道を選んだ。赤い髪の毛が揺れた。

「そっちにいくのか?」

 タイラーとしては、その選択は予想していなかった。村から離れるのはいくぶん気が進まないところがある。もちろん「構いはしない」といえば、そうではある。といっても、呑気でいられるようなことではなかった。その後ろを追いかけるように彼は続く。

 エマが振り返った。

「どうかしたか?」やっぱり道を変えるのか?

 エマは口を開きかけて、閉じた。そして、もう片方の道を片手で指さす。

 タイラーは少女の人差し指が示す道を眺める。「あっちに行くのか?」と言った。

 エマは返事をしない。腕を静かに下ろした。

「じゃあ、いくか」

 エマは首を横に振る。強い振り方からして違うようだった。

「あ、なんだ?」

 疲れた。そういうのではないよな。彼は頭を働かせる。おんぶをしろ、と言っているようにも見えない。お腹が空いた、でもないだろう。

 エマは今度は森の奥に向かう道を指さした。

「そっちにあるのか」

「ううん」とエマは言う。

「違うのか」

 タイラーは頭のなかがこんがらがって整理がつかない。つまり、どういうことだ?「ええ、なにがしたいんだ?」と彼は問いかける。

「タイラーはあっち」エマはそう言うと、村のほうを指さした。

「ああ、なんだ。手分けをしようということか」

「うん」

「それなら、最初からそう言ってくれよ」

 何がしたいのか、はっきりと伝えてくれたほうが楽だ。しかしたとえここでそのように告げたとしても、あまり意味はないのだろう。彼は不満を抱きながらそのように思った。エマがどのような女の子なのか、それはもう知っている。村にいるような子供とはすこし異なる。走り回るような姿が、彼には思い浮かばなかった。けらけらと笑っている彼女の姿もうまく浮かばない。エマは静かにご飯を食べて、静かに歩き、静かに言葉を話して、(ずっとではないが)傍から離れようとはしない。静かに布団で眠る。タイラーは彼女の面倒を見るにしても、世話が焼けるのか、そうではないのか、判断に難しく微妙な位置にいた。彼には妹なんていない。兄弟はいない。村には同い年ぐらいの女の子はいても、エマのような(行動を取る)女の子はいなかった。

 不満をぶつけたところで、自分がすっきりするだけだ。それに自分が問いかければ、相手は答えてくれる。多少手間がある、というだけのこと。

 彼は考えた。それから「エマ」と呼ぶ。「俺がそっちにいく。お前は、村のほうへ行け。きっと、そのほうがいいだろ」

 彼女は間を置いた。「エマが村に?」

「お前は、ここに来て長くはない。一人で、そっちに行かせるのはダメだろ」

「だめ? そう」

「そっちは村から離れるほうだから、タイロンおじさんに怒られる」

 うん、と彼女は言う。理解したのか分かりづらい反応だった。「わかった」と彼女は最後に言う。

「こっから村への道はわかるよな」

「わかる。ここまっすぐ」

「一人で平気か?」

「タイラーは?」

「俺は平気だよ。詳しいからな、この辺ぐらいなら」

「そっか」

 エマは頷いてから、片方の道へと歩いていく。首を動かして、森のなかに目を向けた。

「森に入るようなことはするなよ」

 タイラーは注意だけをすると、もう片方の道へと歩いていった。


 木と木のあいだの間隔が少しずつ狭まっていく。何もかも敷き詰めるといったような密集するほどではないにしても、豊かさのわかる色合いに草木が増えてきた。村から徐々に離れると、どうしてここまで森のようすが変化していくのか。それはまるで村を中心に自分たちの活動する範囲を控えているようだった。あそこには村がある。だから、わたしたちはここにいよう。ここがわたしたちの生活していく場になるのだ。そうした感じで。

 タイラーはひたすら歩き続けた。一人で森のなかを歩くのは心細いところがある。道はいつまでも続いていく。しかしながら、「いますぐに帰ろう」と焦るほどではなかった。彼はそんなことよりもエマの落とし物を見つけることに集中していた。せっかくあったのに、気付かなかったというのは避けたい。

「何を探しているのか、教えてはくれないんだよな」

 タイラーは森のなかでひとり呟いた。とてもさびしい独り言だ。エマの無くしたものを見つけようとしているのに、彼はその「無くしたもの」が何であるのかを知らない。それなのに探している。エマはなにひとつ教えてはくれなかった。両手を広げて、上に乗せられる。おそらくそんなところ。彼が尋ねて、少女が取った行動はそのぐらいだった。

 人形でも無くしたのかな、とタイラーは考える。エマが、人形? あのエマが人形か。

 彼は足元に目をやると、あるものを見つけた。白色の小さいかたまりだった。

「たばこか?」

 タイラーは火が消えて随分と時間が経過していそうな古びた煙草を拾う。指でつまんだ。彼は背を伸ばしてから、土を払い裏返したりして観察する。

「これ、なわけないよな」

 おじさんの煙草ではなさそう。タイラーは潰れたそれをしばらく見てから、ポケットにしまった。そのまま捨ててもよかったが、タイロン・シモンズに渡しておいたほうがいいだろうと考えた。こんなタバコが森のなかに落ちていたんだけど、これって村の人が吸ったもの? おじさんではないよね。

 複数の鳥の鳴き声が聞こえてくる。騒がしさのある音だった。おしゃべりをしているというよりは叫び声のように聞こえる。恐怖が混じっていた。

 タイラーは空を見上げる。数羽の鳥が、後方から飛び立っていった。

「なにをそんなに急いでんだ」と彼は呟く。それは疑問にたいする問いかけのようでもあった。

 次に、先程の小さな鳥とは異なる鳴き声が聞こえてきた。叫ぶ者が、空を飛んでいる。上のほうから降り注ぐように聞こえてきた。

 タイラーの頭上を、翼を広げた物体が通り過ぎて行く。

「でかっ」彼はそう言って、身構えた。咄嗟に姿勢を低くした。「なんだあれ?」

 子供よりも大きな生き物はそのまままっすぐ飛んでいく。森の木々が揺れるのも、動物たちが騒がしくなるのも原因があるようだった。

 タイラーは姿勢を戻して、遠目に見る。走って追いかけようとはしない。だが、正体が何であるのか知る必要があると彼は考えた。おそらく遠くから見ているだけでは、わかるものではないだろう。この森にいるような生き物であれば、彼もある程度は知っている。タイラーは、あの叫ぶ者をこれまでに森のなかで見たことがなかった。それなら、「少し眺めた」というだけでは、正体がわかるようなものではない。竜のようには見えた。

 叫ぶ者は、その足で獲物でも掴んでいたようだ。足元から黒い影が落ちていく。

 森のなかだ。タイラーは興味に逆らえず、落下地点を目指す。

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