終.

エピローグ1


 暖かい、といよりは蒸し熱いなと感じる今日日、ねっとりと肌にまとわるぬるい風が夏の入り口を思わせる。しかし僕の五感は舌先に集中砲火しており、不快指数を感じている暇はなかった。僕は一か月ぶりに堪能しているコロッケパンの特濃ソースに舌鼓を打っていた。


 僕は事の顛末を明智に話した。すると彼女は労いを込めて本日のランチを奢ってくれると言い出した。あいにく僕は、食に関して遠慮と言う概念を持たない。現在進行形で目に涙を浮かべている「だから、うちの学校のパンそんなにうまくないだろ」屋上の塔屋の壁を背にしながら、明智はキシシと呆れたように笑っていた。


「それにしても」一時の至福を胃袋に収めたのち、僕はコンクリの地面に寝そべって、両腕を枕にしながらこぼす。


「松喜はなんで、あんな考えを持つようになったんだろう。全ての人間の自我を排除して、停滞の世界を創ろうなんて」


 正直なところ、たった一校の学園を支配したところで彼女の野望が果たせるとは思えない。彼女は世界を変えると言っていた。もしかしたら今回の騒動は、松喜にとっての実験だったのではないだろうか。一つの集団を操ることが可能なら、国を牛耳る政府機関を操ることも可能なはずだ。それはつまり、国全体を支配することと同義になる。そういう考えに至った彼女は、まずはモデルケースとして自分が通う高校に支配の力を及ばせて――


 まぁ、すべては僕の憶測にすぎない。どのみち言えることは、一介の女子高生はそんな考えをフツウ持たないってことだ。一介の女子高生である彼女が『停滞』の心魔を産みだしてしまうほど苦しみ、ソレを喰って支配の力を手に入れようとまで思い詰めるに至ったきっかけ。

 それは一体、何だったのだろうか。そういえば、お父様がどうとか言っていたような――


 僕が思案に耽っていると、隣に座る明智が「オレも詳しくは、知らねーんだけどさ」そう前置いたのちに。


「アイツのトーチャン。セージカのセンセーだったんだよ。若手期待のホープみたいに言われて、一時は周りから祭り上げられていて」


 僕はムクリと上体を起こした。明智は地面に目をやったまま、その顔はどこか物憂げだ。


「けどよ、汚職事件だかなんだかのスキャンダルがあって、みんなから、手のひら返すみたいにバッシング受けたんだとよ。そんな事実はないって必死に訴えたんだけど、聞いて、くれなかったみたいで。そのまま失脚しちゃって、メディアにも顔、出さなくなって」


 明智がユラリと僕に目を向けた。いつになく真面目な彼女の顔は、いつもの幼さが残っていない「これは、オレの想像だけどさ」神妙なトーンの声で。


「もし本当に、そんなスキャンダルがなかったとしたら。例えば、松喜のトーチャンの人気を妬んだ奴らのジョーホーコーサクだったとしたらさ。松喜のトーチャンは、セーレンケッパクなのに、ハメられたってことになる。本気でみんなを幸せにしようって、そういう考え方でセージカになったのに、その気持ちを無下にされたってことになる」


 明智が視線を移ろわせた。再び虚空を見つめて、寂しそうに目を細めて。


「もしマツキが、自分のトーチャンがボロボロになっていく姿を、希望を失っていく姿を間近でずっと見せられてたとしたらさ。……だったら、変化なんて求めない方がいい。誰かが傷つくくらいなら、何も変わらない世界の方が幸せだって、そういう考え方になっても、おかしくないんじゃねーかなって」


 僕は思い返していた。僕たちに心魔を斬られたあの日以来、学校に来なくなってしまった松喜の、様々な顔を。


 首を斜め四十五度に傾げながら、女神のように微笑む松喜。だるそうに髪をかきあげながら、すべてを蔑むような目をしていた松喜。金切り声で、自らの正義を叫びあげていた松喜――


 彼女は演技が得意だ。複数のペルソナを使い分ける彼女の素顔を、僕に判別することはできない。でも、あの時の。夕暮れの歩道路、一緒に下校していたあの時の松喜。


 ――その人にとっての正義は、だれに奪われるものでもないから――


 あの台詞だけは、彼女の本心だったんじゃないかな。


「今度さ」声をあげたのは僕だ。明智がこっちを見る。

「松喜の家、行ってみようよ。彼女の話、僕たちで聞いてあげようよ」


 そう言うと、明智は少しだけ戸惑ったように。


「……オレはいいけどよ。お前は、アイツを恨んでないのかよ。お前、アイツにひどい目に遭わされたんだぞ」

「まぁ、全身がまだちょっと痛むのは事実だけどさ。人を憎むのって、それなりに疲れるし。このままお別れ……、みたいになったら、僕も釈然としないからさ」


 僕が口元だけで笑うと、釣られるように明智もキシシと、満足げに歯を見せた。


「ヤギラって、お人よしだよな」彼女の言葉に、僕はかぶりを振って。

「僕なんかより、明智の方がいい奴だと思うよ。キレやすいけど」

「誉めながらディスすんじゃねーよっ」明智が僕をこづく。軽口が風に舞った。


「そうだ。ヤギラって今日のホーカゴ、ヒマか? オレ、今日はカーチャンのパート休みで家事やんなくていーから、クラスの連中とゲーセン行こーぜって話してて」


 明智は最近、ゲームを通じてクラスに溶け込んできている。一部のヲタク系男子たちがプロ級の腕前を持つ彼女を神格化しており、明智もまんざらではない様子。


 明智は教室でもよく笑うようになった。彼女の仏頂面はついぞ見かけない。人知れぬ孤独感から解放された彼女は、持ち前の爛漫さを存分に発揮しているようで、活き活きとしていた。


「ゴメン、今日はちょっと予定があって。また今度誘ってよ」

「んだよ、ツマンな――」


 バタンッ。大仰なドアの開閉音と共に、第三者が屋上の空間に現れて。


「明智クンッ! こんなところにいたんだねッ!? さぁ、今日こそは僕のお手製おにぎりをキミの可愛らしい口の中に――」

「ゲッ! ほ、ホージョー! ……わりぃヤギラ、オレ、逃げるわ! また後でな!」


 言うなり、脱兎の如く立ち上がった明智が、雌猫の如く駆ける。


「だからキショイっつーの!」北条にドロップキックをかましたのち、明智は彼の脇を抜けて走り去った「――ぐぇーっ!?」北条の断末魔が晴天に轟いて、彼の五体はコンクリの地面に転がり落ちる。


 ドンマイ。僕は心の中でそうこぼしつつ、しかし存外、猛烈な彼のアプローチにいつかは明智の方が根負けするかもなと、あらぬ妄想にほくそ笑んでいたりもする。


 さてと。僕の心は彼らの茶番にほだされてはいるが、しかし忘れてはならない任務もある。

 僕にはまだ、やり残したことがあるんだ。



 閑静なマンション廊下がシンッと静かで。並ぶ鉄製のドアがなんだか不気味だった。人の住まう場所とは思えないほどに気配がない。でもそれは、僕の錯覚によるところなのだろう。


 『桐原』というプレートが掲げられた201号室の前。僕が無機質なインターフォンのボタンを押しやると、滑稽なブザー音が鳴った。少し遅れて『……晴ッ!?』デジタル信号に変換されてもなお、焦りがにじみ出るような声が機械の中から。


 咲月は、モニターに映る僕の姿を視認したようだ。すぐにドタドタと足音が聞こえてくる。

 ガチャン。大仰な開閉音と共に飛び込んで来た咲月の顔面は蒼白で、僕の顔を見るなり、見る見るうちにひしゃげていく。


「晴……、晴……ッ!」咲月は脇目も振らず僕に抱き着いた。僕の胸に顔を埋めて、僕の腰に回す腕を強くギュッと。


「晴……、この前の電話から……、連絡取れないし……、あ、あんなこと言っていたから、私、もしかしたらって、怖くって――」


 咲月の声は震えている。その声は安寧というより、脅迫観念にとらわれているように聞こえた。「咲月」僕は彼女の名前を呼んで、彼女の肩に手をかけた。そのままゆっくりと前に押しやり僕の身体から彼女をはがす。


 咲月が僕を見上げた。涙をボロボロとこぼす彼女の顔が、歪む。


「やっぱり、私のせい?」懇願するような声が「晴があんなこと言うのは、あんな風に考えちゃうのは、私のせい、だよね?」懺悔するような声が。そして。


 彼女の『贖罪』が開始される。


『ゴメンナサイ。私、良い子になるから。晴に心配させるようなこと、もうしないから。だから、ゴメンナサイ。私、晴がいなくなったら、何にもできない。生きて、いけない。私、晴のためだったらなんだってする。だから、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ――』


 今ならわかる。その言葉は咲月の本質じゃない。

 膨れ上がった罪悪感から逃げるための、一時しのぎの謝罪。

 咲月がやるべきことは懺悔ではない。咲月は僕のことなんか考えている場合ではない。


 咲月は、自分自身が本当はどうしたいか、それに目を向けるべきなんだ。でも彼女が足を一歩前に踏み出すのを、ずっと邪魔している奴がいる。

 僕は咲月の背後ろに目を向けた。宙を漂う怪異の存在を視認する。


 『ソレ』は丸みを帯びていた。白い毛で全身が覆われており、二本の角を持っていた。手足は短く、顔面は黒く、羊のような為りをしていた。赤く充血していた眼球からは、血のような液体がボタボタとこぼれている。


 一つ、怪異が口を動かすたびに咲月がモノを言う『ゴメンナサイ』と。


「――ソレが、『贖罪』の心魔かな?」


 すぐ近くから声がした。ひょうひょうと、淡々と、さざ波一つ立たない等間隔な発声。

 声がする方に目を向ける。マンション廊下の手すりを背もたれにした式部が、部屋の奥に狐面を向けていた。彼女の右手には刀が握られている。僕はコクンと縦にうなづいた。


 僕の眼前の咲月は虚ろで、ボーッとしていて、式部の存在に気づいていない。というか今の彼女は、たぶん何も認識できていない。『ゴメンナサイ、ゴメンナサイ』壊れた様にそう繰り返すばかり。


 式部がゆったりと、音もなく歩みを進める。僕と咲月の横を抜け、怪異の前で止まる。

 徐に右手を後ろに引いた彼女が、一点に、刀の切っ先をまっすぐに怪異に向けて――


「御心、頂戴」言うなり、素早く前方へ突き出した。

 刀が怪異の眼球に突き刺さり、奴の身体を貫通する。


『ゴメンナ、サ』ボタボタと、血のように赤い液体が噴きあがり、同時に怪異の声も停止する。

 微動だにしなくなった怪異は、ピクピクと少しだけ全身を痙攣させたのち、やがてフッと、紫色の蒸気と共に散りゆく。

 咲月をずっと苦しめていた『贖罪』の心魔が、あっけなく消失した。


 グラリ。僕の目の前の咲月が目を閉じ、力が抜け落ちるように崩れる。


「――咲月ッ!」僕は彼女の両脇を支えて、そのまま抱き寄せ、再び彼女の顔を胸にやった。

 強く、強く、今度こそ離さない、絶対に離すものか。そういうつもりで両腕に力を込めた。

「咲月……、咲月……、咲月……ッ!」何度もその名前を呼ぶ。

 たぶん、今の彼女には何も聞こえていない。僕の声は届かない。それでも。


「もう、大丈夫だから。お前の心を縛るものは、もう、何もないから……」


 僕は喋り続ける。鬱積していた感情を溢れさせるように。

 気づいたら嗚咽を洩らしていた。勝手に涙が溢れ出ていた。


「もう、咲月から逃げない。お前のこと、ちゃんと見ていて、あげるから――」


 彼女の黒髪を触りくしゃりと掴む。線の細い柔らかい感触が、やけに弱々しい。

 咲月は弱い。僕も弱い。だからこそ。

 逃げていちゃダメなんだ。立ち向かって、でも壊れて――、そのあとが大事なんだ。


 一切のノイズを排除して、言い訳に耳を貸さず、いかに自分のエゴと向き合うのか。

 それが、生きるってことなんだ。僕はそれを最近、とある人物から教わった。


「ゴメンナサイなんて、もう言わなくていいんだよ」


 閑静なマンション廊下がシンッと静かで。この空間に存在するのは、僕と咲月だけ。

 人知れず、『とある人物』がその場を去った事実に、この時の僕は気づけていない。

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