4-8


 一瞬の時間が永遠のように感じられた。たぶん、その場にいる全員が言葉を失っていた。息を呑んでいた。誰もが予想だにしていなかった展開に、そもそも僕自身がついていけていない。


 鎌の刃先が深々と刺さった土人形の首元には亀裂が走っている。けど、それだけだ。


 巨大な五体がのうのうとしていた。土人形の首は吹き飛んでいないし、奴の両手には未だ式部が拘束されたまま。


「フ……、ウフフフ、フフ」張りつめた空気のさ中、聞こえてきたのはやけに人工的な嘲笑。松喜が口角を吊り上げながら。


「……とんだコケ脅しじゃない。例え心魔を喰ったところで、そんな大仰な鎌を手にしたところで、あなたみたいな草食系男子の腕力たかが知れているわ。そんなんじゃ、私のかわいいお人形さん、ビクともしな――」


 そう、松喜の言う通り僕は恐ろしく非力だ。腕相撲なんか勝てた試しがない。

 だから僕だって、自分の力に期待なんかしていない。分はわきまえているつもりだ。

 疫病神である僕が人より秀でている部分なんて。


 『毒』のように腐食しきったこの、『マイナス思考』くらいなものだ。


「……えっ?」


 松喜の目が丸々と見開かれる。同時に、ジュウジュウと肉の焦げるような音が。

 先ほどまで微動だにしなかった巨大な土人形が、ブルブルと震えはじめる。鎌の突き刺さった首元が黒く濁りはじめる。やがてジワジワと、ジワジワと奴の全身が変色していった。

 ボロ、ボロボロ、ボロボロボロ。土人形の肉片が胸のあたりからこぼれ落ちはじめた。真っ黒に変色した身体の欠片がドロりと溶けだす。

 いよいよ土人形が膝をついた。奴の膝小僧のあたりがベチャリとぬかるみ、グラリ全身が揺らぐ。奴の両腕が胴体からもぎ落ちて、当然拘束されていた式部の全身は宙に放り出された。散々痛めつけられた彼女は全身に力が入らないのか、着地の体勢を取る様子を見せず、無防備な恰好で地に向かって落ちゆくばかり。


「式部ッ!」慌てた僕は慌てて彼女の名前を呼び、慌てて両腕を前に構えた。彼女の全身を受け止めようと臨んだ。而して「――ぐぇっ!?」


 非力な僕が人の身体を受けきれるワケがなかった。重力のかかった彼女の全身が僕の両腕に重くのしかかり、耐え切れなくなった僕の腕は彼女のお尻と背中に押しつぶされる運びとなる。そのまま僕は落下した式部と共に、情けなく地面に倒れ込んだ。


「……や、柳楽くん。御免。……いや私が重い訳ではないからね。決して違うからね」


 やや早口で弁明を試みた式部は立ち上がり、土人形の成れの果てへと目を向ける。式部を拘束していた奴の五体はもはや原型をとどめておらず、シュウシュウと音を立てる蒸気と、ドロドロに溶けた黒い水たまりだけが奴の痕跡を僕らに告げる。


「……触れたものを無条件に腐食させ、退廃に導く。コレが、『自棄』の心魔の力……」


 式部がこぼすように言った。自分が産み出した癖に、僕は今更ながら自分自身の力にゾッと恐怖を覚えている。


 心魔を『喰う』。さっきは無我夢中だったとはいえ、もしかして僕はとんでもないことをしてしまったのではないだろうか。


「――そ、そうだ。柳楽くん、大丈夫かいッ!?」ハッとしたような声をあげた式部が、グリンと再び僕へ狐面を向けた。そのまま彼女は僕の両肩を掴み、鼻息荒く言葉をまくし立てる。


「心魔を体内に取り込んだんだ。身体に異変はないかいッ!? 悪寒はッ!? 熱はッ!? 頭痛とかしないかいッ!?」


 ――いや風邪かよ。心の中でツッコミつつ、ちなみに僕は平静を装ってはいるが、目線は式部の胸元をガン見している。


「平気だよ。ちょっと気持ちが興奮しているくらいで。でもそれは別要因だと思うし」


「よ……、良かった」露骨にホッとした様子を見せる式部がガクリと頭を垂れて、しかしまたグッと狐面を僕に向ける。


「それにしてもよく気づいたね。憑かれた心魔を逆に支配し、使役するための『ある行為』――心魔を『喰う』っていう方法に」


「ああ」僕はのん気に後ろ頭を掻きながら「『体内に取り込む』って言っていたからさ、相応の行為なんじゃないかと思ってたんだよ。それにさっき松喜が、『喰った』とか漏らしていたしさ」


「成程ね」式部が口元に手をあてがいながらウンウンと頷いて。

「松喜?」ほぼ同時に疑問符を漏らした僕たち二人は、阿呆のように顔を見合わせている。


 そうか。そういえばそうだった。

 僕たちは松喜と戦っているまっ最中だったのだ。


「――松喜ッ!?」遅すぎる臨戦態勢に直った僕は、さきほど彼女が立っていた場所へと目を向ける。しかし彼女は忽然と姿を消していた。一体、どこに――


「変態ごっこにコレ以上、付き合ってられないわ。もう、終わりにしましょう」


 侮蔑のこもった乾いた声が遠くから。見ると、神社の入り口、石造りの鳥居の下で彼女はだるそうに立ちぼうけていた。

 彼女の背後ろ、着物を纏った怪異が残る片腕でくいっと指をうごかす。すると。


「……えっ?」


 石造りの鳥居がボロボロと崩れ落ち、瓦礫の山となったそれらが意志を持ったようにゴトゴトと動き出す。レゴブロックのように積み重なっていき、みるみる内に形状を為し――


 その図体、社殿の屋根と同等くらいの背丈を誇るだろうか。ちっぽけな松喜を守るように仁王立ちするソレは、閑静な境内にはおよそ似つかわしくないソレは。

 松喜の敵意がそのまま具現化したような、巨大な石人形だった。


 両手を広げた松喜が金切り声を上げる。


「狐さん! あなたが自分のエゴを貫くと言うなら、この石人形を斬ってごらんなさい! 私の力は万物を操ることができるの! 万物が私の考えに同調してくれているの! 私を敵にするっていうのは、この世界を全て敵に回すって、そういうことなの!」


 ふぅっ。僕のすぐ隣で短く息を吐いた式部が腰を落とし、両手で握った刀を低く構える。

 どうやら彼女は、やる気らしい。


 正直なところ。式部は勝とうと思えば勝てる。彼女のスピードがあれば、石人形なんか相手にしなくても松喜の背後に回りこむことは可能だ。そのまま本体である怪異の首を飛ばしてしまえばいい。


 それでも彼女は、松喜の挑戦を受けて立つつもりなんだ。

 奇遇だな。僕も似たような心境だ。

 僕たちのエゴで、彼女の正義を真正面から斬り飛ばしてやりたい。


「――はぁぁっ!」身体の奥底から唸り上げるような掛け声とともに式部は駆け出し、跳躍する。もちろん肉眼で追える速さではない。次の瞬間、式部の五体はすでに空の彼方へ飛び上がっていた。


 巨体を誇る石人形の、更に遥か頭上。式部の両腕が天に向かってまっすぐと伸びており、陽光に晒された切っ先がキラリ煌めく。彼女の全身が急降下を開始した。


 石人形はのっそりとした所作で右腕を振りかぶった。飛び込んでくる式部を返り討ちにする算段なんだろう。でも遅すぎる。彼女の身体はすでに、石人形の眼前にあった。


「……でりゃあああああッ!」


 式部の発声が空間に轟く。彼女は刀を思い切り斜めに斬り下ろした。


 つづけて、耳をつんざくような固い音が響き渡る。式部が振り下ろした刀は石人形の首元に命中した。空中でピタリ、彼女の五体が停止する。


 彼女は刀を振りぬけていなかった。つまり、石人形の首は飛んでいない。


「アハハハハハハッ!」勝ち誇ったような松喜の高笑い。


 標的に向かってユラリと、石人形が今度は両腕を頭上に構えた。式部の身体を叩き落すつもりなんだろう。


 松喜が叫ぶ。これでもかと、自らの存在意義を必死で誇示するように。


「私は負けるワケにはいかないの! ……私が負けたら、落ちぶれてしまったお父様を誰が救えるって言うの!? 一切の向上心を、成長意欲を、全てなくしてしまったお父様のような人間でも、その存在が許される……、『停滞』の世界を誰が創れるって言うの!?」


 今まさに、石人形の両腕が振り下ろされようとしていて。


「あなたたちの、下らない独りよがりなエゴなんて……、私が全力で潰してあげるからッ!!」


 その瞬間、僕は、僕たちの勝利を確信する。

 耳をつんざくような固い音が再び響き渡り、石人形がピタリと動きを止めた。


「――はっ……?」


 呆けたような声を出す松喜。彼女だけが今の状況を理解できていない。仕掛け人である僕はもちろんことの顛末を知っているし、式部だって、『僕がそうする』と信じていたから松喜の勝負に乗ったんだ。


 僕は片腕を前に突き出して、前かがみの姿勢になっている。僕の視線がある一点を捉える。

 僕の投げ放った死神の鎌が、石人形の額に突き刺さっていた。


 石人形の顔面が腐敗を開始する。ジワリジワリと、奴の全身がどす黒く変貌していく。

 そして式部が、女子高生らしからぬ唸り声をあげて。


「……ぬぉぉぉぉぉぉッ!」


 おそらく彼女は、両腕にありったけの力を込めている。僕の毒が、マイナス思考が流し込まれた奴の身体が、自慢の剛体を保っていられるワケがない。

 徐々に徐々に、刀の刃先が奴の首元をえぐりこんでいき。


 ズバッ。石人形の首が飛んだ。脆く腐敗した奴の頭が宙をくるくると舞い、土くれの地面に落下する。司令塔を失った巨体の首からも下もまた、豪快な音と共に瓦解した。そのまま、黒く濁った腐水へと変貌していく。


「な……、んですって――」


 松喜は体温のない顔面を晒していた。ヨロヨロと足元がおぼつかず、忙しなく動く眼球は、何かが見えているようには思えなかった。

 松喜はたぶん、自身の目の前、刀を低く構える式部の存在にすら気づいていない。


「松喜さん」式部が彼女の名前を告げる。淡々と、一切のさざ波が立たない口調で。

「下らなくて結構、独りよがりなんて百も承知さ。けどね」


 式部が右腕を水平に振りぬいた。松喜の背後、達磨のように丸い怪異の顔面が。

 真っ二つに、裂ける。


「私の初キスを邪魔する輩は、例え神様だって容赦しないよ」


 フヨフヨと空中を漂っていた小さな怪異がピタリと動きを止め、やがて紫色の気体を発し始め、ズブズブと、生ぬるい音共にその姿を消していく。

 『停滞』の心魔が消失した。松喜は意識を失ったように目を瞑り、膝を落とし、そのまま土くれの地面へと倒れ込んだ。


 どうやら戦いが、決着したらしい。


 式部がゆっくりと腰を上げ、直立に直った。カチャリ、刀が鞘に収まる音が遠慮がちに響く。


「御心、頂戴」こぼれた声と共に、式部が抜け殻のように膝をついた。


「式部ッ!?」何度目かもわからないが、僕は彼女の名前を呼んで駆け寄った。

 地面にへたり込んだ彼女がユラリ。力ない所作で僕に狐面を向ける。


「平気だよ――って言いたいところだけどね。流石にちょっと、疲れた、ね」


 ひょうひょうと喋るいつものトーンとは違い、彼女ははじめて、僕の前で弱音を吐いた気がした。僕の脳みそから思考のフィルターを介するという概念が抜け落ちる。僕は感情のおもむくままに、彼女の身体を背中から抱きしめた。ビクッ、式部が少しだけ全身を震わせる。


「……お疲れ様」


 その言葉は、あらゆる意味をはらんでいた。僕は式部紫乃という一人の女子高生が持つ強さに敬意を表していたし、同時に、彼女の存在を死ぬほど愛らしく感じていた。


「……柳楽くんも」


 僕のすぐ耳元、安寧に満ちた彼女の声がささやかれる。僕は再び、彼女の五体をぎゅうっと強く抱きしめた。式部の素肌が火照っていくの様が僕の全身にも伝う。ちなみに僕の全身も熱くなっている。だって彼女は、さらしにスカート一丁という痴女極まりない軽装だから。


「どさくさに紛れて私の胸を触ろうとか、そういうこと考えてないよね」

「心外だな。僕は変態じゃない。無許可に女性の胸を触ったりしないよ。視姦はするけど」

「立派な変態じゃないか」

「式部にだけは言われたくないね。自分だって今、興奮している癖に」


「なにおう」彼女が狐面を僕に向ける。彼女の顔が鼻先三十センチメートルの距離に。


 狐面に隠された彼女の素顔を拝むことはできない。彼女が今どんな表情をしているのか、僕は妄想するくらいしかやりようがない。でもやはりというか。


 彼女の耳は相変わらず真っ赤だし、その姿は……、まぁ、それなりに可愛くはある。



 式部紫乃と柳楽晴が協力し、松喜小百合の心魔を斬ったその場所に、第三者が存在していたことを彼らは知らない。その人物は白衣を纏っており、眼鏡をかけた無精ひげの、実に胡散臭い風貌の男性であった。彼は社殿の屋根に身を潜ませていた。三人の戦いを文字通り高見から見物していた。


 胡散臭い男が胸中で漏らす。松喜小百合の暴走は想定外、彼女に心魔の情報を与えてやったのがまずかった。こりゃあ自らの手で事を収める必要があるかなと辟易していたが――式部紫乃が代わりにやってくれるとは。やはり彼女に目をつけたのは間違いなかった。


 あと、柳楽晴。彼はノーマークだった。触れたものすべてを腐敗させる『自棄』の心魔。中々に危険な力ではあるが、近くに式部紫乃が存在する限りは悪い方向へ行かないだろう。むしろ二人はいいコンビになる。……式部紫乃に課したノルマ、四十八じゃ足りなかったかな――胡散臭い男性は幾ばくか後悔していた。でもまぁ、いいかと。


「さて」男がこぼす。グッと伸びをして、都会の空へ飛び立つ。


 まだ。まだまだだ。まだまだ心魔は増殖を続けている。このまま指をくわえているだけでは、いずれ世界中の人間が心魔に心を巣くわれてしまう。『狩る側』をもっと、増やさなきゃ。


「次は誰に、どんな呪いをかけてやろうかな」

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