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「――ご、誤解しないでもらいたいッ!?」しおらしく縮こまっていた式部がガバリと立ち上がり、例によって胸の前でブンブンと両手を振りだした。


「私はその、いわゆる変態と呼ばれる類の人間ではないっ! た、ただちょっと、フェティシズムの趣味趣向が人と異なるというか――」

 ――それを人は、変態と呼ぶのではないだろうか。


 しばらく式部は両手を全力で振っていた。顔も振っていた。でも疲れてきたのか、ふいに彼女はピタリと静止したのち、すべてを諦めた様にガックリと肩を落とす。


「……引いた?」式部が僕を見上げながら訊ねてきたので、「……いや、別に」僕はひとかけらの虚偽を含めた返事を返す。彼女はホッと露骨に胸をなでおろしたように、ムクリと上体を起こした。そのままポツポツと、遠くに目をやるような声で語りはじめる。


「私、中学までは剣道ばかりやっていてね。恋愛なんて無縁の生活だったよ。だけど……、私だって女の子だからね。同い年の女の子たちの浮いた話を聞いては、私だってと歯噛みしていたんだよ。だからね、高校に入ったら剣道は辞めて、いっぱしにオシャレして、恋人を作って――私はそういうキラキラした学園生活に憧れていたんだよ。……なのにッ――」


 式部の全身が震えだす。


 自らの狐面をむんずと掴んだ彼女は、ギリギリとソレを力一杯に握り込んでいるようだった。


「こ、こんなワケのわからない呪い、いきなりかけられて。よりによって、お面が外れない呪いだなんてさ……、一時は絶望したよ。私は一生、恋愛できないんじゃないかって。絶望したけど――」ふぅっ。すべてを吹き飛ばす様に彼女が、大仰に息を吐いて。


「どうやら私は諦めが悪い性質みたいでね。男の子と付き合うこともなく、キスの味も知らないで一生を終えるなんて、絶対に御免だよって。そう、強く思ったんだよね」


 式部が、一大決心を掲げるかの如く空を見た。台詞とは裏腹に、力強い彼女の様が何故だか神々しく映る。……いや錯覚か。

 彼女との絶対的な温度差を感じている僕はポリポリ頬なんぞ掻いており、あけすけに口を挟んだ「……もしかして、式部の心魔って――」


 式部の視線がユラリと僕に移ろった。彼女が、僕の代わりに言葉の先を読み上げる。


「お察しの通り。私は『色欲』の心魔に憑かれている。恋愛への興味が常に爆発しそうでね、あらぬ妄想に日夜心が囚われていてね。それを抑えるのに……毎日、必死なんだよね」


 ……あらぬ妄想って――式部は努めて冷静な口調ではあったが、その台詞は誰がどの耳で聞いても変態による所業だ。彼女の独白が衝撃的すぎて僕の脳は事態の把握が後手に回っている。ええと一旦、整理しようかな。


 彼女は、自分が『僕に固執している理由』を告白する代わりに、『僕がこの世界からいなくなる』と考えるのをやめて欲しいと要求した。そして唇フェチ発言をしたのち、男の子とキスしてみたい宣言をしたのち、僕の唇に一目惚れしたと宣いはじめた。


 ……。

 それって、つまり――


「え、式部って、僕とキスしたいの?」

「――ッ!?」


 ようやく平静を取り戻したように見えた式部だったが、再び全身を跳ね上げさせ、声なき悲鳴を漏らした。


「あっ」バカみたいな声を出したのは僕だ。現状を整理するために確認しただけなんだけど、我ながらあまりにもデリカシーのない発言だったなと、自省する神経くらいはさすがに僕も持ち合わせていたから。


「そっ……、そっ……、そっ――」

 ――そっ……? ――っていうかこの状況、何かデジャヴが――


 ふいに身の危険を感じた僕はとっさに身構えた。しかし。


「――そうだよっ! ふんっ!」


 ぷいっ、と。


 僕の五体は無事であった。今回に関しては、彼女からの急な一撃を受けることはなかった。代わりに式部はというと、耳を真っ赤にしながら明後日の方向に顔を背けてしまう。胸の前で不満げに両腕を組んでいる彼女は怒り心頭のご様子だ。まるでへそを曲げた幼子のような態度。いつぞやの、いたって冷静沈着に巨大なミミズのバケモノを一刀両断した彼女と今の式部が、同一人物とはとても思えない。


 僕は未だ混乱していた。混乱していたけど――昨日から僕を巣くっていた、どこか虚ろで、すべてを投げ出したくなるような感情はなくなっていた。


 僕は彼女の姿を見て、心をほだされてしまったみたいだ。

 バカ、だったんだな、僕は。


 僕がもしこの世界からいなくなったとしたら、伯父さんは、親は、明智は、式部は、咲月は――とか。そんな自問自答、する必要なかったのに。


 だって、僕がこの世界に存在している理由って、僕がこの世界に産まれ落ちた理由って、別に彼らのためってワケじゃないんだもの。そのことに僕は気づいていなかった。


 『僕に存在価値なんてない』つまり、『僕には生きる理由がない』だから――

 僕はこの世界からいなくなろうとした。『自棄』の心魔を産み出してしまった。けど。


 式部は、男の子とキスがしたいって、そんな理由……、そんな理由のために今を必死に生きている。狐面の呪いを解くために、身を投げ出す覚悟で心魔と対峙している。


 そんな、自分本位な理由で。


「式部」何の気ないように声をかけた。彼女は相変わらずつーんっと斜め上方に目を向けている「……何?」明らかに不機嫌なトーンの声が返ってきたが、構うものか。


 僕は彼女に近づき、右手を彼女の肩に置く。「えっ」虚を突かれたような声をあげた彼女がギョッとコチラを向いて、組んでいた腕を離した。バンザイのようなポーズを披露する彼女の腰に左手を回し、僕は彼女の身体を抱き寄せる。


 フワリ、髪の匂いが僕の鼻をくすぐった。


「えっ、えっ……エッ!?」


 すぐ耳元から、仰天する彼女の声。彼女の身体がビクリ、委縮する感触が僕の全身にも伝う。僕は自分の顔を彼女の肩にうずめながら、今一度ギュッと腕に力をこめた。


「式部」再び彼女の名前を呼ぶ。返事が返ってくる気配はない。でも僕は言葉をつづけた。

「ありがとう」


 あまりにもいろんな意味を込めた、その言葉を。


 僕の声を受けてか。ゆっくり、ゆっくりと彼女の全身から力が抜けていくのを感じる。

 彼女の身体は僕のソレよりも小柄で、細くて柔らかくて。少し力をこめたら折れてしまいそうに華奢で――肌を纏う感触が僕に、とある事実を告げる。


 天下無双の式部紫乃は、紛れもなく一人の女の子だ。

 それだけじゃない。彼女は、僕にとって――


「もう言わないよ」僕はそう言い、彼女からそっと身体をはがした。鼻先三十センチメールの位置、僕の視界いっぱいに狐面が映る。彼女が「えっ?」と聞き返して。


「『この世界からいなくなる』……なんて、もう言わない。考えない」


 僕は精一杯の笑みを浮かべたつもりだ。


「柳楽くん、それって……」式部が恐々と口を開き、その声が途中で途切れる。二の句を継がない彼女の代わりに、僕は少しだけ身を引き、胸の前で右手の拳を突き出した。


「敵の脅しには乗らない。式部、一緒に黒幕を退治しよう。その上で――咲月の心魔も、斬って欲しい」


 声高に僕は宣言する。僕自身のエゴに、誓いを込めて。


 式部はしばらく黙って僕を見ていた。やがてクスッと安寧がこぼれるように息をこぼす。彼女は腰に差していた刀の鞘を取り出し、右掌で握り込み、僕を真似るように胸の前に突き出した。僕と彼女の拳が触れ合って。


「承知仕ったよ」


 式部の仰々しい了解に、僕はニヤリと得意げな笑みを返した。


 狐面に覆い隠された彼女の表情を僕が知ることはできないけど、彼女も僕と同じように、満足気に口元を綻ばせているんじゃないかって、そんな気がした。



 拳を下げた僕は真顔に直った。彼女の狐面をジッと見据えながら。


「式部、僕はキミに言うべきことと、聞きたいことがある」

「……何かな?」式部が訝し気に首を傾ける。僕は駆け抜けるように声を羅列させた。


「まずは言うべきこと。僕は、キミと同じように心魔に憑かれている。マイナス思考が加速した時。自分の存在意義が感じられなくなった時――『ステロ』って。『自分自身を棄てろ』って。『自棄』の心魔が僕に囁くんだ」


 僕は一度言葉を止めて式部の様子を窺った。幾ばくか、呆気にとられたように身体を硬直させていた彼女だったが、「成程ね」やがて口元に手をあてがい思案をはじめる。


「おかしいと、思っていたんだよね。……柳楽くん、キミはこの世界から消えようとしていた。だけど黒幕はそこまで要求しなかったはずだ。黒幕の目的を『学園の支配』だと仮定するなら、柳楽くんが学園からいなくなるだけで充分なはずだからね」


 狐面がユラリとこちらに向かれて。


「だけど、柳楽くん自身の心魔がキミの心を追い詰めたのなら、納得がいく」


 そのまま腑に落ちるように彼女は頷いていた。僕は言葉を繋ぐ。


「次に聞きたいこと。式部、キミは心魔に関して、僕や明智に説明していないことがあるよね。隠していることがあるよね」


 僕は式部の様そうを舐めるように注視していた。ピクリ。一瞬だけ肩を動かした彼女がそのまま停止する。その所作で僕は、先の発言の確信を得た。


「心魔が具現化すると、憑かれた人の意志は心魔に支配されてしまう――前にキミはそう説明した。確かに、転校初日の前夜に僕を襲って来た男や、北条は、具現化された心魔に操られているように見えた、自我を乗っ取られているように見えた。……でもさ。式部、キミは『色欲』の心魔が具現化したその刀を自在に操っている。なのに、正気を保てているよね?」


 式部はなおも押し黙ったままだ。「もしかしてさ」僕は構わずに仮説の先を読み上げる。


「具現化した心魔をさ、『逆に自分が支配して』、『その力を自在に使うことができる方法』が、あるんじゃないの?」


 僕は射抜くように式部の狐面を見ていた。やがて彼女が諦めたように息を漏らす「柳楽くんの言う通りだよ」そのままあさっての方向に顔を背けた。


「私は『色欲』の心魔を自在に具現化して、操ることができる。……手順というか、『ある行為』をすると、憑かれた心魔を使役することができる。私はその過程を踏んだんだ」

「だったらその『ある行為』僕にも教えてよ。僕も自分の心魔を自在に操ることができたら、戦力になれるかもしれな――」

「教えない」


 僕の声が遮られる。式部はきっと、僕の言葉の先を読んでいた。読んだ上で僕の提言に対して強い否定を被せた。狐面がユラリ、僕に向かって再び移ろう。


「『ある行為』はね。自分の外側に存在する心魔を、内面にとりこむ危険な行いなんだ。私の場合はうまく成功したけどね。下手を打てば、心魔が肉体を侵食し、意志を完全に奪われる可能性すらある。柳楽くんにそんな賭けをさせるワケにはいかないよ」


 子を諭すトーンで式部が僕をたしなめた。確かに僕とて、あえて危ない橋を渡りたいとは思わない。でも戦いの全てを式部任せにするのもなんだか釈然としなかった。

 僕の不満げな面持ちを受けてか、式部が今ひとたび、持っていた刀の鞘を眼前に掲げる。


「安心おし。私の『色欲』に懸けて、何があっても柳楽くんは、私が守るから」


 あまりにも猛々しい彼女の語気。僕はふぅっと息を漏らして、徐に地面に目を伏せて「……わかったよ」白旗を振るようにボソリ呟いた。情けないなぁという自負は、一応ある。


 ふと、疑問がよぎった。


「式部ってさ、その刀いつも持ち歩いているよね。つまりそれって、心魔を常に具現化させているってことだよね? 疲れたりしないの?」


 何の気なしに式部に訊ねる。何の意図もなく、ただの興味でした質問だった。


「別段、心魔の力は超能力でも魔法でもないからね。ずっと具現化させていても息切れたりはしないよ」

「ふーん。でもさ、そんな物騒なモンをずっとぶら下げてたらさ、銃刀法違反で警察に職質されたりするんじゃない?」

「……柳楽くん。キミは基本を忘れているね。具現化された心魔は普通の人には視えないから。この刀も視える人にしか認知できないよ」


「あっ、そうか」なまじ自分が視えてしまうが故、時々混乱する。

「ってことは黒幕も、『視える側』なのかな」


 僕がさも当然の如くそう言うと、式部はキョトンと不思議そうに首を傾げた。


「どうしてそう思うんだい?」


「体育館でリンチを受けた時にね。僕はうっかり口を滑らせて、その刀が式部の心魔であることを黒幕に漏らしてしまったんだ。そしたら黒幕が、やはりあれが式部の心魔だったのか――って言って。だから黒幕は、刀の存在を最初から認知していたんだなって」


「ああ、成程」納得のいったように式部がポンッと掌を打つ。


 ……そうだよな。最初は僕も、狐面の方に目を取られてあまり意識しなかったけど、日本刀を常にぶら下げている女子高生って結構シュールだ。


 だからこそ転校初日のあの時も、僕は――


「あれ?」


 違和感が閃光の如く頭をかすめて、僕の意識が記憶のイメージに奪われる。


「……柳楽くん?」僕の様子がおかしいことに式部も気づいたのだろう。彼女が怪訝そうに僕の名前を呼んで。けどその声は僕の右耳に入ってそのままスルリ、左耳を抜けた。


 僕の意識は現実世界に存在しちゃあいなかった。一本の糸を必死にたぐりよせるように、僕はグルグルと思考の渦を高速回転させている。


 そうか。そうだよ。……おかしいじゃないか。

 僕はあの時、疑問を提示した。『彼女の方』は僕に返事を返した。けど――

 僕の疑問に『反応する』ってこと自体、本来ならありえないんだ。

 だって式部の刀は、普通の人には視えないんだから。つまり、彼女は――


「式部」彼女の名前を呼んで、僕は狐面へと目を向ける。僕はよほど神妙な顔つきになっていたんだろうか。式部は息を呑むような面持ちで僕を見ていた。

 僕は喉の奥から声を絞り出す。打ち震える興奮を必死に抑えながら。


「黒幕の尻尾、掴んだよ」

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