4-2


 布団で横になっていたものの、その夜は一睡もしなかった。長時間雨にあたっていたせいか身体の調子がどこかおかしい。皮膚に伝う感触が一呼吸遅れてやってくる。身体は冷え切っているのに顔の周りだけが火照っており、頭がもうろうとする。自律神経がおかしくなってしまったのだろうか。


 布団にくるまり、四畳半の暗がりで僕はただジッとしていた。カーテンから太陽の光が漏れはじめてもなお、そのまま僕は時が経つのを待っていた。


 長い間そうしたのち、出し抜けに起き出して自室を出る。リビングに伯父さんの姿はなかった。壁時計に目を向けるともう昼過ぎだ。ハンガーに掛かっている制服を触ると湿っている。あれだけずぶ濡れになったのだから、そりゃあそうだ。僕は私服に着替えて家を出た。



 僕は例の神社にやってきていた。社殿の前に設えられた木造の階段に腰を下ろしている。昨日の雨が嘘みたいな快晴だ。土くれの地面はすっかり乾いていた。


 静寂の風景。まるで静止画のような景色。時折そよぐ新緑がこれはリアリティなのだと僕に気づかせる。それがなければ、一時停止されたビデオ映像の中に閉じ込められたのだと錯覚してしまうのかもしれない。


 やがて人の足音が前方から。同時に、見覚えのある狐面の姿が。


 僕が彼女の存在に気づいたように、彼女もまた僕の存在に気づいたらしい。境内に足を踏み入れるなり、彼女は一度足を止めた。僕の来訪に驚いているのか、はたまた予期していたのか。素顔が隠されている彼女の心裡をはかるのは難しい。いつものオーバーリアクションがなければ、彼女の表面は恐ろしく無味乾燥だった。


 淡々と、式部が僕の名前を呼ぶ。


「柳楽くん」そう言って僕に近づいた式部は、一メートルくらいの位置で再び停止した。


「昨日は一体、どうしたんだい。誰にも何も言わずに一人で帰ってしまうなんて」


 でも僕は彼女の問いには答えない「式部」僕は無遠慮に彼女の名前を呼んだ。


「前に、手紙でさ。『黒幕狩り』を手伝う代わりに僕のお願いを聞いて欲しいって。僕はそう言ったよね。今日はその話をキミにしたいんだ」


 ヒューマノイドロボットのように表情の読めない式部が黙っている。やがて諦めたように息を漏らした彼女は、僕に近づき「……どうぞ」そう言うなり、僕の隣に腰をかけた。


 僕は出し抜けに語り始める。虚空を見つめたまま、まるで自分自身に問いかけるように。


桐原きりはら咲月さつきっていう子がいてさ。僕たちと同い年の十七歳。高校には行っていない。半年くらい前から、ずっと家に引きこもっているんだ。咲月は子どものころ、身体が弱くてね。学校を休みがちだった。引っ込み思案な性格もあって、友達って呼べる存在がずっとできなかった。でも彼女ね、成長するにつれて身体が丈夫になっていった。中学三年生くらいの時には当たり前のように学校に通えるようになった。だけどクラスには結局なじめなくてさ。咲月、僕に言ったんだ。高校生になったら、私も友達を作りたい。みんなのように、教室でおしゃべりとか、放課後遊んだりとか、そういうのしてみたいって。キラキラした顔で言うんだよ」


 ふいに、五感が遠く彼方に飛ばされて、脳内のイメージが僕の意識を支配する。僕の記憶の中を生きる咲月は、無垢で、あか抜けてなくて、爛漫で、同時にひどく痛々しかった。


「中学までは僕と咲月は同じ学校だった。けど高校からは別々になった。僕は地元の公立高校、咲月は東京の私立高校に。咲月ね、イマドキの女子高生になろうって一生懸命だったよ。制服の着崩し方とか、流行りの髪型とか、ネットで調べたりさ。みんなの話についていけるようにって、人気のアニメとかドラマ、いっぱい観てさ。高校に入ってはじめのころはね。咲月、楽しそうだった。メールや電話で僕にいちいち報告するんだよ。今日は誰々ちゃんとこんな話をしたとか、どこに行ったとか、なんでもないような当たり前のことをね。僕は、良かったなって、心の底から思っていた。憧れの高校生活を満喫する彼女は、すごく活き活きとしていたから。でもね。段々、咲月からのメールが少なくなっていったんだよ。直接会っても、どこか元気がないというか、無理に笑っているように見えてさ。初めての友達付き合いに疲れているのかなって、僕ははじめ、そのくらいにしか思っていなかった。でもたぶんね。咲月そのころから、クラスで嫌がらせみたいな扱いを受けていたんだと思う」


 記憶の世界に存在する咲月の顔がくすむ。

 陶器のように真っ白な肌にひびが入り、ピシッ、ピシッ。

 無機質な音を鳴らして、彼女の頬が瓦解していく。


「ある日ね。咲月が僕に電話をしてきて、でも一言も喋らず、無言で。……僕は嫌な予感がして、電話を切って彼女の家に向かった。咲月は自分の部屋でベッドの上に腰をかけて、ボーッとしていてね。彼女が履いている制服のスカートの裾が、乱暴に切られていたんだよ。それだけじゃない。咲月の長い髪が、ばっさりなくなってて、毛先もボロボロでさ。クラスの連中にやられたんだなって、僕はそう直感した」


 僕の声は震えている。でもそれに気づかない振りをする。


「アイツ、ほっそい太ももをむき出しにして、ボサボサの頭で。そんな恰好でさ。学校から電車に乗って帰ったんだよな。他人にジロジロ見られながら、でも誰も手を差し伸べられるわけでもなく、一人で街中、歩いていたんだよな」


 僕は感情を押し殺していた。自分は音声を吐き出すだけの人口知能ロボットなのだと、必死に思い込んだ。


 そうでもしないと感情が爆発して、とめどなくなってしまいそうだったから。


「でも咲月、僕を見て笑うんだよ。私の恰好がださいから、みんながオシャレにしてくれたんだよ。だからこれは、いじめとかそういうのじゃないよね、冗談の延長みたいなものだよねって、必死で、僕に確かめてくるんだよ。口元だけで笑って、でも目線がキョロキョロと安定してなくて、今にも泣き出しそうなのを、無理やり押し込んでいるように見えた。……僕さ、何も言えなかったし、何も考えられなくなった。ワケ、わかんなかったから。咲月も、咲月をそんな風にした連中も――僕と同じ人間で、僕と同じ思考回路を持っているとは思えなかった」


 口の中がカラカラに乾いている。でも僕は言葉を止めることができない。


 ずっとフタをしていた記憶。忘れていた思い。声が文章となって、テキストとなって。感情が具現化されることによって、僕は自分の胸の内をはじめて客観視することができた。


「咲月は次の日学校を休んだ。僕は彼女に黙って、咲月の学校に行ったんだ。咲月のクラスに乗り込んで、咲月を酷い目に合わせた奴は誰だ、彼女に謝れって、そう怒鳴った。そしたらさ、……すごい勢いで笑われたよ。教室にいる殆ど全員が、ゲラゲラゲラゲラ。彼氏様のお出ましかよ。とか、正義のヒーロー気取りかよ、とか。そんなこと言われてさ。なんかもう、悔しくて、ムカついて、悲しくて、情けなくて、恥ずかしくて……、僕ね。全ッ部、壊してやりたくなったんだ。少年犯罪の報道とかでさ、ついカッとなってやった、ってみんな言うじゃない。まさに、そんな感じでさ。僕は近くにいる生徒に飛びかかって、顔面をなぐりつけて、慌てて止めに入ったほかの奴らにも、椅子をなげつけたり、腕を振り回して怪我させたり、とにかく無茶苦茶やったんだよ。僕は結局、騒ぎを聞いてやってきた教師連中に取り押さえられて、警察に連れていかれた。通っていた高校は退学になった。親からは軽蔑された。……そして、僕がしでかしたことを知った咲月はショックを受けて、家から出られなくなって、不登校になった。彼女は今でも、自分を責め続けている。僕がこんなことになってしまったのは自分のせいだって、そう思い続けている」


 僕はユラリと顔を動かした。隣に座る式部へと目を向ける。


「咲月の心はね、『贖罪』の心魔に憑かれてしまったんだ。だから」


 彼女もまた、狐面をこちらにやっていた。表情の起伏を持たない紅の瞳が僕を捉えている。

 ふぅっと一息吐いたのち、僕は改まるように唇をはがして。


「式部、キミに咲月の心魔を斬って欲しい。彼女を救って欲しい。それが僕のお願いだよ」


 幾ばくかの沈黙を経て、式部が僕から目を逸らす。がらんとした境内へと顔を向けながら、「成程ね」そう漏らしたあと、いつもの、ひょうひょうとした喋り方で。


「そのお願いは、聞き入れられないかな」


 彼女はハッキリとそう言った。僕の要求を明確につっぱねた。


「どうして」と、僕がそう返そうとするよりも先に、式部が。

「『黒幕狩り』を手伝う代わりに、僕のお願いを聞いて欲しいって、あの手紙にはそう書いてあったよね?」


 彼女が再び顔をコチラに向ける。どこか有無を許さぬような声色、僕は壁際に詰め寄られるような心地を覚えて、思わず首を縦に振る。彼女はジッと僕を見据えながら。


「黒幕狩りはまだ終わってない。だからその交渉は、成立し得ないよ」

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