四.

4-1


 水晶体のレンズが捉える視界の範疇で、たくさんのしぶきが無造作に弾け、消え、また弾けて。雨音が土くれの地面をうがつ。泥が飛び跳ねる。人知れず、地がえぐられていく。


 頭の中を、独り言や言い訳がすごいスピードで駆け抜けていた。でも同時に、僕の心は空っぽでもあった。何かを言いたくて仕様がない。吐き出したくて仕様がない。でも口から飛び出る寸前で、脳みそが喉の奥をぐいっと引っ張る。待ったをかける。


 がんじがらめの感情を形にするのおよそ不可能だし、ナンセンスだ。


 ボタボタボタボタ、ざあざあざあ。無節操な雨脚は遠慮を持たない。だけど、そのぞんざいさが心地が良かった。自然法則はいつだってあるがままだし、人に選択肢とか猶予を与えない。自由っていうやつは、ふいに荷が重くなることがあるから。


 人気のない公園で一人、ずぶぬれの僕は木造ベンチにポツンと座っている。寒いという感覚は不思議としなかった。身体が麻痺してしまったのかもしれない。そういえば僕は、どれくらいの時間こうしているんだろう。制服の上着とシャツがべったりと纏わりつき、素肌と同化していく。けど不快さはなかった。むしろ、ぬるま湯のシャワーを浴びているくらいに気持ちが良い。いっそのこと、このまま身体が溶け出してしまえばいいのに。


 グルグルグルグル。僕は同じような自問自答を繰り返している。でも行きつく結論はいつも一緒だった。どんな角度から投げかけても、どんな言葉を使ってみても、一緒だった。


 もし、僕がこの世界からいなくなったとして。


 親はどう思うだろうか? 伯父さんはどう思うだろうか? 厄介払いがようやくできたなと、安心するのだろうか。


 式部や明智は、少しは悲しんでくれるかもしれない。でも僕のことなんかすぐに忘れるだろう。僕たちが共にした時間なんて一か月と少しくらい、彼女たちの人生の百分の一にも満たない。それに、僕さえいなくなれば、彼女たちは『停滞』の心魔に干渉されない。何事もなかったかのように、平和な高校生活を送れるんだ。


 咲月……、咲月は――


 僕は膝の上に置いていた両手をあげ、顔を覆った。

 頭を左右に振って、僕は自意識を消そうと試みている。でも無理だった。自分の醜悪な部分ばかりに目がいって、変えられない過去ばかりを見せつけられて。


 そもそも僕さえいなければ、咲月はあんなことにはならなかった。僕が余計なことさえしなければ、咲月は苦難を自ら乗り越え、女子高生としての尊厳を取り戻せていたかもしれない。


 でも今の彼女は、僕に依存してしまっている。すべてを投げ出してしまっている。

 僕はそれを知っていながら、彼女から逃げていた。

 手を差し伸べることもせず、突き放すこともせず。

 中途半端な状態で彼女を飼殺している。控えめに言って、最低の行為だ。


「……僕なんか――」


 久方振りに声が出た。そして思い出す。

 そういえば僕は、疫病神だったんじゃないか。

 自嘲するように笑って、ふいに顔をあげる。


 真っ黒な怪異と目が合った。


 ソイツは、ローブのような衣服を全身に纏っていた。手足はなく、フワフワと宙に浮いているように見える。異常なほどに白い顔は耳を持たず、目を持たず、でも左右に大きく裂けた真っ赤な口を持っていた。


『ステロ、ステロ、ステロ、ステロ』


 一切の環境音が遮断されていた。ノイズがかったその声だけが、サラウンド効果のように頭の中で響く。雨風が舞う園内の景色が、まるで無声映画みたいに映った。


『ステロ、ステロ、ステロ、ステロ』


 僕は存外、妙に冷めた気持ちでソイツを観察していた。妙に冷めた頭で、ポツンと思う。


『ステロ、ステロ、ステロ、ステロ』


 そっか。そうだったんだ。

 ようやくわかった。正確に言うと、気づかない振りをするのを、ようやく辞められた。


 ソイツの要求が。僕の望んでいることが。

 捨てろ。

 お前を、捨てろ。僕を、捨てろ。自分自身を、捨てろ。


 つまり、それって。


「キミは、僕が産み出した『自棄』の心魔」


 ふいに、ノイズ音が途絶えた。僕の視線は相変わらず目の前の怪異を捉えていた。

 異常なほどに白い顔がユラリ、満足そうに揺れた気がする。



 僕はズボンのポケットをまさぐり、スマホを取り出した。着信履歴から番号を追って、彼女に発信する。スリーコールほどで応答があった。


 いつもどおりどこか不安そうで、何かを窺うような咲月の声。


『……晴?』


 僕が「そうだよ」と言うと、彼女は安心したように息を漏らした。


『どうしたの? 平日のお昼に電話なんて。学校は?』のん気で不思議そうな咲月の声。僕は彼女を無視するように「咲月」彼女の名前を呼ぶ。


 少し間が空いた。僕の声のトーンからか、咲月は何か違和感を覚えたのかもしれない。


『……何?』どこか警戒するような声色。僕は少しだけ逡巡して、でも意を決して。


「咲月は、僕がいなくなっても平気だよね」


 ボタボタボタボタ、ざあざあざあ。無節操な雨粒が僕の腕を伝った。


『……えっ?』取り急ぎの応答。

『……何を言い出すの』遠回しな否定。

『晴、あなた一体、何を考えているの?』


 咲月の声は震えていた。命乞いをするようにか細かった。

 でも僕は何も答えない。何かを言う必要は、ないと思っていたから。


『ちょっと』焦ったように言葉を重ねる咲月『なんで、なんで何も言ってくれないの?』泣き出しそうに荒くなる彼女の声。『ねぇ、やっぱり私が。私のせいで、晴は――』


 プツン。唐突に電子音が遮断された。


 そのまま彼女の声は聞こえなくなる。僕の目の前には、真っ白な顔をしたソイツがふよふよと宙を漂うばかり。


 だらんと腕を下ろしてスマホ画面に目を向けた。

 無機質で真っ暗な表示が鏡のように、僕の顔の輪郭を薄く映し出している。


「……防水と言っても、これだけ濡れたら壊れるんだな」


 そうこぼした僕は手に持っていたソレをポイッと。土くれの地面に投げた。ドチャリ。自然法則にイレギュラーな波紋が混ざる。

 雨粒が文明の利器をさらっていく様を、僕はボーッと眺めていた。

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