3-8
僕の脳は完全に硬直していた。状況を理解しようと、そう試みる気さえ起きなかった。
あまりにも不可解で、不気味な光景。日常という歯車から逸脱したこの場所では、きっとあらゆる想像が通用しない。直感的にそう思った。
やがて一人の生徒が無言のまま、カゴから幾つものボールを取り出し、無表情のクラスメートたちに手渡していく。手渡された生徒たちは、黙って僕を見つめるばかり。
この場所はヤバイ。何かがおかしい。そう感じてはいるものの、妙な空気感が呪術となり、僕の五体が硬直させられる。
目に見える危険ではないからこそ、僕はすぐに逃げ出すことをしない。できない。
結果的に言うと、その判断は悪手だった。
「へい、ぱす」誰かが出し抜けにそう言った。もはや誰の発声なのかもわからない。
一斉に、ボールを持った彼らが右腕を振りかぶる。僕はすんでのところで身を屈ませ、頭を抱えた。なんで。どうして。なにが。グルグルグルグル、疑問符を頭上にめぐらせながら。
ドカッ。ドカッ。ドカドカッ。ドカドカドカッ。
頭に、腕に、背中に――僕という身体を構築するあらゆる部位を痛みが襲う。慈悲のない暴力をあてられる度に、僕は全身にグッと力をこめた。そのたびに虚無感が積み重なり、人としての尊厳を削がれていくような気がした。
歯をくいしばって、両眼を瞑って、僕はただ状況を受け入れる。
誰がどの頭で考えたってわかる。見なくたってわかる。
僕はクラスの連中から、バスケットボールを思い切りぶつけられていた。
何度も。何度も何度も、何度も何度も何度も何度も。
痛みの応酬がはたと止まった。でも僕はすぐに目を開けることができなかった。顔を上げられなかった。キュッ、キュッ、キュッ、キュッ。床をするような音が四方で響いている。すぐ近くに人の気配を感じた。満を持して僕は目を開ける。
多勢が僕を取り囲んでいた。地べたに弱々しく屈みこんでいる僕を、ヌラリと立ちやる人の壁が覆っている。
一瞬で血の気が引いた。一個の人があまりにも弱いという事実を、僕は忘れていたらしい。
その気になれば、二、三人が一人を羽交い絞めにするだけで、殺人は簡単に起こせる。
その気になれば誰にだって、『凄惨な現場』はすぐに作れる。
「ひとつ、とりひきをしよう」
正面に立っている北条がパクパクと口を開閉させた。声こそ彼のものではあるが、喋り方はまるで人口知能アシスタントのように抑揚がない。
「このがくえんから、きえろ。そうすれば、しきべしのと、あけちまことには、てをださないとやくそくする」
コイツは北条じゃない。僕は直感的に理解した。コイツは――
「お前……、黒幕だな?」
僕は恐々と声をあげた。その声は情けなく震えていた。北条は無表情のまま、僕の質問に反応を示さない。僕は喉を絞り上げるように更に言葉を。
「僕をこの学園から追い出したところで、お前がまたこの学校のみんなを操ったところで、式部がいる以上、お前はこの学園を支配することなんかできないよ。彼女に気づかれて、今度こそ正体を突き止められ、刀で斬られるだけだ」
僕が負け惜しむようにそうこぼすと、幾ばくかの間が空いた。そして。
「そうか、かたな。やはりあれがしきべの、しんまだったのか」
ザワリ。焦燥が血流と共に全身に流れた。その返答は僕が想定していないものだ。
僕はもしかして、余計な一言で余計な情報を与えてしまったのではないだろうか。僕は弁解を試みようと必死に頭を巡らす。しかし抑揚のない声が僕の思案を遮って。
「おまえさえいなくなれば、しきべはわたしにてをださない。てをだすりゆうがなくなる。おまえさえあらわれなかったら、わたしのせかいはだれにもそがいされなかった」
北条が大きく右手を振りかぶった。その手にはバスケットボールが握られている。
「わたしのせかいから、でていけ」
近距離で思いっきりボールをぶつけられ、後ろに倒れる。そのまま意識が遠のいていった。
※
「あのメスゴリラ……、いつかゼッテー、ボコボコにしてやる」
私の隣。満身創痍の様そうである明智さんが、両腕をだらしなく垂らしながら念仏のような愚痴を吐いていた。私は狐面の口元にてをやりながら、「かなりの体格差があるからね。正面からやりあったら勝機がない。ふいを突く必要がありそうだね」そう返すと、明智さんがゲッソリしたように息を吐く「……いや、冗談だっての、わかれよ」
明智さんが言うところのメスゴリラとは、私たちの体育授業を担当する女性教師だ。私ははじめ、彼女を女性だと認識していなかった。関羽か張飛の類だと思っていた。
「ってかゴメンなシキベ、オレの居残りに付き合わせちゃって」明智さんが申し訳なさそうに眉を曲げる。「別段、構わないよ」私がそう返すと、彼女はホッとしたように「ありがとっ」屈託ない笑顔を作った。
私たちはがらんとした廊下を体操着姿で歩いている。向かうは女子更衣室。体育の授業が終わり、他の女子生徒たちはとっくの昔に着替え終わって、教室に戻っているころだろう。では何故私たち二人だけが遅れているのか。それはね――
「いやー、雨だからマラソン中止になると思ったのに、まさか体育館の中をグルグル走りまわされるとはよ。体育倉庫の中に隠れてたら、サボれると思ったんだけどなー」
明智さんは、はじめと終わりだけ授業に参加して出席扱いになろうという荒業に出ていた。しかし因果応報とはよく言ったもので、彼女の悪だくみは見事に失敗。彼女はトラック五周追加のペナルティを課せられてしまう。終業のチャイムが鳴ったとて、体育教師は明智さんを解放してくれなかった。
「あれ?」ふいに、何かに気づいたように明智さんが声を。顔を前に突き出しながら目を凝らす彼女が再び口を開いて「前にいるの、マツキと――ヤギラじゃねーの?」その名前が出た瞬間、私もガバリと前方に顔を向けた。
見ると彼女の言う通り、松喜さんと柳楽くんの姿が私の視界に入る。松喜さんは柳楽くんに肩を貸していて、彼はと言うと、ヨロヨロとおぼつかない足取りでどこか様子がおかしい。
胸騒ぎを覚えた私は彼らに駆け寄り、明智さんも私の後につづく。私たちの接近に気づいたのか、前方の二人が足を止めた。柳楽くんに目を向けた明智さんが、焦ったような声を。
「お、オイ、どうしたんだよヤギラ! 全身、あざだらけじゃねーか!?」
柳楽くんがユラリと顔をあげた。その表情からは生気を感じられない。
「ああ、何でもないよ。ちょっと転んじゃっただけだから」
返事をする柳楽くんの声はいやに虚ろだった。私の胸騒ぎが一層大きく高鳴っていく。私の不安を代弁するように明智さんが再び口を開いて。
「いや……、ただ転んだだけで、そんな風にはならねーだろ。一体何が――」
彼女もまた、何か違和感を感じ取っていたのだろう。声のトーンからは緊張感が窺える。
でも柳楽くんが。
「ホントに」ピシャリ。まるで心を閉ざしてしまったように冷たい声。
「大丈夫だから、何でも、ないから」そのまま彼は、逃げるように目を伏せた。
口を挟むタイミングを窺うように、松喜さんが困惑した顔つきで私と明智さんに目を向ける。
「私、体育の授業を体調不良で早ぬけさせてもらったから、教室に先に戻っていたの、そしたら柳楽くんがこの状態で……」そのまま彼女は力ない笑みを浮かべた。
「柳楽くんは私が保健室に送るから、二人は着替えて? 授業、もう始まっちゃうし」
明智さんが納得のいかない顔で、でもコクンと渋々うなづく。「さ、行こ?」虚ろな顔をした柳楽くんを連れて、松喜さんが再び歩みを再開させる。
私たちはすぐには動かず、しばらくその場で立ち尽くしていた。
「ってかやっぱ、なんかおかしくねーか?」訝しむような明智さんの声が私の耳に。
「そもそもヤギラがあんなボロボロになってるのに、男子の連中はなんで放置してんだよ。なんでマツキがヤギラを介抱してんだよ」
しかし、その声を私は半分聞き流していた。
とある疑念が脳裏をよぎり、意識が奪われてしまっていたから。
「……シキベ?」名前を呼ばれてようやくハッとなる「あ、御免御免」
不思議そうな顔で私を見上げる明智さんを諭すように。
「とりあえず、柳楽くんは松喜さんに任せよう。何があったかは、お昼にでも聞いてみようよ」
私はなるべく平静を装ってそう言った。明智さんの表情はなおも不満げではあったが、「……まぁ、そうだな」そう言い捨てたあと、髪を乱暴に掻きむしっていた。
がらんとした廊下を二人黙って歩く。更衣室にたどり着いて、やはり黙ったまま着替えを済ませる。その間ずっと、私の胸騒ぎが収まる気配はなかった。
たぶん、柳楽くんは。
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