2-6


 五月蠅いくらいに静かだ。

 世界中の人達が一斉に姿を消してしまったのだろうか――人工的な光に照らされたマンション廊下で一人ポツンと立っていると、そんな錯覚さえ覚える。


 式部や明智たちと別れたあと、僕はまっすぐ家に帰らず駅へと向かった。久しぶりに電車に乗り、各駅停車しか停まらないマイナー駅で降車した。駅から伸びる商店街を抜けて住宅街に出ると、気づけば周囲に人の気配はなくなっていた。僕は目的地に到着し、階段をあがって。


 203号室。『桐原』という表札の張られたドアのインターフォンを鳴らす。

 少しだけ間が空いて、デジタル信号に変換されたその声が。


『……晴?』


 扉の向こうの彼女が、僕の名前を呼ぶ。モニター越しに僕の顔を捉えたんだろう。僕は口元を無理やり捻り上げて、快活な声を無理やりに出した。


「咲月、急に来ちゃってゴメン。上がっていいかな?」


『う、うん……、ちょっと待って――』、慌てたような咲月の声。やがてドアの奥からドタドタと忙しない音が聞こえてきて、鉄製のドアが遠慮がちに開かれた。


 隙間から窺うように僕を覗くその顔。……一か月振り、くらいかな――


 肩にかかるくらいの位置で切り揃えられた黒髪、病的なまでに白い肌と栗色の瞳。咲月は家の中だというのに紺色のカーディガンを羽織っており、下はスウェットの類ではなくロングスカートを履いていた。


 咲月の髪、伸びたな。しかしその感想を僕は胸の中だけにしまう。

 彼女は僕の顔を見るなり、ホッと安心したように口元を綻ばせた。


「晴の顔を見るの、なんだか久しぶり。……どうしたの急に?」

「別に、用事ってワケじゃないよ。この前の電話で、顔を見に行くからって言ったじゃない」


「そんな、よかったのに――」、申し訳なさそうにこぼす咲月だが、少しだけ頬をたゆませたその表情は嬉しそうにも見えた。一抹の罪悪感が僕の心臓を撫でる。


 久しぶりに顔を見たかった。その気持ちはウソではない。でも今日僕が彼女の元を訪れたのには明確な目的があった。そして――


 僕の目的を達成するには、彼女には少なからず『心の苦痛』を感じてもらう必要がある。


「でも、嬉しい……、どうぞ」


 咲月がドアを引き開け、僕を招く。僕は彼女の領域へと無遠慮に侵入した。



 咲月の家は相変わらず整然としていて、ありていに言えば殺風景だ。リビングにはソファと、テレビと、テーブルと、こじんまりとした収納棚。最低限の家具家電の類しか見当たらない。


「相変わらず綺麗にしているね」僕がそう言うと、「掃除くらいしか、やることないからね」咲月が自嘲気味にこぼす。


「あの人は、仕事?」

「うん……、最近は帰ってくるの、遅くて」


 僕は壁時計に目をやった。既に夜の七時を越えている。

 再び咲月に視線を移した僕は、くぐもった声を訝し気にあげた。


「……本当に仕事なの? また男作って、遊んでるんじゃないの?」少しだけ間が空いて、「……そうかもね」咲月が目をふせたまま、諦めたような声を落とす。


「ひどいな。母親の癖に。ひとりぼっちの咲月を家に置いて」僕は明確な非難をこめて声を荒げた。でも咲月が、「ううん、私だって、年齢的には高校生だし。お留守番くらいさすがにできるから」彼女の声があまりにも沈鬱で、僕は覆いかぶせるように口を開いて、「それにしたって――」でも、その先をつづけることができなかった。


 ――咲月から逃げているのは、お前も一緒じゃないか――

 心の中の僕が、冷めた目つきで僕を見下ろしている。


 何かを察したのだろうか。咲月が僕に向かって柔らかく笑いかけ、「晴がこうして来てくれるだけでも、私は充分だよ?」病的なまでに白い肌がたゆむその表情は、あまりにも痛い。


「……そう」僕はバカみたいな声で呟く。それくらいしかやりようを持たない。時計の針が滑稽に鳴って、それ以外の音は一切聞こえてこない。僕は息苦しさすら覚えていた。


「あ、そうだ」霧を払うような咲月の声「晩御飯、まだでしょ? 何か作ろうか? 晴の好きなハンバーグとか」彼女のあどけない提案を受けて、胸にたまった罪悪感が少しだけ薄らぐ。声をとりもどした僕は軽口を返した。


「……ハンバーグが好きって、いつの話をしているんだよ。僕だってもう、高校生なんだから」咲月が「あら?」とイタズラっぽく笑って「ハンバーグはもう卒業しちゃったの?」


 僕は照れ臭そうに頭に手をやり、「まぁ、今でも好きっちゃ好きだけど……」そう返すと、咲月はフフッと愉しそうに息を漏らした。


「すぐに準備するね。少し待ってて――」彼女が軽快な足取りでキッチンに向かう。


 ……今日の咲月は、比較的、心が安定しているみたいだな。

 僕は咲月がエプロンをつける様を眺めながら、その姿を過去の彼女と重ね合わせていた。


 遠い記憶。あの頃の僕たちは、一切の悪意を知らず、無邪気に時を過ごしていた。

 記憶のイメージが僕の脳裏に広がり、同時に、打ち消される。

 僕は歯噛みするように、ギュッと拳を握りしめた。



 ダイニングテーブルを挟んで座る二人。僕は肉汁溢れるハンバーグのかけらと白いご飯を口に運んで、世辞でもなんでもない台詞をこぼす。


「……おいしい、料理の腕、また上がったんじゃない?」

「ホント? 嬉しい。普段は食べてくれる人なんていないから、自分ではわからなくて。……晴にそう言ってもらえると、自信出ちゃうな」


 咲月がニコリと、屈託のない笑みを顔いっぱいに広げている。彼女が一つ笑うだけで、僕の胸の奥からじんわりと暖かいものがこみあげてくる。同時に、傷口の膿も。

 僕は胸中を撫で散らすように、再び口を開いた。


「独学でここまでできるのは大したものだと思うよ。調理師の資格でもとってみたら?」しかし咲月は焦ったように手を振り、「そんな、言い過ぎだよ。これくらいできる子、いっぱいいると思うよ。それに――」


 先ほどまで満開だった花が、急速に萎れて、しぼんで。

 咲月がテーブルに視線を落とす。


「……私なんて、人に、社会に必要とされるわけ、ないよ」


 彼女の顔が沈んだ。無理に口角を吊り上げることで、彼女は自身の心をを自分で傷つけているように見えた。僕はもぐもぐと動かしていた口を止め、ジッと彼女の顔を見つめる。


 偽りの平和を。嘘でコーティングされたヴェールをひきはがすなら、今ではないだろうか。


 「咲月」僕は彼女の名前を呼んで、手に持っていた木箸を静かに置いた。口に残っていたハンバーグをゴクンと消化して、慎重に選び抜いた言葉を、彼女に。


「咲月は、もう一度高校に通いたいって、高校生をもう一度やってみたいって、そう思ったことはある?」


 咲月が顔をあげない。一切の反応を示さない。

 僕の声が届いていないはずがないのに。


 永遠とも思える時間が流れて、やがて咲月が恐ろしくか細い声を出した。


「……どう、かな」彼女の瞳がわずかばかり動く。体温の有さない彼女の表情、僕がその胸中を測り知ることなんてできない。でも彼女は、心の中に渦巻く感情の濁流に押し流されながらも、必死に抗っているのかもしれない。


 消えてしまいそうな声を、彼女が再び。


「私みたいなのが高校に行っても、みんなに、また迷惑かけちゃうから」


 みんな。

 その言葉に強烈な引っかかりを覚えた僕は、彼女の中へと今ひとたび踏み込んだ。


「みんながどう、とかじゃなくて、咲月が『どうしたいか』を僕は聞きたいな」


 僕がそう言うと、咲月はキョトンと子どものように目を丸くして、「私が?」彼女の反復に、僕はゆっくりと首を縦に振る。彼女は後ろ髪をさわりながら、僕と視線を合わさずにポツポツと言葉を漏らした。


「そりゃあ、同い年の友達と放課後、街でお買い物したいとか、そういう憧れは、あるけど――」

「だったらさ。今からでも再入学。考えてみてもいいんじゃないかな? 咲月の家、お金がないわけじゃないんでしょ? なんだったら、僕が今通っている高校は編入も受け入れてくれるし。定時制っていう選択肢もあるし――」畳みかけるように僕は言葉を並べた。彼女の眼前にズラリと選択肢を与えた。しかし。


「いいの」


 咲月が顔を上げて、崩れ落ちるようにかぶりを振る。

 遠くを見るように目を細めて、すべてを諦めるように笑って。


「……私が、私みたいのが――憧れなんて持っちゃ、ダメだから」その言葉を脳内に反芻させるように、彼女は首を横に振っていた「どうして?」僕が更に訊くと彼女はフッと息を漏らす。『知っている癖に』と、嘲たような顔をして。


「私は償わなくちゃいけないから。私のせいで辛い思いをした晴や、お母さんのために、罰を受けなくちゃいけないから」彼女の声は打って変わって流暢だった。


 ペラペラペラペラ。止まらない懺悔の羅列が僕の耳の中に入り込む。


「――晴は私を心配して、そんなこと言ってくれるんだよね。晴は優しいから、私に同情してくれているんだよね」彼女が笑う。操り人形のように首を傾けながら。


「でも私、平気だから。……外出るの、怖くなくなったら、働いて、お金をためて、この家を出て、自立して、誰にも迷惑かけずに、晴も安心できるように――」


 口が止まらない彼女に耳を傾けながら、同時に僕は視線も向けている。

 正確に言うと、彼女の『背後』に。

 やや上方、何もない『はず』の空間に向かって。


『……だから、ゴメンナサイ。私なんかのために、私なんかの心配、させてしまって、ゴメンナサイ、私なんか、生きていて、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ――』


 どこか、妙にエコーがかかったような、ノイズが混ざりあったような、咲月の声。

 その声が耳の中に入り込んで、頭の中にたまって、ぎゅうぎゅうと僕の脳みそを押しつぶそうとしていて。

 限りなく黒に近いグレーの仮説が確信に変わる。僕は一抹の決心を胸に抱いていた。


「咲月」僕が名前を呼んでも、彼女からの反応はない。でも僕は言葉をかけつづける。

「咲月のことは、僕が助けるから。絶対に助けるからね。だから――」


 僕はそう言い、口を結ぶ。咲月は虚ろな表情で虚空を見つめていた。

 僕は立ち上がって彼女の隣りに移動する。

 椅子に座っている彼女の、艶のある黒髪を撫でてみる。


「ちょっとだけ、待っててほしい」


 柔らかい感触が掌を伝う。咲月が子どものように僕を見上げた。

 少し力を入れたら壊れてしまいそうな、そんな顔で。



 翌日、僕は早起きをして、いつもより半刻ほど早く登校した。グラウンドには朝練に勢を出す運動部員たちの姿。昇降口にたどり着くと、その場所はガランとしていた。


 僕はズボンのポケットに入れていた『ノートの切れ端』を取り出した。自分のではなく、式部紫乃の出席番号が書かれた靴箱のフタを開け、ソレを入れる。


 ノートの切れ端にはこう書かれている。昨夜、僕がしたためた文章だ。


『キミの黒幕狩りに協力する。代わりに一つ、僕のお願いを聞いて欲しいんだ。 柳楽』

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