二.
2-1
夜が巡り、朝が戻り、昼が顔を出し、夕暮れが出番を待ちわびる。
相変わらず無為で無気力な僕の一日がまた、終わろうとしていた。本日のトピックを強いてあげるとしたら、昼休みに屋上で一人豆パンを食べていたら、昨日の今日というのに明智が僕の元を訪れてきたことくらい。彼は「よっ」と快活な声をあげて僕の隣に座った。
「オレ、うちの学校でそのパン食ってるやつ初めて見たよ」明智がキシシと無邪気に笑って。……いや別に僕とて、選り好んでいるワケではないんだけどね。ちなみに明智は弁当を持参しており、なんと彼のお手製らしい。
「たまにカーチャンの代わりに作るんだよ。というか、バンメシはほぼ毎日オレが準備してるし」出し巻き卵を一つもらったが、なかなかのお手前だ。
「明智、キミを奥さんにもらいたいくらいだよ」純度百二十パーセントの冗談で僕が彼を茶化すと「……は、はぁっ!? いきなり何言いだすんだよっ! バカっ!」何故か明智は顔を真っ赤にして慌て出した。
……? リアクション、おかしくない?
そんなこんなで彼と談笑に耽っていたら、時間の経過がいつもより早く感じた。僕はたぶん、彼と過ごす時間を気に入ってしまっている。
帰りのホームルームの時間となった。「……じゃあ、連絡事項は以上だから。他に何かある奴がいなきゃ、これで――」流れ作業のように淡々と喋っていた担任教師の声が、ピタリ止む。彼は何かに気づいた様子で一点を見つめていた。何事かと僕も視線を移ろわせると、一人の生徒が垂直に手をあげている。
「すみません、少しだけお時間いいですか? クラスのみんなにも、付き合って欲しい」
有無を許さぬトーンの声でそう言い、立ち上がり、教壇の方へと歩き出したのは北条だった。担任教師が少しだけたじろいだように、「えっ、あっ、おう」間の抜けた声を返す。
北条がくるりと振り返り、彼は自席にお行儀よく着座している僕たちをゆるりと眺めやった。
そして。
「今から学級裁判を始めたい。本日、『うちのクラスに校則違反をしている生徒がいる』という報告があった。その真実を確かめる。被告人は、明智真琴。及び、柳楽晴」
あまりにも唐突な告発。頬杖に全身を委ねていた僕は目を丸くし、思わず上体を起こす。少し離れた席で、いつものようにカチャカチャと携帯ゲーム機を操作していた明智が、「……あっ?」威嚇するように唸った。
ザワザワザワザワ。ゆるやかに広がる波紋のような喧騒が僕の耳へ。同時に、胸の内から心臓の鼓動がせりあがってくる。……学級裁判? 被告人? 北条の奴。急に何を。
僕は混乱している。しかし北条は、「では豊田クン、証言の供述をよろしく」僕の胸中など丸ごと無視して裁判とやらを勝手に進行してしまう。教壇の前でポカンとしている担任教師も「おっ、おい」北条に声をかけるも、彼は返事を返さず目も向けない。
北条の顔つきは、いつもの朗らかな表情とはまるでベツモノだった。何を考えているのかまるでわからない無表情。マネキン人形のように、色味がない。
一人の生徒がガタンと立ち上がり――おそらく『豊田』という名の生徒なんだろう。彼は机に視線を落としながら、ボソボソと機械音声のような声をこぼした。
「……昨日の放課後、学校帰りに駅前のゲームセンターに立ち寄ったんです。そうしたら、明智と柳楽が一緒にいるところを見かけて」
何を言い出すんだコイツは。混乱に混迷が二乗され、僕は状況を把握するのが後手に回る。展開が早い。口を挟む隙すら与えられない僕は、豊田とかいう生徒の虚言をバカみたいに聞き流すくらいしかやりようを持っていなくて。
「二人は、タバコを吸っていました」
――はっ……?
そこまで言うと、豊田は「以上です」と再び着座する。彼はゾンビのような顔つきで机に視線を落としたままだ。
ザワザワザワザワ。波紋がうねりをあげて、音のさざめきが次第に大きくなっていく。
僕はいよいよ言葉を失っていた。……何だコレ、何が、どうなっている。
僕が感じた違和感を一言で表すならば、奇妙。あらすじもわからないのに大舞台に放り出されたような恐怖感。僕はゾッと寒気を覚えていた。
「豊田クン、ありがとう」北条が淡々とそう言い、その段になってようやく彼は担任教師に視線を向ける「先生、一応、確認させてください」平然とした声で。
「未成年の喫煙は法律で禁じられている。言ってしまえばその行為は犯罪だ。当然、わが校に法を破る者が存在するとしたら、然るべき処置を与えなければいけませんよね?」
北条の口調は、台本があつらえられたように流暢だった。問いをかけられた担任教師は、僕と同じように事態を把握できていない様子で「いや、まぁ、それはそうだけど」しどろもどろに返事を返すばかり。
北条が、喉元にナイフを突きつけるような声を再び。
「警察への報告はもちろん、場合によっては退学――犯罪者を平和な学園に置いておくワケにはいかない。そう、ですよね?」
『イエス』という答えしか存在しない質問をあえて。
あらかじめ決まった判決をあえて。
担任教師の口から、自分で言わせるように。
「ああ、ええと……」担任教師が言い淀み、彼は二の句を継ぐ気配を見せない。
北条の独壇場があれよあれよと進行していた。しかしここにきてようやく。
「――っざけんじゃ……、ねぇよ!」
怒声が響き渡り、空間が裂かれる。
……説明するまでもないと思うけど。それまで沈黙を享受し、北条にさせるがままだった明智が、ついにキれたんだ。
彼は勢いよく立ち上がり、両手でバンッと自身の机をたたく。ギロリ、丸い瞳を極限まで歪めて北条を睨み上げるその姿は、さながら小虎のようだった。明智が吠える。
「さっきから黙って聞いてりゃあ……、いい加減なコトばっか言ってんじゃねーぞ! ……昨日オレは、ゲーセンなんて行ってねーし、ホーカゴ、ヤギラとも会ってない。タバコなんざ、口につけたコトすらねーよッ! トヨダとかいう奴が言ってるコト、全ッ部デタラメだッ!」
明智が真っ向から、豊田の証言を否定する。……そして、僕は明智の発言が『真実』だと知っている。なぜなら僕は昨日の放課後、公園に一人でいたから。
……同時に、それを証明する術がない事実にも気づいていた。
明智の剣幕に一切怯むことなく、北条は涼しい顔をしていた。彼の口元が少しだけ、少しだけ――愉快そうに歪んだ気がして。
「なるほど、では明智クンは、豊田クンが『嘘の証言をしている』と、そう言いたいんだね?」
「ああ、そうだよ。……ってかホージョー。てめーもグルになって、オレらのことハメようとしてんだろ。そんくらいオミトーシなんだよッ!」
明智は興奮している。怒りに心が囚われてしまっているようにも見える。
ザワリ。ひとかけらの不安感が僕の胸に産まれた。……なんだろう、何か――
でも舞台は、僕の長考など待ってくれない。北条が相変わらず淡々と、やけにハッキリとした口調で宣う。
「明智クン。さっきキミはこう言ったね? 『タバコなんて口につけたコトすらない』と。……であれば当然、キミの鞄の中にタバコが入っているなんてこと、あるはずがないよね?」
煽るような北条の口調「……あ?」明智が苛々し気に再び北条を睨む。
「たりめーだろ。調べたきゃ勝手に調べろよ」
北条の売り言葉をものの十秒で即買いした明智が、自席にかけていた鞄を乱暴に掴み、ドサッと机の上に置いた「それでは失礼するよ」ゆっくりと、ゆっくりと北条が歩みを進める。人と人の間を、机と机の間を、覇王のような足取りで。
……何かが、おかしい――胸騒ぎが産声をあげる。マイナスの感情が、不透明な疑念が、徐々に大きくなっていく感覚。何かを見落としているような、漠然とした不安。
グルグルグルグル。狂ったような速さで、思考が僕の脳内を流れている。僕は荒れる竜巻の渦中で必死に目をこらしながら、しかし圧倒的な一つの『違和感』を見出した。
……そうだ。そうだよ、なんで北条はあんなに『自信満々』なんだ?
明智の見立て通り、北条が豊田という生徒に虚偽の証言をさせ、僕と明智を嵌めようとしているのは間違いないだろう。明智は放課後、母親の代わりに家で家事をしなければならないので、昨日もまっすぐ家に帰ったはず。つまり公園に一人でいた僕と同様、明智は身の潔白を晴らす手立てを持たない。証明できる者がいないから。
でもそれは、『向こうも同じ』のはずだ。
いくら『ゲームセンターでタバコを吸っていた』という報告があったとしても、そんな事実が存在しない以上、架空の罪に対して証拠を提示することはできない。僕らが事実を認めない限り、答えのない水掛け論が無限に続くだけだ。
でも北条は、『学級裁判』を強行した。勝利を確信した顔つきで、今もなお威風堂々たる様で。
だから、『おかしい』んだ。僕は北条の態度に、『違和感』を覚えたんだ。
僕は思考を止めない。数分間の記憶を、全速力で逆回し再生させていた。そして。
――キミの鞄の中に、タバコが入っているなんてこと、あるはずがないよね――
……。
……まさか――
「ちょ、ちょっと待って!」
北条が明智のかばんに手をかけようとしたその瞬間、僕は立ち上がり、大声を出した。
クラス中の視線が一斉に集まり、針のむしろに囲まれたような心地を覚える。ヒヤリと全身から血の気が抜けるような感覚、脳と五感がフワリと引き離されていくような感覚。
遠くで鳴っているような音が耳に流れた。遅れての脳が把握する、北条の声だ。
「どうしたんだい柳楽クン。なんで止めるんだ? キミたちが昨日、ゲームセンターに言っていないというのなら、タバコを吸っていないというのなら、キミたちの鞄の中を調べても何の問題もない、そうだろう?」
……それは、そうなんだけど――
不気味なくらい丁寧に具体化された『再確認』。
じわじわと獲物を追い詰めるような、北条の口調。
僕は直感していた。これは『罠』だ。
僕と明智は、昼休みに席を外している。二人とも屋上で昼食をとっていたから。
――つまりそれって、僕たちがいない間に、僕たちの鞄の中に『タバコ』を入れることだってできるんだ。証拠を捏造することが、可能なんだ。
「……ヤギラ?」明智が不思議そうな声色で僕の名前を呼ぶ。
頭に血が昇っている彼は北条の罠に気づけていない。どうしよう。どうすれば、いい。
正直なところ、例え冤罪だったとしても、僕は自分自身が退学になることにそこまで恐怖や怒りを感じていない。……まぁ、伯父さんに見限られ、今度こそ疫病神である僕を引き取る大人なんていなくなるかもしれないけど、それはそれで、僕の人生はそんなものだったんだろうなと、あっさり諦められる自信はある。
――でも、明智は別だ。彼は自分の家族のことを愛しているし、たぶん、彼の家族も明智のことを愛している。明智が校則違反で退学になってしまったら、きっと彼の母親は悲しむ。理不尽な仕打ちに直面した明智は、天真爛漫な性格を失ってしまうかもしれない。その心が歪にゆがんでしまうかもしれない。……それは、嫌だった。
明智が憤り、絶望する顔なんて、僕は見たくない。
……クソッ。だから人となんか、関わり合いを持ちたくなかったのに――
北条が冷淡な目で僕を見つめる。『早く諦めたらどうかな?』そう問われている気がした。
事実、僕がいくら時間を先延ばしにしたところで事態は好転しない。僕の推測が合っているとするならば、明智の鞄の中身を北条に開けられたらアウト。でも、「それをするな」と僕が要求することは、言われなき罪を認めることと同義になる。
「柳楽クン、何故、答えないんだ? キミたちが清廉潔白なら、僕の行為を止める必要がないだろう?」
グルグルグルグル。思考が巡る。盛大に空回っている。
なんとか、なんとか僕が昨日、ゲームセンターなんかに行ってないって、明智と一緒にはいなかったって、そう、証明することができれば――
無限回廊に迷い込んだような沈黙。時計の針が進むたびに、僕の五体はぎゅうぎゅうと押しつぶされていった。そして。
ひょうひょうと、淡々としたその声が、ふいに。
「ちょっと、いいかな」
式部紫乃の発声が、空間を丸ごとなで斬りにした。
彼女の元に、僕を含めてクラス中の視線が集まった。
彼女は、凛とした様で姿勢よく、まっすぐと右手をあげている。
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