1-7
「お会計、八十五円になりますー」「……」
「……お会計、八十五円になりますーっ!」「――あっ、すいません」
再三の呼びかけにハッとなった。僕は慌ててポケットから財布を取り出し、百円硬貨を眼前のコンビニ店員に手渡す。不機嫌そうに眉をひそめた店員が、レジから取り出した十円硬貨と五円硬貨をトレイに置いて、乱暴な所作で僕に突き出した。僕はそそくさとお釣りを回収し、受け取ったレシートを財布の中に無理やりつっこみ、逃げるようにその場を去る。自動ドアの開閉音と共に聞き慣れない電子メロディが僕の耳に流れて、僕は近所のマイナーコンビニ、『Aストア24』を後にした。
「ありがとうございましたー」感謝の欠片も感じられない、店員の声を背に受けながら。
放課後、僕はまっすぐ家に帰ることをせず、近所の寂れた公園のベンチに一人座って、さきほど購入した紙パックジュースをちゅーちゅーと吸引していた。
家に帰っても特段やることはない。伯父さんが仕事から帰ってくるのも夜遅くだ。
がらんとした屋内に一人でいると、正体不明の不安感が胸に広がっていく。孤独でいることに少しでも抗うようにと、学校帰り、この公園で適度に時間を潰すのが僕の日課になっていた。
とはいえ、児童用に設えられた遊具を没頭する気にはまさかなれない。何をするでもなく、結局僕はぐるぐると考えごとばかりしている。
僕は彼の声を思い出していた。昼休みに聞いた明智の言葉を。
――マジで、ありがとなっ――
……。
……ありがとうなんて、久しぶりに言われたな。
だって、僕が『彼女』から聞かされていた言葉は、いつも――
「ん……?」
ふと、ズボンのポケットのあたりが震えたもんで、僕は思わず声を漏らす。
しまっていたスマホを手に取ると、案の定だけど電話の着信がきている。デジタル画面に表示されたその名前は――
「……咲月?」
僕は条件反射で応答ボタンをタップした。条件反射でスマホを耳にあてがい、「もしもし?」窺うように声を出す。少し遅れて、僕の耳にか細い声が流れる。
『……晴。よかった、でて、くれた』
デジタル信号に変換されてはいるが、紛れもなく咲月の声だった。
通話終了の赤いボタン。僕はそれに触れたい衝動に駆られて――グッと堪える。
僕は咲月に聞こえないように一呼吸したのち、なるべく平静を装って軽口を返した。
「そりゃ出るよ。久しぶりだね。どうしたの?」
安寧に満ちた彼女の吐息が電話越しに伝う『何か用事ってワケじゃないの。最近、晴の声、聞いてないなって、それだけで』
ズキリ、僕の心臓を罪悪感がエグった。
「……ゴメン、転校してから色々とバタバタしていて」感情を無理やり、上塗りした。僕はできるだけ柔らかい声を出すよう努めている「今度の学校は東京だから。咲月の家、近くなったしさ。様子見に行くよ」
再び彼女が黙る。静寂が枷となり、僕の全身が硬直する。でもすぐに。
『……そんな、いいよ。晴、新しい生活で大変でしょ、私のことなんて気にしなくていいから』
彼女の声が陰り、沈んだ。
「いや、落ち着いてきたから大丈夫だって。それに――」僕はその先をつづけようとしたけど、ちょっとだけ躊躇した。踏み込み過ぎかもしれない。そう思ったから。
だけど僕は、罪の意識に押しつぶされそうになっている。彼女の陰鬱にいざなわれるように、僕は言葉を止めることができない
「……電話してきたってことはさ。咲月、一人で不安だったんじゃないの?」
咲月からすぐに返事がない。相変わらず沈黙が重い。
電波の向こう側に存在する彼女は今、どんな顔をしているのだろう。僕の視界に寂れた公園が映り、でも景色をうまく視認できない。聴覚が視覚の領域を汚染している。
やがて、僕の耳を引っ張る声が。
糸がほつれたように拙く、脆く震える咲月の声が。
『……そう、だよね。私、やってることと、言っていること、矛盾しているよね、ホント――』
彼女が懺悔を繋ぎ合わせる。『ゴメンナサイ』と。いつもの、その言葉で。
『……本当は、私があなたに、償わなくちゃいけないのに、あなたに心配してもらう資格なんて、ないのに』
「……そんなこと――」しかし僕はその先が続かない。
『ゴメンナサイ』彼女が謝罪を継続する。
『ゴメンナサイ、ゴメンナサイ――』壊れたラジカセみたいに。何度も。
聞いていたくなかった。聞く度に、心臓を刃先で撫でられるような痛みを覚えるから。
……黙って、くれよ。
だけど、その要求を口に出すわけにはいかない。
僕がそれをしたら、きっと彼女は壊れてしまう。
『ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ。私、晴のためだったら、なんだって、するから。だから、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ――』
思わず大声をあげたくなる。でも喉の奥は塞がれている。
その場を駆け出したくなるような衝動。でも全身は有糸鉄線でグルグル巻きにされている。
八方塞がり。救いようがない。控えめに言っても、地獄だ。
僕は全身を震わせながら、自意識をギリギリで保ちながら、弱々しい声を咲月に返す。逃げ去るように、一気に喋る。
「何もしなくて、いいよ。咲月は、自分のことだけ、考えていればいい。……とにかく今度、顔、見に行くから」彼女の口から謝罪が鳴りやむ。
しばらくして、『……うん、わかった』咲月がそう言い、僕はようやく脱力することができた。
「また、連絡するから」
僕は通話終了のボタンをタップして、スマホを持った右腕をだらんと下ろす。
何の気なしに顔をあげた。気づいたら日が落ちかかっている。
曇天が夕焼けに染まり、血の海が空に広がっているみたいだ。
「いっそのこと、世界中が紅色で塗りつぶされてしまえばいいのに」
他人のせいで死ねるなら、どんなに楽だろう。
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