1-6


 せき止められたダムが溢れ出るように、彼は勢いのままにまくし立てはじめる。彼のツバが僕の顔面にかかりまくっているが、明智はまるで気づいちゃあいない。


「うちのガッコーさ、ぶっちゃけ底辺偏差値のバカ高じゃん。だからまぁ、そーゆう連中が集まりやすいって評判なんだ。オレもベンキョー、全然できないから、ココくらいしか高校選べなくて。まぁいいやって、別に、オトモダチ作る気もなかったし。……で、入学してみたらさ、最初は確かに、明らかにそーゆう恰好している連中が多くて、ろくすっぽ授業にでねーか、授業中も騒いでボーガイするような奴らばっかだったんだけどよ」


 明智が何かを警戒するように声を潜め始める。彼は少しだけ周囲の様子を窺い、誰もいないことを確認した後にか細い声を僕に耳打ちした。


「だんだん……、素行の悪い連中が大人しくなってったんだよ。キンパでトーコーしていた奴も、黒髪のスポーツ狩りにしてきてさ、朝に教室の扉開けた瞬間、『みんな、おはよー!』とか、マンガに出てくるユートウセイみたいなコトし始めて……、オレ、ゾッとしたよ。コイツら、どうしちゃったんだろうって。なんか、操られているみたいにぎこちなくて――」


 頭の片隅から、記憶の声が顔を覗かせる。確か担任教師や、北条も似たようなことを言っていた。興味のない僕は話半分で聞き流していたけど、よくよく考えると彼らの話はおかしい。不良生徒の更生が一朝一夕で片付く世界なら、熱血教師ドラマで感動を呼ぶことはできない。


 不良だった生徒たちは、自分の意志で真面目になったんじゃなくて。

 ――品行方正な行動をとるよう、心を支配されているのか?


「おいっ?」訝しむような明智の声が耳に飛び込んで、僕の視界に屋上の景色が還ってきた。眉を八の字に曲げた彼は首を斜めにひねっており、どうやら僕の意識は、思考に囚われていたらしい「ごめん、ちょっと考え事を。……続けて」僕が会話を促すと、「……ああっ? まぁいいや、でよ――」若干腑に落ちていない様子の明智が再び口を開く。


「気づいたらさ、うちのクラスの不良連中、みんな大人しくなっちまったんだ。なんか、クラスの雰囲気が不自然に和気あいあいとしはじめてさ……、うちのクラスだけじゃない、他学年の悪ぶってたやつらも、みんなマトモなカッコーで学校来るようになって、お行儀よく授業受けるようになって――しかもよ、そのことをみんな、『ヘン』に思ってないみたいなんだよ」


 明智が悪寒を覚えたように両腕をさすりはじめた。


「オレさ、何人かに聞いてみたんだ。なんかおかしくねぇか、どいつもこいつも、急に人が変わったみたいで気味がわるくねぇか――って。でもさ、みんなキョトンとバカみたいな顔してよ。何言ってんの、みたいな態度とるんだよ。オレ、ワケわかんなくって、オレだけがアタマ、おかしくなっちゃったのかなって、怖くて、さ――」


 明智の声が尻しぼんでいく。僕は彼に強烈なシンパシーを覚えていた。

 自分だけがおかしいじゃないかって、取り残されてしまったんじゃないかって――

 何も信じられなくなるような不安感。僕もその心地に覚えがあった。だから。


 僕は勝手に、暗黙の『協定』を明智と結ぶことにした。


「大丈夫だよ」ハッキリと僕がそう言うと、明智があけすけな表情でこちらを見た。

「えっ?」虚を突かれたような声をあげ、猫のような瞳をパチクリとさせている。

「明智はおかしくない。おかしいのは、『みんな』の方だと思う。……だって、外から来た僕には、クラスの連中よりキミの方がよっぽど、マトモな人間に見えるから」


 大きく開かれた明智の眼が、少しだけ揺らいでいる。やがて彼は全身から力を抜くようにコンクリートの壁に身体を預けた。


「ははっ、ハハハ……」顔を引きつらせた明智が、乾いた笑い声を漏らす。水晶体のうわべに、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。彼の顔半分が少しだけひしゃげる。


「ようやく……、おんなじコト考えているヤツ、おんなじコト感じてくれるヤツに、会えた」


 絡まった糸が、ほつれていくような声だった。

 明智は今、心の底から安寧を感じているのかもしれない。

 孤独感に押しつぶされそうで、心が限界だったのかもしれない。

 顔のないマネキン人形にいくら叫んだって、彼の声は何も届かなかったから。


 しばらくの間、僕らは黙っていた。明智は地面に目を伏せて何かを考えこんでいる様子。そして僕も、『もう一つの違和感』に関して、彼に訊ねてみてもいいものかと逡巡している。


 とりあえず僕は、核心から迂回する形で彼に質問を投げてみることにした。


「あのさ、うちのクラスのみんながおかしい――っていうのは、僕たちの共通認識だと思うんだけど。おかしくなっているのって……、『クラス全員』なのかな? 僕たちと同様、この状況をおかしいって思ってる生徒、他にもいたりしないのかな?」


 明智が顔をあげて僕を見る。でもすぐに天を仰いで、ウンウンと唸りだした。


「……まぁ、ホージョーのやろーは、最初からあんなだったから、わかんないな。根がああいう性質なのかもしんねーし。他の連中も……、全員と喋ったことがあるワケでもねーからなぁ」


 明智の回答は想像通りではあったが、期待から外れていたのも事実だ。僕が彼にこの質問を投げたのは、『彼女』の正体を探るためでもあったからなんだ。そして。


「あ、そういや」


 明智が思い出したような声をあげる。何でもないようなトーンで。

 でもその言葉に、彼の口から飛び出した名前に、僕の心拍数が急上昇したんだ。


「シキベシノ――アイツはもしかしたら、おかしくなってないかもな。オレ、アイツと同じ中学だったけど、前から『あんな』だったし」


 ドクン、ドクン、動き出した心臓の鼓動が徐々に高鳴っていく。僕はなるべく平静を装いながら、でも震えた声で、「……『あんな』って?」核心をそのまま明智の眼前に突き出した。


 明智はキョトンと首をかしげて、「いや」と前置いた上で。


「前から……、『狐のお面』被って、学校来てたんだよ。中学三年の二学期になってから急に、あんなもん被りはじめてさ。髪の毛、銀髪に染めたりしてさ。周りの奴ら、なんでだか誰もツッコマネーの。……おかしいだろ? オレ、アイツと仲いいワケでもねーけど、別にアイツ、電波キャラってワケじゃあなかったと思うんだよな」


 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。心臓の鼓動が、体内から飛び出そうだ。僕の心が高鳴り、ありていうに言うとテンションが上がっている。なぜって。

 ついに、『賛同者』に出会えたから。


 北条と松喜はあの時、僕の疑問にピンと来ていない様子だった。……けど、明智なら――


 僕は先ほど明智が僕にしたのと同じように――彼の両肩をガシッと掴んで、彼の顔に僕の顔を近づけた。鼻息とともに声をまくし立てる。


「あ、明智……。お前、彼女のお面がおかしいって、不自然だって……、そう、思うの?」


 明智が珍しく慌てた表情を見せる。

「か、顔ちけーよ。バカッ」先ほどの自身の行動を全力で棚上げした彼が全身を強張らせた。「あ、ゴメン」僕は彼の肩から手を放して距離をあける。明智は照れ隠すような咳払いをした後、改めて僕に返答した。


「いや、誰がどう考えてもヘンだろあのナリ。っていうかあれ、コーソクイハンじゃねーの? ホージョーが何も言わねーのもおかしいしよ。……そもそも、不良連中が真面目なカッコーしはじめても、シキベは変わらず狐のお面被って登校を続けているしな。そういう意味で、アイツは別に『おかしくなっていない』んじゃないかって思ったんだよ。っていうか、『元々おかしいのがそのまんま』なんじゃねーかなって」


 ……なるほど――明智の仮説はたぶん合っている。仮に、うちの学校の連中が……、『洗脳』のような力で意志を操られていて、異常なまでに品行方正な性格に捻じ曲げられているとしたら、僕と、明智と……、たぶん、式部にも、その力が及んでいないと推察できるから。


 ――異端と認定されたら排除されてしまうのが集団心理ってやつだからね。奇抜な発言で目立とうとするのは、あまりお薦めしないよ――


 転校初日のあの時、昇降口で彼女はそう言った。今思えばあの言葉は、彼女なりの『警告』だったんじゃないだろうか。うちのクラスの雰囲気が『異常』であると認識している彼女が、その事実を遠回しながら僕に、伝えようとしていたんじゃないだろうか。だとしたら。

 どうして、僕に?


 薄く、淡くなっていた彼女への興味。真実を知りたいという、欲求。

 沸々と、心の内側からせり上がって――

 しかしあどけない声によって一時停止をかけられた。明智がムクっと腰を上げる。


「そろそろ昼休み終わるな。オレ、先に戻るから、ちょっとしたらお前も戻れよ」

「えっ?」


 彼の提案の意味がシンプルにわからなかった僕は、地面に座ったまま、彼を見上げる恰好で疑問符を投げた。明智がなんでもないようなトーンで声を返す。


「いや、オレと一緒にいるとこ、クラスの連中に見られたら、お前まで目、つけられるからさ。教室でもあんまり、オレに話しかけない方がいいよ」


 そう言うなり、彼は軽快な足取りで屋上の入り口へと向かった。


 明智はきっと、いいやつなんだろうな。彼の優しさは暖かくて、同時に痛くもあって。


「ちょ、ちょっと待ってよ」僕は思わず小さな背中に声を投げた。一呼吸遅れて立ち上がる。

 僕の声を後ろ手で掴んだ明智が、くるりと振り返った。


「でも」上半身を少しだけ前に傾けた彼が、遠くから僕を窺うように。

「今日みたいに、またヒルメシ。一緒に食ってもいいかな?」


 まるで、お菓子をねだる子どものよう。明智の表情はあまりにも幼気だ。

 ……そんな顔されたら、返す選択肢なんて一つしかないじゃないか。


「もちろん、いいよ」そう言った僕の口元が自然とほころんだ。素直な気持ちで笑えたのなんて、いつ以来だろうか。

「さんきゅっ」ひまわりみたいに顔を輝かせた明智がキシシと笑う。そのまま彼は軽快な足取りで、がらんどうの屋上を去っていった。残された僕はというと、やけに心が悶々している。


 やばいかもしれない。

 僕は不覚にも、彼の笑顔を『かわいい』と感じてしまったんだ。

 ……コレ、イケナイ感情ってやつじゃ――


 とりあえず僕はコンクリの壁に、頭をガンガンと何度も打っていた。邪念よ、去れ。

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