1-5


 ひと悶着のあった特別ホームルーム授業から一日が経過した。クラスの同調圧力に対抗してしまった僕ではあったが、連中の、僕に対する態度は表面上は変化がないように思えた。相変わらず、彼らは僕が困っていようがいまいがしきりに声をかけてくるし、北条もしこりのない口調と表情で時折僕を気に掛けてくる。昨日の自身の愚行が、出る杭が打たれるような事案に発展していない状況に、僕は安心していた。


 昼休みに突入し、今日も今日とて僕はそそくさと購買部に向かう。目的は豆パンの購入。僕は買い物列の最後尾にお行儀よく並んだ。たまにはコロッケパンとか、味気あるランチを愉しんでみてもいいかな。一抹の欲望がチラリ脳裏を通過したものの、閑散とした財布の中身に目を落とした僕は、一抹の欲望をタメ息と共に口からこぼれ落とす。


「おいっ」ふいに背後ろから。あどけなく甲高い声が僕の襟首を掴んだ。


 すぐ耳元で声掛けされた事案に僕はビクッと肩を震わせ、ガバリと後ろを振り返る。僕の眼下、頭一つ分くらい低い位置から僕を見つめ上げる眼が二つ。猫のような瞳をジトっと湿らせているのは明智だった。彼は珍しく携帯ゲーム機を手にしていない。


 明智は、少し擦れたような声をボソボソと。


「お前……、ヤギラ、だっけ。その、今日のヒルメシ、一緒に食わねーか?」


 予想外な彼の提案に、僕は思わず「へっ」と間抜けな声を漏らしていた。明智は僕の反応を見るやいなや視線を逸らし、地面に目を落としながら覇気なく声を紡ぐ。


「その、昨日のお礼だよ。貸しを作ったまんまなのが性に合わねーんだ。だから今日のヒルメシ、オレにオゴらせろって、そう言ってんだよっ」


 明智の口調はへそを曲げた子供のように早口だった。彼の言い分を理解した僕は、次なる一手の最適解を探るべく、思案を開始する。


 転校初日の学校案内の時、北条は僕に対して「明智に関わらない方がいい」とハッキリ言っていた。明智は我が道を突っ走り、学級委員長の北条に立てつきまくっている。明智が北条を煙たがっているのは誰の目から見ても瞭然だし、北条とて、明智の存在を快く思っていないのだろう。つまり北条は、「僕が明智と関わって欲しくない、クラスのはみ出し者をこれ以上増やしたくない」と考えているんだ。


 僕は、残る二年間の高校生活を平穏無事に過ごしたいと考えている。大きな荒事を起こすことなく、また巻き込まれることもなく、ひっそり卒業したい。そう考えている。……そう考えている僕にとって、アウトローである明智と交際を持つのは、正直言って悪手だ。……でも。


「――じゃあさ、コロッケパン二つ……、お願い」


 そう返すと、明智は猫のような目をたゆませて、やがてふにゃり、赤子のように笑った。


「なんだお前、案外、エンリョしねーのな。ま、いいけど」


 僕は共感に飢えていた。

 うちのクラスの雰囲気は、どこかおかしい。そして――

 明智なら僕の考えに同調してくれるんじゃないかって、そういう確信があったから。あとは。


「――あ、追加でやきそばパンもいいかな?」


 中農ソースの味付けに釣られたっていう動機も、まぁなくはない。



「……うまっ、コロッケパン、うまっ――」


 僕は感動で泣きそうになっていた。というかうっすら泣いている。

 味のある食事って、こんなにも人を幸せにすることができるのか。



 人気のない屋上で僕と明智は並んで、壁を背もたれにしている。僕は破竹の勢いで総菜パンを胃の中に押し流していた。傍から見たら鬼気迫る様そうだったのだろう。口を半開きにした明智が呆れたような声を出した。


「……うちのガッコのメシ。別にそんなにうまくないだろ。パン食って泣いてるやつ初めて見た。お前いつも何食ってんだよ。お前んち、もしかしてビンボーなの?」


 彼の目には同情の色さえ浮かんでいる。ものの二分で馳走を空にした僕は、ゲフッとマナーの欠片もなくゲップを漏らしたのちに、「いや別に、そういうワケじゃないんだけど」一呼吸遅れて彼に返事を返した。


「お前、なんかケッコー、面白いやつっぽいな」あんパンを両手に抱えた明智が、あむっとソレに噛みつく。子リスのようにもぐもぐと頬袋を動かしながら、彼はキシシとイタズラっぽく笑っていた。あどけない表情は声変わり前の小学生さながらで、仏頂面を終始崩さない普段の明智とかけはなれている。コイツ、こんな顔もするんだな。


 お互いがお互いの食事を済ませたところで、幾ばくかの沈黙が僕たちの間に鎮座する。でもすぐに明智が「あのさっ」こちらを見ないままに声を投げた。


「オレんちもさ、ビンボーなんだ。……片親でさ。カーチャン一人で、オレと、下の弟と妹、三人の子供を養ってくれてんだ」


 ……僕は違うんだけどな。まぁ、伯父さんから最低限のお金しかもらってないって意味では裕福ではないし、別にいいか。勝手に貧乏認定されてしまった事案を僕はとりあえずスルーした。僕の画策など知る由もない明智は淡々と言葉をつづけている。


「カーチャン、夜遅くまで毎日働いてんだ。パート、掛け持ちでさ……、だから、洗濯とか夕飯の用意とかは、キョーダイの中で一番年上のオレがやってんだよ。お金もギリギリだから、遠くのスーパーのタイムセール、狙ったりしててさ。……ホーカゴ、町内清掃なんてしてる暇、オレ、ないんだよ。だからさ」


 明智の視線が映ろう。彼は体育座りの恰好で、膝の上に乗せた両腕に頬を埋めて、安寧に満ちたように目を細めている。彼は僕の顔をまっすぐに見ていた。


「お前が昨日、ああ言ってくれて、『ボランティアなんだから強制にするのはおかしい』って、そう言ってくれて助かった。ありがとなっ」


 キシシ。あどけない顔で再び。明智が白い歯を見せる。


 ……ありがとう、か――


 僕は変にボーッと呆けてしまっていたが、明智はソレに気づかない様子だ。


「それにさ、オレ、あれ以上、ホージョーのヤローになんか言われたら、キれてたかもしんねー。そういう意味でもホント、お前が割って入ってくれて、助かったんだよ」


 ふいに、明智の表情が寂し気にしぼんだ。彼は地面に視線を落としながら。


「オレ、最初は高校なんて、行く気なかったんだ。中学卒業したらすぐに働こうって……、でもカーチャンが、せめて高校だけは出ときなさいって、授業料出してくれてさ。……だから、変な騒ぎ起こしてタイガクになんてなったら、カーチャンに申し訳、立たないっつーか」


「明智……」思わず僕は彼の名前をこぼし、彼の顔を見つめる。

 同情――ってやつかな。こんな気持ちになったのは久しぶりで、僕は自身の心中を掴みあぐねている。


「だからまぁ、オレ、ホージョーのチョーハツにキれてる場合じゃないんだよ。……ハハッ、ダメだよな、なんか、すぐにカッとなっちゃう性質みたいでさ」


 明智が自嘲する。でも口調とは裏腹に、彼の笑顔はやけに爽やかだった。


 明智は、自尊心をエグるような北条の言葉にプライドを傷つけられ、かんしゃくを起こした、そして怒りに身を任せて椅子を蹴り飛ばした――僕はそう思っていたんだけど、どうやら勘違いだったらしい。


 不適合者のレッテルを勝手に張られ、言い分を返す余地すら与えられず、決めつけられて。

 その事実に明智は怒りを覚えたんだ。理不尽な仕打ちに憤りを覚えたんだ。それって。


 明智が一人の人間としての自我を持っているってことだ。彼は彼の考えに則って行動している。だから人とぶつかる。……当たり前だ、『人』なんだから。だけど。

 自我を持つ彼『だけ』が、集団から排除されている。


 そしてその集団にいる連中は誰も彼も、自我なんて持っちゃあいない。


「あのさ」今度は、僕が彼に声を投げた。

 明智はキョトンと、目を点にしている。

 僕は意を決した。意を決して――『賭け』に出た。


「うちのクラスの連中、おかしくない?」


 僕は明智に、『共感』を要求する。

 明智はポカンと、口を半開きにしていた。……構うものか。僕は言葉を畳みかける。


「なんていうか、みんないい人なんだけど、それが逆に不気味っていうか……。町内清掃だってさ、キミみたいな事情がなくったって、フツウの高校生ならめんどくさくってサボろうとすると思うんだよね。なのにみんな、一切の文句も不平も言わずに、やろうやろうって――まぁ、『モラル』があるからって言えば、それまでなんだけど。どちらかというと、僕には……」


 そこまで言って、僕は一度言葉を切った。

 これ以上先を言ってしまっていいものかと、一抹の躊躇が僕の喉奥をきゅうっと縛ったから。


 明智は相変わらずポカンと、不思議そうな顔で僕を見つめたまま。

 僕の胸中を孤独感が巣くう。やはり、彼も――


「それで?」


 明智が鋭い声をこぼす。僕は思わず「えっ」と声を漏らした。


「『僕には――』のあと、なんだよ? お前、何言おうと、しているんだよ?」明智は不思議そうな顔のまま――しかし少し興奮したような口調で、僕の言葉の先を催促してきた。


「いやさ」僕は二の句を継いだのち、ゆっくりと言葉を締めくくる。


「僕には、彼らが意志を持つ人間とは思えない。まるで誰かに操られているみたいだ」


 遠慮がちな環境音が耳に流れて、薫る五月の風が僕の頬を撫でた。

 僕たち二人は固まっていた。世界は止まってしまったようだが、僕は明智の言葉を『待つ』以外の選択肢を有していない。手札のカードは、すでに切ったんだ。

 静寂が破かれる。震えた明智の声によって。


「お前それ、マジで言ってる?」


 彼の声は震えている。その肩も震えている。興奮に、打ち震えているように見える。

 明智がぐぐっと僕に顔を近づけて、猫のような目を大きく見開いて、僕の両肩をガシッと掴んだ。力の制御ができていないのか、僕の肩に彼の指がくいこんでちょっと痛い。


 男の割りに、シミ一つない綺麗な肌が僕の眼前一杯に。そして。


「オレも、ずっと思ってたんだよ……! アイツら、なんかオカシイ、ヘンだなって――」


 僕の『共感』が、明智に届いた。

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