2-2


 スラリと伸びる白く華奢な手。式部は無駄のない所作で音を立てずに椅子を引き、立ち上がり、堂々たる発声を再び放つ。


「豊田くん……、だっけ。キミ、明智さんと柳楽くんを駅前のゲームセンターで見たって言ったよね? それ、何時くらいのことかな?」


 豊田という生徒が虚を突かれた様子で「えっ」と漏らす。予測不能の事態に動揺したのか、彼の視線がきょろきょろと定まらない。


「あの、その……、た、確か、五時くらいだったと思うけど」


 豊田がボソボソとそう言い、式部は「ふむ」と漏らしながら口元に手をあてがった。


「それは、おかしいね」


 式部は、一切の波形が狂わぬようにまっ平らな声で。


「その時間、私は柳楽くんと一緒にいたからね。そしてその場所はゲームセンターじゃないし、明智さんは一緒じゃなかったからね」そんなことを言い出す。


 ザワザワザワザワ。周囲から再び喧騒が轟いた。それまで余裕しゃくしゃくだった北条の顔が露骨に歪みはじめ、明智はというと、事態に全くついていけてない様子で八の字眉を作っている。北条がたじろぎながら口を開いた。


「なっ、それは、どういうことかな、し、式部クン」


 動揺の色を全く隠せていない様子で――しかし北条は杓子定規にそう訊くしかないんだろう。彼はたぶん、計画が狂ったことで脳がまともに機能していない。……ちなみに、僕も北条と同じくらい混乱している。

 だって彼女、真っ白な狐面を被りながら、真っ赤な嘘をついているんだもの。


 式部の行動の『意図』が見えない。混沌と化した空間に、しかし彼女の声は相も変わらずひょうひょうとしていた。


「どういうも何も、言葉の通りだけど。柳楽くん、転校してきたばかりで授業でわからないところがあるからって、私が勉強を教えていたんだよ、近くの図書館でね。学生の本文である学業に勤しんでいたのだから、彼は無罪放免だろう?」

「……そ、そんな、そんなハズがない。なんで式部クンがわざわざ、柳楽クンの勉強の面倒を見る必要があるんだ。誰がどう考えても、おかしい」

「おかしい? 何がおかしいのかな? 私と彼は同じクラスメートだよ。クラスメート同士、集まって勉強をすることに、不審な点なんて何一つないと思うけど」


 周囲から見たら、限りなくゼロに近い関係性であろう僕と式部が、仲良しこよしと図書館で勉強などするわけがない――北条の言い分はそんなところではあると思うけど、だけどそれって結局、客観的視点から想像しただけの『決めつけ』に過ぎない。式部の反論通り、同じコミュニティに属する者同士である以上、僕らが共に行動する理由を他者が否定することはできない。

 ――だから、式部の発言には隙がなかった。北条は言葉を詰まらせてしまった。だけど。


「証拠」


 窮鼠猫を噛むがごとく、北条が唸るような一言を。


「証拠はあるのかな。式部クン。キミと柳楽クンが昨日、一緒にいたという証拠。彼が放課後、ゲームセンターを訪れなかったという、証拠が」


 調子を取り戻した北条が、ゆらりと身体を斜めに傾かせた。斜め上から見下ろすように、式部へと威圧をかける。


 ……証拠なんて、あるはずがない。


 再三になるけど、彼女は嘘を吐いているから。でっち上げでもしない限り、彼女の証言を事実に仕立て上げることはできないんだ。……だから、僕は彼女の『意図』がわからないんだ。


 負け戦にあえて助太刀して、共倒れる選択肢を享受する、彼女の行動の意味が。


 式部が再び口を開いた。キョトンと、煽る様に首を傾けながら。


「証拠? 妙なものを求めるんだねキミは。第三者である私が『一緒にいた』と言っているんだから、それは証拠にならないのかな?」

「ならないね。第三者という意味では、豊田くんだって該当するんだ。つまり、どちらかが嘘を吐いているということになる。どちらの意見も信じるということはできない。だから、『証拠』が必要だ。――二人が、今タバコを所持しているというなら、それが立派な証拠に……ッ!」


 北条は勝ちを急いだ。明智の鞄を乱暴に掴んで、まさに今チャックを開けようとしている。彼は、第三者――式部紫乃の乱入に焦燥しているのかもしれない。

 ……終わったな――僕は心の中でそうこぼして。


「財布の中、レシート」


 絶対零度の式部の声が、ポツンと水面に垂れる。北条の動きが凍ったように停止する。


「図書館に行く前に、私たち二人はコンビニに立ち寄った。柳楽くんは紙パックのジュースを購入していた。確かあの時、店員さんから――」


 僕の脳内で、記憶のイメージがはじけた。

 不機嫌そうな男性店員の顔、乱暴に置かれたトレイの衝突音。お釣りを慌てて回収した僕は、そのまま流れ作業のように、店員が差し出した、ソレを――


 僕は「あっ」と声をあげる。破竹の勢いでズボンのポケットから財布を取り出し、開ける。数枚の千円札に紛れ込んだ長方形の白い紙をつまみとり、それを顔に近づけ、印字されたテキストを舐めるように見やる。


 そして見つけたんだ。

 無為な平行線の果てにある終止符を。状況を百八十度転覆させられる詰めろ逃れの一手を。

 僕が『その場所にいた』という、揺るぎない存在証明を。


「五月二十五日、火曜日、17時、02分」


 僕がコンビニでレジカウンターに向かい、レシートが印刷されたその時刻。

 僕は無機質なテキストフォント字を消え入るような声で読み上げた。


 喧騒が、気づいたら鳴りやんでいる。僕はレシートを持った手をダランと垂らし、ユラリと顔をあげる。北条を見ると彼は蒼白の面持ちで、呪いかけられたように硬直していた。式部という伏兵の一撃によって、彼が投了寸前まで追い詰められている事態は誰の目で見ても瞭然だ。


 式部が最後の仕上げにかかる。勝利を焦ることなく、残心を怠ることなく。


「これで証明されたよね。豊田くんが、明智さんと柳楽くんを駅前のゲームセンターで目撃したと言っていた時刻、柳楽くんは図書館近くのコンビニにいたという事実が。そしてそれを私が知っている以上、私と彼が一緒にいたという事実が」


 至極丁寧に、式部は追い込みをかけていた。彼女は終始、煙に巻くような態度を一貫していた。淡々とした式部の声だけが、空間を独占して。


「これらの事実は同時に、柳楽くんたちは『タバコを吸っていない』、っていう裏付けにも為りえる。彼らを罪に問うことはできない、何故なら二人は、『校則違反』なんてしていないんだから。当然……、もう、彼らのかばんの中身を調べる必要なんてないよね? 北条くん」


 さきほどまで青白い顔を晒していた北条だったが、今は口惜しそうに歯噛みしていた。奴は黙っている。黙って、恨めしそうに式部を睨むのみ。


 もう北条には、場を逆転するような手立ては残されていないのだろう。彼ができることといったら、負け犬が遠吠えるような無力さを、必死で押し殺すくらいなんだろう。


 式部がゆっくりと席に着き、独壇場から退場する。私の仕事は終わったとばかりに。


 残された僕たちに与えられたのは行き処のない静寂だった「あのー、え~っと……」それまで一切の存在感を感じさせなかった担任教師がここにきてようやく声をあげ、しかし歯切れ悪い発声でもごもごと口をごもらせるばかり。おそらく彼は、急転する状況に脳の把握が追い付かず、場の収拾をつけられずにいる。


 ガタンッ、椅子が勢いよく引かれた音が響き、数多の眼が音の鳴る方へと集中した。

 立ち上がった生徒は松喜小百合だった。彼女はいつものように首を斜め四十五度に傾けながら、幾千の長い髪を上品になびかせながら、快活な声をあげた。


「よかった! まさかとは思ったけど……、うちのクラスの生徒に、校則違反する子なんて、やっぱりいるワケないわよね! 私、明智さんのことも、柳楽くんのことも、信じていたから。本当によかったわ。……豊田くんも、見間違いとか、何か勘違いしちゃっただけよね。そうでしょう?」


 松喜はそう言うなり、聖母の如く表情をたゆませて豊田に視線を向ける。それまで北条と同じくらい焦燥していた豊田だったが、松喜の一言でホッと胸をなでおろしたように、「う、うん……、遠くからだったし、もしかしたら人違いだったかも。あ、明智っ、柳楽っ、ホント、ごめんっ」そう言って立ち上がって、しおらしくペコリと僕たちに陳謝しはじめた。


 でも明智は、未だ怒り心頭のご様子だ。

 彼はギロリと、血肉に飢えた獣のような目を豊田に向けて。


「……あっ? 今更何言ってんだテメー、っていうかお前、ホージョーに言われてオレらを――」

「あーっ! そ、そうだよねー! 人間、間違いは誰にでもあるよねー!? 僕たち、全然気にしてないから、大丈夫だからーっ!?」


 しかし僕は慌てて、すっとんきょうな発声を明智の発言に覆いかぶせた。明智はギョッと身を引きながら今度は僕に非難の目を向けている。

『なんだよ、なんで邪魔すんだよ』彼の顔面には雑な筆記で疑問符が書き殴られてはいるが、しかし僕は直感的に、明智の行動を阻止するべきだと感じていたんだ。


 北条が僕らを罠にかけたのは間違いないだろう。そして、豊田という第三者の力を借りている以上、僕と明智を嵌めようとしたのが、『複数人の犯行』であることは間違いない。


 僕らを助けた式部が犯行グループに該当しないのは当然として、あの様子だと松喜も何も知らない。僕と明智をクラスから『排除』しようとしている連中がどれくらいいるかはわからない。だからこの場で、北条の策謀を露呈させるのはきっと悪手だ。

 パンドラの箱には触れずそのままに。大河の流れに身をゆだねるように。


「――じゃあ、これにて一件落着ってことで、学級裁判は閉廷……、で、いいわよね? 北条くん。それに、先生も」


 松喜が高らかにそう言う。北条はおよそ生気のない顔をフラッとあげて、「あ、ああ、うん。そうだね」その声は、無理やり絞り出すように弱々しかった。担任教師はというと、「……おう。まぁ俺としては、面倒ごとなんざないにこしたことないから、よかったよ」教師らしからぬ発言を無責任に宣っている。


 ザワザワザワザワ。空間に喧騒が還ってきた。刻の牢獄から解放された約三十名の若人たちが徐々に、徐々に各々の世界へと巣立っていく。


 ちなみに僕は、バカみたいな顔で未だその場に突っ立っていた。突っ立ってはいたが――衝動に駆られるようにハッとなり、後ろを振り返る。式部の席に向かって視線を投げる。


 でも彼女はそこにいなかった。さっきまで自席に着座していたのに、すでに忽然と姿を消していた。……逃がす、ものかッ――

 彼女に聞きたいことが、確かめたい真相が、あまりにも多い。


 衝動に駆られるままに、両足をバネのように跳ね上げた僕は教室の外へと飛び出す。

 ――ちなみに、走りながら僕は自身のかばんの中を確かめる。やはりというか、そこには身に覚えのない紙タバコの箱と百円ライターが雑に放られていた。

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