一.
1-1
まんじりともせずに夜を明かした。
あまりにも奇怪で、あまりにも不可思議な事件が巻き起こった昨夜。家に帰った後も、興奮しきった僕の脳内が鳴りを潜める気配を見せない。
あのバケモノは一体なんだったんだろう。心魔って何なのだろう。
フツウの人には視えないらしい。ではなぜ僕には視えた? それよりなにより――
狐面のあの子は、一体何者なんだろう。
……まぁ、でも。いいか。
疑問符をそのまま置いておいたところで、僕の生活には何の支障もきたさない。
僕が関わろうとさえしなければ、得体の知れないバケモノだろうが、摩訶不思議な狐少女だろうが、僕の人生と交錯する事案は発生しないはずだ。
余計な首を突っ込んで痛い目を見たのは、単純に僕がバカだったってだけの話。
勝手な思い上がりで他人の人生を台無しにするのはもう、こりごりなんだよ――
カーテンの隙間から太陽の光がこぼれている。鉛のように重いかけぶとんをはがして、僕はムクリと上体を起こす。すると。
四畳半一間の隅っこ、真っ黒な怪異と目があった。
ソイツは、ローブのような衣服を全身に纏っていた。手足を覆い隠し、フワフワと宙に浮いている。異常なほどに白い顔は耳を持たず、目を持たず、でも左右に大きく裂けた真っ赤な口を持っていた。
『ステロ、ステロ、ステロ、ステロ』
妙にエコーがかかったような、ノイズが混ざりあったような歪な声が、頭の中に響く。
僕はジッと怪異の顔を見つめた。心の中で問いをかける。
お前も、あの巨大な鳥のようなバケモノと、同じ存在なのか?
心魔とか呼ばれる、存在なのか? だとしたら、僕は――
怪異は、僕の質問に答えるつもりがないらしい。ただただその言葉を繰り返す。
『ステロ、ステロ、ステロ、ステロ』
……何を、捨てればいいっていうんだよ。
一つ、大きく息を吐くと、怪異は姿を消した。
ボーッとした頭で僕は制服に着替えて、自室を出る。朝の雑事を済ませてリビングに移動するとテレビの音が聞こえてきて、ソファに腰を掛けていた人物が僕に目を向けた。僕はその人に向かって杓子定規な挨拶を。
「伯父さん、おはようございます」
「おう、起きたか。ってひどい顔しているな。転校初日だっていうのに。……夜更かしでもして、あんまり寝ていないんだろう?」
伯父さんの眉間にシワが寄る。さっき洗面所で自分の顔を見てみたけど、確かに青白くて、目の周りのクマがくっきり浮かび上がっていた。
「ああ、うん。ちょっと緊張しちゃって、中々寝付けなくって」
僕は適当にごまかそうとしたけど、伯父さんには通用しなかったみたいだ。彼は眉間にシワを寄せたまま、語気強い口調で僕に声を返した。
「……緊張? お前、昨日の夜遅くまで外、出てただろ。どこで何をしていたんだよ?」
僕は伯父さんから目を逸らし、ばつの悪そうに目を伏せる。
「別に、何も。近所を散歩していただけだよ。こっちにきたばかりだから。どこにどういうお店があるかとか、早く覚えたくて」
「そういうコトは、昼間にやれっつーんだよ。お前、自分の立場わかってんの? また何か問題起こしたら、次はないんだぞ。社会っていうのはな、はみだし者に容赦をしないんだよ。真っ当な人生を送りたいんだったら、ココでは大人しくしとけよ。とにかく、俺に迷惑をかけるようなことは、するんじゃねーぞ?」
「……わかってるよ」
しばらく伯父さんは僕の顔を見ていた。やがて興味を失ったようにテレビへと視線を戻す。
「朝飯、自分で適当にやれよな。金は渡しているんだから」ぶっきらぼうな声が僕の耳に流れる。僕は冷蔵庫の中の牛乳を一杯だけ呑んだあと、「いってきます」届ける気もない声をこぼしてその部屋を出た。
僕は一週間前、西東京の一角に存在するこの街にやってきたばかりだ。
僕は前の学校で退学処分を受けた。父親が見つけた編入先の高校は東京のはずれに位置しており、実家からとても通える距離ではなかった。そんな事情で、僕は十七年間という歳月を過ごした地元を離れ、父親の弟にあたる伯父さんの家に居候させてもらっている。
数年前に離婚した伯父さんは、家のローン返済と養育費に頭を抱えていると聞いていた。詳しいことはわからないけど、僕の父親と伯父さんの間で、金銭的な取引が交わされたんじゃないかと僕は推察している。そうでもないと、ロクに話したこともない伯父さんが僕を引き取る理由が見当たらないから。
ありていに言えば、僕は親から厄介払いされていた。
お金の力を使って、父親は僕を伯父さんに押し付けたんだ。僕は疫病神みたいなものだ。
※
無限の直路がまっすぐと伸びている。僕は閑散とした廊下を歩いていた。
僕の隣を並んで歩くスーツ姿の若い男性が、コチラを見ぬまま声だけを僕にかけた。
「変に構えなくていいからな。うちの高校、ちょっと前までは結構荒れてて、でも最近はみんな大人しいもんでさ。俺、去年からクラス担任持ってるんだけどクソ真面目な生徒ばっかで、ぶっちゃけ楽させてもらってるよ」
「はぁ」僕はバカみたいな相槌を打つ。仮にも教職者が、そんなボロを転校初日の生徒に漏らしていいものだろうか。しかしその指摘は心の中だけにとどめた。
「お前の、前の学校での事情を知っているのも俺を含めて一部の教師だけ。クラスの生徒連中は知らないから。そのあたりも気にすんなよな」
「ありがとうございます」事務的な口調の担任教師に対して、僕もまた事務的な口調で思ってもない感謝を返す。そもそも僕は、この高校で他の生徒たちと交流を持つ気なんて一ミリもない。学園の風紀が乱れていようがいまいが、周りが僕の過去について知っていようがいまいが、どうでもいいことだった。
担任教師が『2ーA』のプレートが掲げられた教室の前で足を止め、引き扉を開け放った。「お前ら、ホームルーム始めるぞ。今日は先週話していた通り、転校生連れてきたから」彼の発声が教室中に届けられる。
僕はしおらしく担任教師の後を続いた。全体をぐるりと見渡すと、お行儀よく自席に着座している生徒たちの姿が目に入る。担任教師の言う通り、偏差値の割りには真面目な身なりの生徒が多い印象だ。髪を染めている奴なんて、一人もいな――
「えっ?」僕はギョッと目を丸くして、思わず声をこぼしてしまった。
「なんだ、どうしたんだ。もしかして知り合いでもいたのか?」
教壇の前に立つ担任教師が訝し気な目を僕に向ける。僕はハッと我に返り、バクバクと高鳴る心臓の音を必死にこらえた。そのまま早口でまくし立てる「いえ、ごめんなさい、なんでもありません」明らかに不審な僕の態度に、担任教師がやや腑に落ちない表情を見せながらも。
「なんだ、違うのか? とりあえず自己紹介、頼む」
僕はできるだけ、平静を装った口調でボソボソと声を落とす。
「他県の高校から編入してきました、
ペコリ。僕が申し訳程度のお辞儀を披露すると、幾ばくかの沈黙が耳に流れる。やがてしびれを切らしたように担任教師が口火を切った。
「えっ、それだけ? ……まぁいいや、じゃあ席は――あの、窓際の奥の、空いているところだから」担任教師の言葉を受けて、僕は今ひとたびペコリとお辞儀を披露した。
机と机、人と人の間を抜けて、僕は指定された自席へ向かい着座する。頬杖をつきながらチラリ。僕は目立たない程度に顔と視線を移ろわせた。
見覚えのある銀髪おかっぱ頭。見覚えのありすぎる真っ白な狐面を被った彼女に向けて。
一限目が終わり、授業間の休み時間も過ぎ去り、二限目も終わり――昨日、ほとんど寝ていないのもあいまって、教師たちのお経のような授業を僕は半分以上聞き流していた。悶々とした気持ちが胸中を巣くっている。僕は狐面の彼女の存在が気になっていた。
彼女は間違いなく、僕の命を救ってくれた『昨夜の彼女』と同一人物だろう。あんなナリした女子高生がこの世に二人と存在するものか。
しかし僕は、彼女に話しかけて真相を確かめる踏ん切りがついていなかった。
そもそも、当然のように狐面を被りながら、当然のように日本刀を腰に帯刀しながら、のほほんと授業を受けている彼女の姿はどう考えてもおかしい。でももっとおかしいのは――彼女の異形を平然と受け入れ、指摘しようともしないうちの学校の先生や生徒連中だ。
僕の頭は、昨日から少し、おかしくなってしまったのだろうか?
おかしいのは『世界』じゃなくて、『僕の方』なのだろうか?
そんな疑問さえ脳によぎり、僕は彼女に事を追及するのを躊躇してしまっていた。
気づけば昼休みの時間が訪れる。朝ごはんさえ用意しない伯父さんが、弁当などこしらえてくれるワケがない(ちなみに、自分で用意する気力もない)。この高校には購買部やら学食が設営されているとは聞いた気がするけど……、困ったな、場所がわからないや。
『彼女』に聞いてみようかな――先ほどまで狐面の彼女が座っていた席へ目を向けるも、しかし忽然と姿を消していた。どうやら早々に教室を出てしまったらしい。
……まぁいいか。散策がてらに校内をブラついて食糧調達に勤しむことにしようと、僕が椅子を引いて立ちあがったところで――
「柳楽くん、もしかして、購買部の場所がわからないのかしら?」
快活な声が、僕の耳元に飛び込んだ。
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