0-3


 意志を失ったバケモノの胴体が、突っ込んだ勢いのままに地面に転がり落ちる。少し遅れて、バケモノの顔が地面にベチャリと落下した。バケモノの悲鳴が聞こえてこない。それは、バケモノの意志がすでにこの世界からなくなっている事実を証明していた。


 切り離されたバケモノの三つの部位からどす黒いモヤが溢れ出る。モヤはすぐに収まり、まるではじめからソコには何もなかったかのように、くちばしも、かぎ爪も、緑色の大きな翼も、巨大な人の顔も――


 バケモノが存在していた痕跡は跡形もなく消え去った。


 カチャリ――固い音が接触するような音が響く。音の鳴る方に僕が目を向けると、狐面の彼女が腰の帯に差していた鞘へと刀をしまっていた。


 目まぐるしく変わる状況をただ傍観していただけの僕は、再び訪れた静けさの渦中、ゆっくり、ゆっくりと自分の意識ってヤツが脳に戻ってくる感覚を覚えていた。


 気づけば、心臓の鼓動がドクドクと飛び出しそうな勢いで高鳴っている。

 気づけば、口の中はカラカラに乾いている。

 僕は阿呆の如く開け放っていた半開きの口を久方ぶりに閉じて、ゴクリと生唾を呑み込んだ。


 ……助かった……、のか?


 僕は自らが置かれた状況を整理するのに必死だ。ありていに言うと、僕は混乱している。


 しかし僕の胸中などお構うこともせず、狐面の彼女がくるりと全身を翻し、情けなくへたりこんでいる僕に近づいてくる。約一メートル先の距離で彼女は静止し、彼女が僕を見下ろす恰好となった。狐面の彼女が僕に声をかける。


「良かった。無事のようだね。しかしさきほど、かなり高いところから落下してしまったよね。御免よ。いささか乱暴だったが、あの時はあの方法しかやりようがなかったんだ。少しでも遅れたら、キミの頭はアレに喰われてしまっていたからね」


 彼女の声は相変わらず淡々としている。僕はというとすぐに返事を返せず、ジンジンと痺れるような背中の痛みを思い出していた。彼女が流暢に言葉をつづける。


「それよりキミは、アレに捕らえられていたようだけど。……アレの姿が視えたのかい? アレの声が聞こえたのかい?」


 アレとは……? ――いや誰がどの頭でどう考えても、あの巨大な鳥のようなバケモノのことに決まっている。脳みそがマトモに働いていない僕は未だに声を出すことができず、代わりにコクコクと首を縦に振った。


 彼女は狐面の口元に右手をあてがい、「成程」と一言漏らす。幾ばくかの静寂を経て、腕を下ろした彼女が再び僕に声をかけた。


「心魔によってはね、『視える』人間を見つけると容赦なく喰おうとする輩もいる。フツウの人に心魔は視えないからね。彼らは、自分を認知できる存在を、自分が狩られて消失するのを、極度に恐れているんだろうね」


 さっきから、狐面の彼女が吐く言葉の意味がよくわからない。僕の脳裏を幾多の疑問符が舞い、口からは久方ぶりの声が漏れ出た。


「……心、魔?」


 聞き覚えのない単語を耳にして、僕の片眉が吊り上がるのは必然だ。狐面の彼女は、ハッと何かに気づいたように両手をあげ、そのままポンッと右こぶしで左掌を叩く。


「そうか、私としたことが、いささかうっかりしてしまったよ。心魔の存在を、キミが、フツウの人が、知る由もないよね。……いや御免。今宵の出来事はすべて忘れた方がいい。さきほどのバケモノも、私と出会ったことも、その一切を頭の片隅に封印した方がいい。そして今後、アレの姿を見かけても決して近づいてはいけないよ。存在を意識すらしてはいけないよ」


 彼女は、子をなだめる母親のようなトーンでそう言った。しかし僕とて「はい、そうします」と一言で済ませられる心境にはなっていない。わからないことが、あまりにも多すぎるから。


 ようやく全身に力が戻ってきた僕は「ちょ、ちょっと待ってよ」と情けなく呟きながらヨロヨロと立ち上がった。彼女に近づき、取り急ぎの疑問をぶつけてみる。


「あの男、どうなっちゃったの? キミがさっき、あのバケモノを斬ったあと、あの男も意識を失ったみたいにそのまま倒れちゃったけど……、まさか、死んじゃったの?」


 僕は、すぐ近くでうつぶせになっている中年の男性を指さして言った。その人はピクリとも動かず、死体だと言われてもおかしくないほど生気が感じられない。でも彼女は「ああ」と、のん気な声をあげて、淡々と言葉を繋ぐ。


「心配ないよ。一時的に意識を失っているだけだと思うよ。あの人は心魔に憑かれて、心を操られていただけだからね。心魔を失った人間は目が覚めたあと、本来の自我を取り戻すんだ」

「いやだから……、そもそも『心魔』ってなんなのさ?」

「ああ、そうか。私としたことが、これまたウッカリ――」


 僕は彼女にずずいとにじり寄り――僕に顔を向けた彼女は途中で口を止め、何故かピタリと硬直してしまった。……えっ?


 狐面の裏側。隠された彼女の表情が今どうなっているかなんて、僕は推し量ることはできない。でも狐面越しに、彼女の両目に、僕の顔面がじぃっと見つめられているような気がした。


 静寂が僕たちの間を埋めている。ダンマリを決め込む彼女との時間に耐えられなくなったのは僕で、「あの?」僕は訝し気な声を彼女にかけた。それでも彼女は押し黙ったまま、僕の声が彼女の耳に届いているようには思えない。


 彼女は全身をブルブルと震わせはじめた。そして。


「――キ、キミの……ッ! その……ッ!」


 ぐいっと狐面を僕に近づけてきた彼女が、興奮した様子で僕の両肩を掴んだ。驚いた僕が飛び上がりそうになっているのは言うまでもない。混乱に混迷が二乗された僕は「えっ? えっ?」情けない声をあげるばかり。狐面の彼女の耳は何故だか真っ赤に染まっている。


 やがて彼女は、我に返った様子で僕の肩から手を離し、ずざざっと数歩後ろに後ずさった。そのまま大袈裟に両手をブンブンと振りながら。


「ち、違う。誤解だ。私は、その……、いわゆる痴女と呼ばれる類の存在ではないっ! キミに痴漢行為を働こうなど、露ほども思ってはいないっ!」


 ――はっ……?


 謎に包まれた狐面の彼女。不可思議な言葉を宣う謎の少女。而して。

 その台詞は、今日イチで意味不明だ。


 僕はポカンと口を半開きにしながら呆けていた。彼女は相変わらず慌てた様子でブンブンと両手を振っている。ちなみに彼女の耳はさっきよりも赤くなっていた。


「ほ、本当だっ。信じて、信じてく――」

「いや、信じるというかなんというか、……痴女? 痴漢行為? いきなり何言ってんの?」


 僕は思っていることを素直に口に出してみた。

 彼女はピタリと動きを止めて、静寂が再び僕たちの間を抜ける。


 やもすると、狐面の彼女はゆっくりと腕を下ろして、コホンッとわざとらしい咳ばらいをした。その後、恐ろしくか細い声を出す。


「……とにかく、今日見たことはあらゆる意味で忘れるように。それじゃっ」


 彼女はクルリと僕に背を向けて、そのままスタスタ、足早にこの場を去ろうとしている。



 ……いやいやいやいやっ!?


「まっ、待ってよ! まだ、話は何も――」


 彼女から一手遅れ。慌てた僕は彼女の背後ろに向かって声を投げつけた。でも彼女はスタスタと、僕の発言をまるごと無視した様子で僕から遠のいてしまう。……逃がすものか。


 僕は凝り固まってしまった足を無理やり動かし、彼女の後を追おうとした。

 しかし、パサッという軽い音ともに、彼女の腰に巻かれた紫色の帯から何かが落ちるのが見えた。僕の意識は一瞬ソレに奪われてしまい、ヨロヨロと近づき、思わず地面に落ちたソレを手に取る。一冊の文庫本だった。


『恋愛ビギナー必読! ~初カレをゲットするための七つの法則~』


 ――へっ……?


 刹那。僕の眼前を神風が舞う。

 僕の遥か先を歩いていたはずの彼女が、人の所業とは思えない動きで舞い戻る。そのまま僕が手に取った文庫本をかすめ取った。


 前屈みの姿勢になった彼女が、僕の眼下から睨み上げるように狐面を向けた。そして一言。


「……本のタイトル見た?」


 本日二度目。死の恐怖を感じた僕は防衛本能に従うままにブンブンと首を横に振る。


 しばらくそのまま硬直していた彼女が、やがてスッと姿勢を正し、今度こそくるりと僕に背を向けた。静寂の広がる住宅街の闇夜へと消えていく。

 呆気に取られすぎたせいか、僕は彼女の後を追う気が削がれていた。


 やがてパトカーのサイレンの音が遠くから。男に暴力を振るわれた女性が通報したのだろうか。これ以上厄介事は御免だ。狐面の彼女に遅れること数分、僕もまた足早にその場を去った。


 必死に足を動かしながら、しかし僕の脳内では幾多の疑問符がグルグルと高速回転をつづけている。為りを潜める気配はない。

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