第20話


「違う言うたやん」


 口を突く。

 思わず漏れた。

 紅葉の言葉が、あまりにも私に都合が良くて、嬉しい事で。

 けれど、ざくりと胸に刺さった言葉が一つあって、そのたった一言の言葉で私は、紅葉の話を信じる事が出来なかった。


「いつ?」

「ついさっき。忘れたん?」


 とぼけた様な紅葉の表情が、私の心をざわつかせる。

 紅葉にとってあの言葉は、記憶に残す価値すらない言葉だったのかと思うと、切なくて喉が苦しい。

 覚えておく必要もないほどに、紅葉には当たり前の事になってしまっているのかと思うと、滑稽で泣けてくる。

 いつからですか。

 私が紅葉にとって、役に立たない女になったのは。

 なんの期待も持てない女になったのは、いつからですか。

 ついさっきの事ですか、ほんの少し前の事でしょうか、それともずっと前からですか。

 それとも初めから、私はただ、紅葉の邪魔ばかりしてきてしまったのでしょうか。

 私はいつも嬉しかったのに。

 私はあんなに傷ついたのに。

 私だけが、苦しい。

 それが、悲しい。


「何が、違うの?」

「うちが聞きたい!」


 本当は、聞くまでも無い事だった。

 私には分かり切った事だった。

 本当は、聞きたくない事だった。

 紅葉には、分からない事らしかった。


「この服、似合わんって、言ったやん」


 真っ白な、可愛らしいワンピース。

 洒落っ気があって、活動的に見えて、すごく出来の良い仕立て。

 それは、私の為に仕立てられたものではない。

 みっともない独占欲か、それとも、勝手に裏切られた気になった孤独感からくるものか。

 よく分からないけれど、私は、酷く悲しくて、心細かった。


「そんな事、言ってない」


 言ったじゃないか、違う。と。

 私には似合わないと、そう思ったのでしょう。

 思わず、本心が漏れたのでしょう。

 だから、覚えていないのでしょう。

 わかるよ。

 そんなの、見たらわかる。

 だって本当に、私には似合ってない。

 私にはもったいないくらい、素晴らしい出来だと思う。


「言ったやん」

「言ってない。そんな事、絶対、言う訳ない」


 言えないか。

 言ったとしても、言ったとは認められないだろう。

 紅葉は、優しい人だから。

 言ったと言えないのかもしれない。

 どうだこうだ言っても、紅葉はとても優しい人。

 自分で自分が優しい事にも気づいていない。

 馬鹿な人と言うのは、それは、まあ、言葉としては本当かも。

 でも、その優しさも、今の私には毒にしかならない。

 紅葉にとっても、猛毒だ。


「もう、ええよ」


 そんな嘘を吐かなくても、良いのです。

 私の事が好きだとか、大切だとか。

 嘘だったとしても、そう言って貰えたことは、とても嬉しい。

 私は紅葉の事が大好きだし、とっても大切に思っています。

 けれど、これから、本格的に服飾の勉強をしなければならない人が、私なんかに構っている暇はないでしょう。

 マネキン以上の役にも立てない私に、優しくする必要はないのです。

 嘘を吐いてまで、私に優しくしなくていいのです。

 私に、そんな価値はないのです。

 私は今まで、充分、優しくして貰いました。

 ごめんなさい。邪魔ばかりしてきて。

 ごめんなさい。モデルになる事も出来ません。

 ごめんなさい。紅葉の優しさに甘えるばかりで、何にもお返しできなくて、本当にごめんなさい。


「ありがとう」


 それくらい言わなければと思ったら、涙が溢れた。

 このワンピースを脱いで、制服に着替えたら。

 もう、紅葉の仕立てた服は着れない。

 そう思うと、悲しかった。

 そんな事で泣いてしまう、自分が情けなくて、嫌だった。

 でも、涙は止まりそうになかった。

 辛かった。

 苦しかった。

 惜しかった。

 悔しかった。

 楽しかった。

 もっと、私が頑張れたら、次も、その次も、ずっと未来だって。

 私は、紅葉の役に立てたのかも知れなかった。

 紅葉に、違う。なんて、言われずに済んだのかも知れなかった。

 私が頑張って、モデルになって、ミスコンに出ると決意出来たら。

 もしかしたら、紅葉の優しい嘘は、本当になったのかも知れなかった。

 そんな、自分勝手な後悔ばかりする。

 頑張れなかった自分が、嫌だ。

 けれど、少しだけ、ほっとした。

 いつも、そうだった。

 役者をやめた時から、私は、何にも、変わらない。


「馬鹿!」


 そう。私は馬鹿な女だ。

 涙が、化粧なんて名前の嘘の塊を吸い取りながら、頬を伝う。

 ああ、きっと、今の私は、相当みっともない顔になっている。人に見せられない顔をしている。

 自然と顎が下がって、紅葉に見えないように、悪あがきをする。

 無駄な事。

 もうとっくに、みっともない。見てられない。見て貰えていない。

 けれど、嘘を吸って汚く汚れた涙が、早く、私の顔から離れて落ちてしまえばいいのにと、私は願う。


「化粧したまま泣く奴が居るか!?」


 途端に、息苦しくなった。

 暖かいものが顔に当たった。

 暖かくて、良い匂いがした。


「これからミスコンに出るのに!まだら模様になったらどうするつもり!?」

「ごめん、なさい」


 息苦しいまま、耳元から聞こえた紅葉の言葉に謝罪を返す。

 そうだ。

 ミスコンには出られないけれど、この服は、紅葉の仕立てた、大事な服だった。

 そんな事も覚えていられない、紅葉に余計な世話を焼かせる、邪魔ばかりする馬鹿な女。

 こんなの、愛想をつかされたって仕方がない。

 情けなくって、涙が止まらない。

 余計に、涙が出る。

 嗚咽を吐く。

 みっともなくて、嫌になる。

 優しい紅葉が、もっと、好きになる。

 頭の中はごちゃごちゃで。

 心の内はめちゃくちゃで。

 泣きたいのだか、泣き止みたいのだか、もう自分でも、良く分からない。

 けれど、まるでミシンみたいに早く打つ、紅葉の鼓動が聞こえてきて、不思議と少しだけ、落ち着いた。


「間に合ったから、良いけど」


 ぶっきらぼうに、紅葉は言った。

 少し怒ってるのが、声色から分かった。

 紅葉が大きく、息を吸って、吐いた。

 顔を見られたくなくて、顔を横に向けて、縋りつく。


「似合ってないなんて、言ってない」


 思ってもいない事を、絞り出して言ったと、分かった。


「うそ」

「本当」

「うそや」

「さっきは、違うって、言ったの」

「同じ事やし」

「全然違う」


 違わない。

 紅葉の背中に回した自身の腕に力を籠め、顔を少しぐりぐりして、嘘を吐くなと、不満を示す。

 その仕草は紅葉に正しく伝わったのか、大きなため息を一つ、頂戴した。


「それは、服に対して思った事で、紫苑の事じゃない」


 意味が分からない。

 こんなに良い出来の服なのに、それがどうして違うと言う言葉に繋がるのか、私には全然、納得できない。

 吐くならもっと、マシな嘘を吐けば良いのに。

 少し腹がたって、顔をぐりぐりする。

 この大きくて柔らかい物が、少しでも擦り減ってしまえばいい。


「さっきの私の話、聞いてた?」


 聞いてた。


「紫苑は、可愛いから」


 可愛くない。面倒くさい、ダメな奴だ、私は。


「私は、可愛いと思ってるから。もっと似合う服があったんじゃないかって、思った」


 それは、私に、似合わないだけ。

 服のせいじゃない。


「絶対に似合うと思って作ったけど、実際着てもらったら。ダメな所がいっぱい見えた」


 だからそれは、私が悪いの。


「服が負けてんだよね。いや、情けないし、恥ずかしいけど、正直に言う。服が邪魔してる。紫苑は、もっと可愛いんだ」


 だから、そうじゃなくて。


「ショールとか、変に色気出して洒落っ気出すんじゃなかったと思ったし、帯も太すぎ、リボンも大きすぎで子供っぽい。白は、正解だったけど、デザインはもうちょっと華やかな方が良かったし、全体的にバランスが良くない。腕も無いのに欲出して、あれもこれも表現したいと思ったし、出来ると思ったけど、私の今の腕前じゃ何したいのか迷子な服になっちゃった、ちょっと背伸びし過ぎた」


 そんなこと、服を作る人にしか分からない。

 この服は、紫苑が頑張って仕立てたもので、ただそれだけで、素晴らしい物なのに。


「だから、ごめん」


 なにが。


「紫苑が自分で、似合う。と思える服、作れなくて」


 それこそ紅葉のせいじゃない。

 それは、そもそも、私の問題。


「でも、紫苑に、一番似合う服を、作ったつもり」


 息がつまるくらいに、紅葉は私を抱きしめた。


「私が見てきた、紫苑のイメージを、そのまま形にしたつもり」


 背中に感じる紅葉の指先が、少しだけ震えていた。


「全然、下手くそだけど。まあ、今までで、一番いい出来なのは、確か」


 紅葉の心臓は、壊れたみたいに、激しく跳ねていた。


「紫苑が好きって言ってくれたのは素直に嬉しかったけど。作った本人が言っちゃいけない言葉だけど。私は、この服嫌い」


 辛いのだろうか。


「もっと上手に出来ただろ。って叱られてる気分になるし。自分が下手くそなんだって、嫌でも見せつけられるし。本当に、私はもっと紫苑に似合う服を作れるのかなって不安にもなる」


 苦しいのだろうか。


「でも、可愛いんだ」


 怖いのだろうか。


「苦労して仕上げたってのもある。紫苑に褒めて貰えるっていうのもある」


 私には、紅葉がどうして震えているのか、本当の所はよく分からなかったけれど。


「でも一番は、紫苑が着るから、可愛いんだ」


 それでも紅葉が、本心を私にぶつけてくれている事だけは。


「紫苑に着せたいから、可愛いんだ」


 分かってしまった。


「もっと可愛い服を、着て欲しいんだ」


 信じてしまった。


「私が作った服を着て欲しいんだ」


 信じたいと、思ってしまった。


「紫苑。これから、ずっと」


 信じないとか、信じるとか、自分勝手な理由でしか、言葉の真偽を計れない。


「私の作った服を着て」


 私は本当に、馬鹿みたいな女だった。


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