第15話


 苦労もしました、苦悩もありました、けれど、役者になる事を諦めた事だけは一度だってありません。仕事は楽しかったですし、やり甲斐も感じていて、これ以上に楽しい事を知らなかったものですから、娘にも演技の道を勧めたのです。

 それが天才子役、藍川紫苑のスタートでした。

 紫苑には演技の才能があって、努力家で、真面目で、物覚えの良い、役者になるために生まれたような子供でした。

 それは、私達夫婦だけでなく、紫苑の演技を見た者ならば、誰しもが思った事でした。

 紫苑も、演技の道を楽しんで歩んでいるように見えたのです。

 けれど突然、紫苑は、舞台に上がるのが怖いと言い出しました。

 始めは、誰にだってある、自身喪失だと思いました。

 私達だって、いつも万全と思える状態で舞台に上がれる訳ではないし、なんだか納得がいかないと思っても、自分一人の為にスケジュールは変えられません。そんな時は、見る人を満足させられるのだろうかと不安を感じるし、舞台に上がるのが怖いと思いもします。そう言う経験は幾らでもありました。

 けれど経験を積んで、表現は微妙ですけれど、清濁併せ吞む事が当たり前になれば、決して自身のコンディションが良くない時でも、その時その時で最善のパフォーマンスを発揮する事は出来るようになるものです。

 それは努力を続けていれさえいれば、時間が解決する問題だと、私達は知っていたのです。

 だから私達夫婦は、紫苑を応援し続けました。

 今日の演技は良かった。次はきっと、もっと良くなる。だから怖がることはない、大丈夫。

 そう言い続けてきたのです。

 けれど、紫苑の自信喪失は、悪くなる一方でした。

 自分を見る他人の目が、恐ろしくてたまらないと、紫苑は言いました。

 悪い所なんてないのに、一人で思い悩んで、辛くて仕方ないのか、泣いてもいました。

 私達夫婦は、そこで、初めて気が付いたのです。

 紫苑は、私達の子供だけれど、私達とは、違うのではないか。

 親が演技の道に生きがいを見出しているという勝手な都合で、演技の道に引きずり込まれただけで、本当は、演技の道なんか、好きではないのかもしれない。

 辛いよりも、楽しいが勝れば、私達のように、いくらでも耐えられる。必ず報われると知らなくても、耐えられる筈なのです。

 けれど紫苑は、辛そうなばかりでした。

 私達夫婦は、これ以上娘の辛そうな姿を見ていたくなくて、演技をやめても構わないんだ。と、そんな事を言いました。

 紫苑は子役をやめたけれど、紫苑の他人に対する恐怖は無くならなくて。

 医者の言う通り、以前の街よりずっと人の少ないこの町に、紫苑が落ち着くまでと決めて、引っ越す事にしたのでした。

 本当は、両親揃って紫苑のケアをするべきだと思ったのですが、稼ぎがなくなれば、どうにもなりません。

 役者の仕事がある方は、そちらをやる事にしました。

 ない方は家で紫苑と一緒に過ごして、紫苑が学校に行っている間は、適当にアルバイトでもすれば、食べるに困ると言う事もないのです。

 引っ越しをしても、藍川家のライフスタイルは、以前と大して変わりませんでした。

 そして紫苑は、紅葉ちゃんと出会いました。

 転校初日、私達は、紫苑が怖くて泣いていないか心配で、それぞれの仕事が、手に付きませんでした。

 けれど、アパートに帰ってきた紫苑は、友達が出来たと、控えめに笑っていました。

 心底、ほっとしたのです。

 その子のお陰で、学校では怖い思いをしなくて済んだ。と喜んでいる紫苑を見て、私達は情けなさと、安心と、まだ顔も知らなかった、紅葉ちゃんという女の子がこの町に居てくれた事を、感謝しました。

 紫苑は学校から帰って来るたび、私達夫婦は紅葉ちゃんの話を聞かせてもらいました。

 こういう話しをした、ああいうことを聞かれた。

 紫苑は、楽しそうにしていました。

 紅葉ちゃんに、家に遊びに来いと誘われたとか、泊まりに来いと誘われたとか、そう言う話を聞くたびに、私達は安心して、同時に、親としての不甲斐なさも感じたものでした。

 紅葉ちゃんと仲良くなってから、紫苑の対人恐怖症は、ずいぶんと改善したように見えました。

 紫藤家の皆さんに一家そろってお世話になる様になってからは、私達の仕事も軌道に乗り始めて、紫苑も毎日幸せそうで。

 本当に、ありがとうございました。

 だから、と言うのも、情けない限りなのですけれど。

 紅葉ちゃん。紫藤家の皆さん。どうかこれからも、紫苑の面倒を見てやって欲しいのです。

 紫苑は、私達に、二人ともお仕事が大好きなんだから、私の為に、我慢なんかしないで。と、そう、言うのです。

 私達夫婦は、娘の事も満足に助けられない、情けない親ですけれど、せめてその一つくらいは、紫苑の望む通りにしたいのです。


 紫苑のご両親の話を聞いて、紫苑の両親は、根っからの役者で、親なのだと知った。

 役者以外の将来を考えず、ひたすらに役者になる事に憧れて努力を続けてきた立派な人たちで、似たもの同士のおしどり夫婦。

 紫苑の事も、親としてきちんと愛情を持っていて、二人なりに紫苑の問題に向き合って、解決しようと努力を欠かさなかった。

 優しい、ちゃんとした親であるらしかった。

 けれど感じたのは、なんだか納得できない、ぼんやりとした疑問。

 私の知る藍川紫苑と、ご両親が語る藍川紫苑の過去とが、あまりにも噛み合わないような気がしたからだ。

 私の知る紫苑は、いつも楽しそうで、幸せそうで、辛い事など一つも無い様な、そんな印象を私に与えてくれる、可愛くて、格好良くて、誰彼構わず自慢して回りたい親友だ。

 ご両親が言う、そんな紫苑は、見た事が無かった。

 のだけれど。

 でも、本当にそうだったのだろうか。とも思った。

 私が知るのは小学三年生以降、つまりは私が実際に見た紫苑だけだ。

 良く良く思い出してみれば、初めて出会ったあの日の教室で、紫苑はどうしていたのだった?

 紫苑は、初めから楽しそうにしていただろうか。

 初めて出会ったあの日の紫苑は、どんな様子だっただろう。

 私と紫苑は、出会ったその瞬間から、十年の付き合いがある、みたいな、関係だっただろうか。

 そんな訳ない。

 最初は当然、顔も名前も知らない、ただの他人同士だった。

 不安げに、涙を堪えながら、それでも凛と立ち続けた紫苑に、私は一目ぼれしたのではなかったか。

 ならば、ご両親が言った事はきっと、事実なのだろうと、思った。

 だって、紫苑は初め、私に本当の笑顔を見せてはくれなかった。

 どうしたら良いのか分からないと言いたげな、曖昧な笑顔ばかり見せられて、悔しくて、出会ってたった数日で、家に招いたのではなかったか。

 そうだ。

 今見ている紫苑の自然な笑顔や態度は、私と紫苑が長く付き合う過程で、見せてくれるようになったものだった。

 紫苑は私に、昔の事は何も話さなかった。

 私は紫苑に、昔の事は何も聞かなかった。

 話したくなかったのか、話す必要が無いと思っていたのか、はたまた全然違う話なのか、それも分からない。

 だって紫苑は、ずっと、楽しそうにしていたのだから、そんな辛い過去があるなんて、想像もしなかった。

 でも、気にするきっかけはあった。

 気付ける要素はあったのだ。

 けれど、馬鹿な私は、自分の楽しい事だけ見てきた私は、気付けなかった。

 気付けたところで、何が出来たかすら、私には、分からないのだけれど。


 けれど。

 ご両親の話に、気になる所もあった。

 私だから気になったのか、は、分からないけれど。

 どうして、そこで、やめてしまったのだろうかと、思わずにはいられない。

 いや、筋が違う。

 私の言えた事じゃない。

 紫苑のご両親を責める様な言葉を、私が吐く権利はない。

 だって、私は、そんな事、そんな過去、そんな事情があったなんて、知りもせず、知ろうともせず。

 ただ、私が好きになったからという理由で、自分勝手に紫苑と親しくなっただけ。

 ご両親からの感謝の言葉だって、申し訳なくて受け止められない。


 けれど、何かは、したいと思った。

 だって私は、紫苑の事が好きだった。

 可愛いと思うし、格好良いと思うし、そんな事情を知ってしまえば、すごいとも思った。

 それに、私は毎日、紫苑に助けてもらっていた。

 毎日、背中を押して貰っていた。

 だから、じゃないけど。

 私だって、紫苑の背中を押したいと思った。

 紫藤紅葉は馬鹿な女だ。

 何でもは、上手には出来ない。

 上手にできるのは、いつだって一つだけ。

 何が出来るのかはわからなかったけれど、馬鹿でも出来る事は、一つくらいあるに違いないと、私は思った。




 何も思いつかないまま、私は高校三年に進級してしまった。

 情けなくて、嫌になる。

 けれど、紫苑の服は仕立て続けて、その都度自信を無くして、背中を押して貰って。

 だから、何かしなければ、という思いは、忘れずに済んだ。

 紫苑に、特別変わった様子は無かったように見えた。

 そう見えるだけかもしれないと、私は思った。

 疑いたくは無かったけれど。

 私と居るときの紫苑は、本当に素の部分で、私と親友関係にあると思ってくれているに違いないと、そこは疑いたくなかった。

 でも、私と居ない時の紫苑はどうなのだろう、とは思った。

 高校生になってすら、ご両親の話通り、他人が怖いと、思っているのだろうか。

 気にして見てみれば、すぐにわかった。

 進路の事で先生に居残りを命じられ、私は紫苑と別れて帰宅する機会が増えた。

 私と紫苑は小学生の時からずっと帰宅部で、私以外の誰かと話をする機会は稀で、用事が無ければ、すぐに帰宅する。

 私の自意識過剰なのかも知れないけれど、『紫藤紅葉と一緒に居れない学校には何の用事もない』と思っているのではないかと、思わずにはいられなかった。

 紅葉の事が気になって、私は補習すら満足に集中できず(勉強に集中できないのはいつもの事だけれど)、先生から『このままだと、どこの学校も受からないぞ』という、脅し文句を頂戴した。


 しばらく補習をしても一向に学力の向上が見られない私の実情を見かねた担任の先生は、素晴らしい発想の転換をもたらしてくれた。

 曰く。『お前には一般入試も、普通の推薦も無理。もう高卒枠ではなく一般枠の、一芸入試がある専門学校を狙え』。

 一芸入試。所によってはAO入試、自己推薦、などと呼ばれる事もある。

 つまるところ、私はこういう事が出来る。だから私を入学させろ。と言い張る入試方法があるらしい。

 服飾デザイン系の専門学校狙いなら、裁縫が得意なら、それで進学してみろ。とのお達しだった。

 望む所だった。

 そもそも、欠片も面白くない勉強などに時間を使うのは、馬鹿らしいと思っていたのだ。

 先生は、高卒見込みでも一般枠で一芸入試が可能な専門学校を、いくつもリストアップして、私に教えてくれた。

 その中の一つに、私がかねてより興味を持っていたイタリアのとあるデザイナーを特別講師として迎えている専門学校があった。

 私の進路は、そこに決めた。

 一芸入試の為の、作品作りを始める事にしたのだけれど、紫苑の事が気になって、全然捗らなくて、困った。


 初めて、紫苑から進路に関する話をされた。

 幾つか質問をされて、答えて。

 私も紫苑の進路について、尋ねた。

 酷く不安そうな声色で決まっていないと言うものだから、思わず裁縫の手を止めて、紫苑の表情をうかがった。

 懐かしい表情をしていた。

 初めて出会った時の様な、何かを恐れている様な、それでも、意地を張っている様な。

 いつまでも変わらない、可愛い顔。

 でも今では、そこまで、好きではない顔。

 もっと好きな顔を、私は知ってる。

 紫苑は、やりたい事が、無いらしい。

 そう言う事もあるか。と思った。

 私みたいに、これと決めたらそれで決まってしまう人も居れば、そうでない人も居る。

 人それぞれ違う。

 私は出来れば、ずっと紫苑と一緒に居たかった。

 だって私は、紫苑の為に(本質的には自分の為にでもあるけれど)、服を仕立てたいのだ。

 紫苑以外に服を仕立てたいと思う相手はいない。

 ずっと、一緒に居てくれたらいいのに。

 そう思って、閃く物があった。


「そうか」


 そうかそうか。

 そうか!

 そうしよう。

 紫苑が私専属のモデルになってくれたなら、これからずっと、一緒に居られる。

 私が服を仕立てる、それを紫苑が着る。

 可愛い紫苑が着た服は、絶対売れる。

 紫苑に、私みたいに、将来絶対これをして生活したい。みたいなものが、無いのなら!


「なら」


 紫苑がモデルになっても大丈夫。

 馬鹿な私は、またしても、自分の事しか考えられていなかった。


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