第14話


 藍川紫苑。

 役者の両親を持つ、芸能一家の一人娘。

 幼少期から子役として頭角を現し、将来を期待されるも、現在は引退している。

 引退の原因は、自信喪失からくる舞台恐怖症及び対人恐怖症。と医師により診断され、両親を含めた周囲の人間を困惑させた。

 藍川紫苑は紛れもない天才だった。

 藍川紫苑に比肩する子役など、数えるほどしかいなかったし、紫苑以上の才能を感じる子役など絶無だった。

 けれど、舞台に上がるのが怖いと言う紫苑本人の意思を尊重し、引退という運びになった。

 都会と人から離れるため、この田舎町に引っ越ししてきた。


 それが、三者面談が済んだ後、私が紫苑の両親から聞かされた、藍川紫苑の過去。その要約である。




 紫藤紅葉は馬鹿な女である。

 それは、今に始まった事ではない。

 昔からそうなのだった。

 何かと何かを同時に行う、と言う事が、特別苦手な子供だった。

 その代わりなのか、一つの事には、際限なく没入する性分だった。

 けれど、それだって、いつまでもずっと、という事でもなく。

 何かに興味を覚えて、熱中する。

 けれど、すぐに、興味を失う。

 熱しやすく、冷めやすい。そのような言葉で表すことが出来る女の子だった。

 何かを続けると言う事が、出来ない人間だった。

 今もそうだと思ってはいる。

 高校生にもなって、今でも続けていると自信を持って言えるのは、たった一つだけしかない。

 だから、紫藤紅葉は自分を呪う。

 自分が、もっと賢く、もっと器用で、もっと優しい人間であったなら。

 もっと上手な方法を、きっと、見つける事が出来たに違いなかったのにと、悔やむ。


「無理」

「なんで?」

「絶対無理」

「だから、なんで?」


 紫苑は俯きながら、再び舞台に上がる事は出来ないと、私に伝えようとする。

 私はそれを、認めない。

 私の理由はあるのだけれど、認めてやればいいのに。と自分でも思う。


「むりだって」


 紫苑の声は、半分。涙声になっていた。

 聞いている私まで、辛くなるような声だった。

 だって紫苑は昔から、泣きそうな時よりも、笑っている時の方が、ずっと、可愛い。

 私は、紫苑が可愛いから、好きなのだ。


「無理じゃない」


 でも私は言う。

 私は認めない。

 私は馬鹿だから。

 他に出来る事が思いつかなかったから。

 思いつけた一つを、死ぬ気でやる。

 紫苑が泣こうが喚こうが、私は、絶対、揺るがず、やると決めた。

 なんだか、懐かしい気がした。




 初めて出会った時。

 紫苑は泣きそうな顔をしていた。

 それでも、充分。

 日本一可愛いと私は思った。

 一目ぼれと言うと、ニュアンスが異なる気がするけれど、他に言葉を知らないから、一目ぼれした。という事にしよう。

 どうして、この子は可愛いのだろうか。

 ふと、そんな事を疑問に思った。

 顔なのか、服なのか、それとも雰囲気なのか。

 小学三年生だった当時は、わからなかったけれど、今はわかる。

 泣きたいなら、泣けばいいと思う。

 辛いなら、辛いと言えば、楽になるかもしれない。

 ここに居るのが嫌ならば、逃げ出したって、誰にも責められる事じゃないと、私は思う。

 けれど、藍川紫苑は、それをしない。

 耐えて、堪えて、どうにかしなければと頑張っている。

 私には出来ない紫苑の在り方が、とても愛おしいと、格好良いと、今の私は思うのだ。

 けれど、小学校三年生だった当時の私は、そこまでものを知らなかった。(今も大して知っているとは思わないけれど)

 私の私たる所以か、すさまじい熱中性を発揮して、すぐにでも紫苑と友達になりたかった。

 もっと、紫苑の事を知りたいと思った。

 食べ物は何が好きか、好きな色は何色か、休みの日は何をして過ごすのか。どんな些細な事でも知りたかった。

 すぐにわかったのは、紫苑がなかなか、笑顔を見せてくれそうにないと言う事。

 困った顔や、遠慮が全面に出た愛想笑いも、びっくりするほど可愛いのだけれど、本当は、どんな顔で笑うのか、すごく気になった。

 私が紫苑の話す関西弁を覚えようと決心したのは、この時だった。(紫苑の言葉はどんどん標準語に近づいたけど)

 少しでもどんな事でも、紫苑とお近づきになりたかった。

 もっと仲良くなれば、本物の笑顔を見せてくれると、勝手に信じていた。下心満載の思春期男子か私は、馬鹿か。馬鹿でした。今も馬鹿です。

 なるほど、これは確かに一目ぼれだったかもしれなかった。

 学校では時間が足りない。

 藍川紫苑の笑った顔が見てみたい。

 そう思うまで、たった数日。

 それで、私は紫苑を家に誘った。


 その時その時を満喫する愚かな少女である私は、無計画に紫苑を家に招き、自室の惨状の事をすっかり失念していたが為に、恥をかいた。

 部屋が汚いとか致命的では?こんな理由で嫌われたら嫌すぎる。

 私は努めて迅速に部屋の片づけをして、以後、部屋はせめて人二人が座れるくらいには綺麗に保とうと決意した。

 当時の私は、ちょうど、仕立てに対して興味を失っていた時期だった。

 仕立て自体は、我が家の慣習ゆえ、続けていた。けれどただ、それだけ。

 だから片付けだって億劫だったし、けれども縋りたいが故に片づけたくないと言う、弱さもあった。

 母が、父が、兄が、『紫』に関わる誰しもが、褒めてくれるからと熱中した頃の熱意は、とうに失せていた。

 兄が中学一年になった時(私が小二になった時だ)、兄が『紫』の後継と決まって、本格的な修行を始めたから。

 私は、その本格的な修行をする必要はないと、言われたから。

 明確な理由と言えば、その二つだったと思う。

 じゃあ、私は、何のために仕立てを勉強して、家の慣習に従っていたのだろう。

 私がこの家に居る、意味がない。

 そんな風に思ったのだった。

 紫藤家は、歴史の古い染物屋で、家を継ぐのは兄なのだと、私だってわかった気になっていた。

 私より七年先に生まれ、私より七年長く学びした兄に、私が勝るなんて欠片も思わないし、兄が後継になる事を当然と思いもした。

 けれど二つの出来事が、馬鹿な私にはっきりと、『この家には兄さえいれば、妹は、いなくたって構わない』という『紫』の事実を、痛烈に教えてくれたと言うだけの事。

 私にとって裁縫というものは、その程度の事で興味関心を失ってしまうものでしかなかったと言うだけの事だった。

 熱中する対象は、なんだって良かった。

 ただ、誰かに褒めて欲しいだけ。

 褒めてもらえないと、楽しいと思えない。

 だから私は、自慢話を良くする。

 褒められた事じゃないと思うけれど、それ以上に、褒めて欲しい。

 だって、頑張った事は、事実なのだ。

 褒めて欲しいから頑張っていた。

 下心ありきの浅ましい努力なのかも知れないけれど、褒めてもらえる嬉しさや、認めて貰える充足感は、他に手に入れる方法がない。

 努力があって、賞賛が付いてくる。それは事実かもしれないけれど、賞賛目当てに努力したって、結果は同じで。

 違うのは、私が、少しだけ後ろめたい思いをする。と言う事だけなのだから、別に誰かに迷惑をかけている訳でもない。私が口にしなければ、誰かに動機を知られる事だってないのだから、良いでしょう?

 出来ない事を出来るように努力するのだから、いつだって辛いし。いつだって苦しいし。いつだってやめたい。

 でも、誰かが褒めてくれるから、頑張り続ける事が出来る。

 私は、誰かが褒めてくれたと思えないと、頑張れない。

 誰かが認めてくれたと思えないと、頑張れない。

 私は、そういう、自分一人だけでは何も行い続ける事が出来ない、馬鹿な女なのだ。

 だから、裁縫に熱中する理由が、なくなっていた。

 その時は既に、紫苑と一緒に居る事が、とても楽しかった。

 だからもう、裁縫はどうでも良かった。


「それ、ウチもほしい」


 とても良い出来だった綿入り半纏を、紫苑にあげた。

 紫苑が喜んでくれるなら、それだけの価値があったと思えた。

 紫苑は本当に貰えるとは思っていなかったのか少し驚いて、それから、つぼみが開くように、笑った。

 その笑顔が、本当に、世界一可愛かった。

 もう、この笑顔を見る為ならなんだってすると思ったし、実際私はそればかり求める様になった。

 馬鹿な女である。


 紫藤紅葉は馬鹿な女であるから、大したことは出来ない。

 人より出来ると胸を張って言えるのは、裁縫ぐらいのものである。

 馬鹿の一つ覚え。

 まさにそのザマ

 でも、何もないより、ずっと良いと思えた。

 なにせ私の裁縫には、紫苑を笑顔にした実績がある。それ以上に価値の有る事なんてない。

 私は、紫苑の笑顔を見たいが為に、すっかり興味を失っていた裁縫に、再び熱中した。

 紫苑が私の仕立てた服を身につけて笑ってくれる度に、私に仕立てを教えてくれた母に感謝した。

 私が、こうなった環境を作ってくれた家に感謝した。『紫』も兄が継いでくれるなら安心だった。

 もう、自分にはこの家に居る意味がないと腐っていた事など、どうでも良かった。

 クソ高いけれど、私が知る限り最高級の染物が、これからも生地の選択肢に出来ると思うと、ほっとした。

 紫苑と一緒の時間は、いつだって足りなかった。

 学校の時間だけでは満足できず、家に呼ぶ。(お邪魔しようかとも思ったけれど、両親は忙しいと聞いていたから遠慮した)

 家に呼んでも、なお足りず、泊まり込みで遊び倒した。

 それに味を占め、部屋ならいくらでも余っている紫藤家に住まわせられないかと画策し、中学進学に合わせ、ほとんど私の思い通りに、上手く進んだ。父さん母さん協力ありがとう。藍川家のご両親も忙しくしてくれてありがとう。

 紫苑の部屋は当然、私の隣だ。

 私はずっと、紫苑の事ばかり考えていた。

 成長を経て、紫苑はますます可愛くなった。

 中学に上がった頃には、美人になった。

 何より、良く笑うようになった。

 それに合わせて服を仕立てるのが、楽しくて楽しくてしようがなかった。

 始めは、部屋着、寝間着、そういう物を仕立てた。

 紫苑が家に泊まって、朝起きると、当たり前に紫苑が私の仕立てたシャツを着ていたりすると、嬉しくてたまらなかった。

 時節毎に二人で買い物に出かけて、服を見る。

 服飾店に並んだ服たちは全て、私のライバルだった。

 負けん気を発揮した私は、紫苑が気に入った服も小物も、なんでも作りたかった。

 そのために職業用レザーミシンも買った。(中学生でアルバイトをするのは大変だった)

 既製服だって、質の悪い物なんかない。

 私の服が勝つには、独自性が必要だった。

 既製服に無い部分。オーダーメードゆえの優位を突き詰めた。

 その内に、紫苑は外出着も、私手製の物を当たり前みたいに着てくれる様になった。

 私はそれが嬉しくて、鼻が高くて、町や店ですれ違う人たちが、紫苑を視界に捉える度に、自慢したい衝動に駆られた。

 紫苑は世界一可愛いだけじゃない。

 内面だって、最高に優しくて、思いやりがあって、私が頑張る理由を、いつだって与えてくれる、自慢の親友だ。

 私が好きで勝手にやっている事に申し訳なさを感じて、仕立て料を払いたい。なんて可愛いすぎかよ。好き。

 あまりにも私の負担を気にする様子だったから、紫苑が私の服を着るようになってから、むくむくと湧いて出た、私オリジナルの服を着てもらいたいと言う欲求を満たす口実として、モデル役を頼むことにした。

 紫苑が選ばないような色を試した。

 紫苑が選ばないような服を作った。

 紫苑なら、こういう服も似合うだろう。と言う私の妄想は、実際に形になった。

 紫苑の可愛さに、際限などなかった。

 最高かよ。

 私の中学三年間は、何の迷いも悩みも無く、充実したまま過ぎた。

 この頃から私は、服飾デザイナーと言う仕事に目を付けていた。

 紫苑に服を仕立てる。それが誰かに評価されて、お金が稼げたら文句はない。

 一生紫苑に服を作って、そう言う生活が出来たら、最高だと思った。

 馬鹿な女だった。


 高校に進学して、真っ当にアルバイトが出来るようになって、私はいよいよ本気で布代を稼げるようになった。

 紫苑も一緒にアルバイトを始めて、そのお金で私にミシンをプレゼントしてくれた。

 今まで使っていた家庭用ミシンとは段違いの、ほとんど職業用のハイパワーモデル。高かっただろうに。天使か。天使だった。しかも、いたずらに成功した、みたいな天使の笑顔つき。ずるい、好き。

 私はますます、服作りに熱中した。

 いよいよ、こういう生き方をしたいと、願うようになった。

 けれど、辛いことがあった。

 紫苑が可愛すぎる件だ(冗談みたいな言葉だが、全く冗談ではない)。

 私はいつも、紫苑の可愛さを阻害しない様に、服を仕立てる。

 こうしたらどうか、ああしたらもっと良いか?

 考えて、仕立てて、実際に紫苑に着てもらう。

 服が負ける。邪魔をする。

 紫苑は世界一可愛いのだから、私の服が勝てるわけもないのは道理だが。

 何を着たって、紫苑は似合うし、可愛いのだけれど、それはそれとして満足なのだけれど。

 けれども、自分が仕立てた服となると、違う見方もしてしまうのは止めようがなかった。

 紫苑の可愛さには際限なんかないのだから、もっと可愛く出来る筈。

 私の発想が、腕前が、センスが足りていない。

 毎度、挫けた。

 悔しくて、やめたいと思った。

 別に、私の服じゃなくても良いではないか。

 既に超一流のデザイナーは、世界には居る。

 お金をたくさん稼いで、紫苑の服を仕立てて貰えば、それで済むではないか。

 そう思った。

 けれどその度に紫苑は、私の作る服が好きだと、言ってくれた。

 家でも、部屋でも、出先でも、私の作った服を嬉しそうに着てくれた。

 それだけで、私は頑張れる、馬鹿な女だった。

 実際に、進路を考える時期になると、また不安になった。

 裁縫ばかりしてきたから、勉強なんて人並みにも出来ない。

 今更でも、もっと勉強をして、普通の仕事に就くべきか、なんて思ったりもした。

 だから、勝手に期待して、紫苑に、自分の考えを漏らしてしまった。

 自分の将来も満足に決めれない、馬鹿な女。自分が嫌になった。


「私、服を作る仕事に就きたいんよ」


 もし、紫苑がこの時、何か否定的な言葉を一つでも口にしたら。

 私はきっと、もう頑張れなかっただろうと思うのだ。

 けれど紫苑はいつだって、そのまま前に進めと、背中を押してくれる人だった。

 私は、紫苑が傍に居てくれるからこそ、頑張り続ける事が出来る。

 そのようにはっきりと理解したのは、間違いなくこの時だった。

 自分の事しか考えられない、馬鹿な女だった。




 三者面談には、母さんが同行した。

 紫藤家では、こういう事は大抵、母さんが采配を握る。

 担任の先生と、私と、母さんとで、私の進路についての話をする。

 事前に母さんとは、何も話さなかった。

 だからその日、私が進学を希望している。という事実は、少なからず母さんを驚かせたらしかった。

 何処に、とはまだ決めていなかった。

 ただ、服飾デザインについて、深く学べるところが良いと言う、私の要望を担任の先生に伝えるだけで、最初の三者面談は済んだ。

 紫苑と、そのご両親と合流するまでの時間で、私は初めて、紫苑の進路によっては、私達が離れ離れになってしまう可能性がある事に気が付いた。

 自分の進路の事なんかより、ずっと、紫苑の四者面談の結果がどうなっているのか、気になった。

 家に帰ってからは、もっと気になる話を、聞かされた。

 紫苑の、過去に関する話である。

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