第6話

 

 アルバムを丁寧にめくりながら、写真の一枚ずつを指さして、お兄さんに尋ねる。

 これはなんの時の、どういう状況で撮られたものなのかという事を知る為だ。

 ゼロ歳の時から始まった一冊目のアルバムは既に目を通し終えて、今は二冊目の終わり掛け。

 もう少し進めば、残す所は三冊目だけになる。

 二冊目のアルバムに収められた写真の中の紅葉は、いつも笑っていた。

 時折、お兄さんに悪戯されて大泣きしている写真もいくらかあったけれど、大抵は花が咲く様な、としか言いようのない、満面の笑みを見せてくれた。

 とっても可愛らしい、素直な笑顔。


「紅葉は黙ってると、綺麗めな感じがしますけど、笑うと可愛いですよね」


 幼児の頃と今とで、大差がない(もちろん変わらず可愛いと言う、良い意味で)。と言ったら、紅葉は怒るだろうか。

 案外、同じ人間なんやから当たり前やん。とか、言うのだろうか。

 こればかりは、ちょっと見当がつかなかった。

 お兄さんも同じ思いに違いないと思って反応を待っていたのだけれど、私の問いかけに対する答えは返ってこなかった。

 だけれど、アルバムをめくる手は止めない。いつ時間切れになるか分かったものではないから、止まる事もできない。

 二冊目最後の写真はどうやら、幼稚園の年長組時代の写真で、この家で食事をしている最中の一枚であるらしかった。

 きっと、夕食時の写真だろう。

 口の周りに少しだけカレールウがついていて、カメラに向かって大きなスプーンを振り上げる様に構え、豪快に笑っている。

 カレーが美味しくてご機嫌なのだと、すぐにわかった。

 なんだか、今の紅葉にも通じる、らしさを感じさせるような。そんな素晴らしい写真だと、私は思った。

 三冊目に手を伸ばす。

 表紙をめくって写真を見ていくと、すぐに、小学校の入学式の写真があった。

 私も通った小学校の校門前でご両親に挟まれて立つ、小学校に入学したその日の写真。

 一年生になったばかりの紅葉は、爽快に笑っていた。


「この時の俺は、中学二年だったっけ」


 お兄さんが、ぼそり、と言った。

 私の返事を期待した言葉ではない事はわかった。

 写真を見て、このアルバムにも収まりきらないような思い出が、溢れてきたのかも知れなかった。

 ゆっくりと、けれど着実に、私はアルバムをめくる。

 お兄さんは、自分の思い出に浸っているのか、写真の説明をしてくれなくなっていたけれど、それを指摘するのも無粋かと思って、私は黙々と、アルバムのページをめくる事にした。

 もう、写真の中の紅葉は、小学一年生にも成長した。

 アルバムの中でぐんぐん成長する紅葉を、目で追い駆けてきた。

 ほんの一時間もしない内に、と思うと、とても不思議な感覚がした。

 今まで私が知っていたのは、実際この目にしてきた小学校三年生以降の紅葉だけだった。

 けれど、お兄さんが持ってきてくれたアルバムを見てきた今の私は、全てではないにしろ、家族しか知り得なかった、紅葉の過去を知っている。

 その事が、なんだかとても、嬉しかった。

 紅葉の成長が嬉しいご両親の気持ち、もしくは、お兄さんの気持ちが分かる。私がそう感じるのも、可笑しいのだけれど。でもきっと、古い写真を見たがる心境とは、そういう喜びを求めての事なのではないかと、思うのだ。

 もっともっと、紅葉の写真が見たいと、私は思った。

 別に、昔の写真をネタに、紅葉と何か話をする、と言う事は出来ないし、もちろんしない。きっと紅葉は照れて、嫌がるだろう。

 でも、知っている。と言う事実は、なんだか私を安心させてくれる。

 大丈夫、まだ三冊目のアルバムは、半分以上も残っている。

 まだまだ、この幸福な時間は終わらない。


 三冊目のアルバムには、おおよそ半分までしか、写真が収められていなかった。

 今までは、きっちり沢山の写真が収められていたのだけれど、仕切りの代わりに空のページを作ったのかと思って、ページをめくった。

 写真は収められていなかった。

 最後のページまで進んでも、写真は一枚も収められていなかった。

 アルバムを閉じもせず、私はお兄さんの顔を見た。


「残りの写真はどこです?」


 これで終わりである筈がないと、私は思った。

 立派なアルバムを二冊。完全に作り上げる様な家族が、突然写真を撮る事をやめるとは思えなかった。


「その時期に、紅葉が写真を嫌がるようになったんだ」


 だから、それ以降の写真は一枚も無い。と、お兄さんはとても寂しそうな表情で言った。

 どうして、急な話過ぎるじゃないか。と、どこに向けるでもない怒りが沸いた。

 私はもっと、紅葉の写真が、見たかった。

 惜しい。というのが、きっと一番正しかった。

 けれど、それも仕方のない事なのかも知れない。とも、思った。

 今の、私が知っている普段の紅葉は、人前に出る事を嫌う節がある女の子だ。私と同じで目立つ事はしない。

 体の成長に合わせて、環境の変化に適応して、好きだったものが、嫌いになる事もあれば。

 気にもならなかった事が、急に気になったりする。

 そういう時期は、たぶん誰にでもある。

 それがきっと、紅葉にとっては小学一年と二年の間の事だったのだろう。と、私は痛いほどに理解した。


「その時期から」


 お兄さんは言葉に詰まって、一度、自分の手元を見た。

 釣られて私も、お兄さんの手を見た。

 その手はとっくに、染物屋の手だ。

 年中水を扱って、専用の道具を扱って、そのせいで酷く痛んで、タコが沢山ついた、立派な職人の手に見えた。

 立派な手が、自信なさげに絡み合って、離れてして、意を決したかのように握り拳が二つ出来上がって、お兄さんは私の方に顔を向けた。


「紅葉は、あんまり、笑わなくなった」


 私はその言葉の意味を度外視して、言葉だけを理解するのにも、ずいぶん時間が必要だった。


「口数が減って、一人で居たがるようになった」


 お兄さんは、一人で貯め込んだ何かを吐き出すように、話し続けた。

 その話は、お兄さん自身の話のようでもあったけれど、お兄さんしか知り得ない、紅葉の話だった。

 私は、そんな紅葉知らない。と思った。

 だって私と居るときの紅葉は、いつも





「だから、ありがとう。紅葉と友達になってくれて」


 そのような言葉で、お兄さんは話を締めた。

 知らぬ間に私の手から零れ落ちた三冊目のアルバムを閉じたお兄さんは、諸共を丁寧に重ね合わせ、胸の前に抱く。

 アルバムが重たかったのか、掛け声を一つ上げながら、お兄さんは立ち上がった。


「紫苑ちゃんと遊ぶ様になってから、毎日楽しそうで、嬉しそうで。ほんと、昔に戻ったみたいで」


 お兄さんはアルバムを持ち帰るために、私の部屋の襖を開けた。

 お兄さんが部屋を出る。


「俺は、すごく、嬉しいんだ」


 そう言い残して、襖が閉じられた。

 注意深く足音を聞き、お兄さんが遠く離れた事を認めると、私は四肢を投げ出して、仰向けに寝転がった。


「大根かよ」


 思わず出た言葉だった。

 使いたい言葉ではないけれど、あまりにもぴったりだから。

 それに、お兄さんは役者ではなくて、職人だからか、思わず口を突いた。

 お兄さんの最後の言葉は嘘ではないと、はっきり分かった。

 兄として妹が楽しそうにしているのが嬉しい。そういう意味だ。

 けれども表情は、兄として妹を楽しそうにさせる事が出来なくて悔しいと、悲しいと、申し訳ないと、雄弁に語ってもいた。

 お兄さんも紅葉も、根っこは同じ、素直な性分なのだ。

 何かを言い繕ったり、偽ったり、そういう事には、向いていないと思う。

 私の言えたことではないけれど。

 少しだけ、お兄さんが話した内容を思い返して、深く考え事をする為に、私はそのまま目を閉じた。


 知らない内に、私は眠っていたらしかった。

 昨夜の寝不足が原因に違いない。

 目を開けると、既に室内は薄暗くなり始めていて、誰かが私の寝姿を覗き込んでいると言う事に気が付くまで、少し時間を要した。


「紅葉?」


 私の部屋に(人の家でこう言うのも可笑しいけれど)無遠慮に足を踏み入れるのは、その人だけであるから、間違えようが無かった。

『ちょっと体貸して』と、そう言ってずかずか入ってくるのは、日常茶飯事で、当たり前の事だ。

 私だって、紅葉の部屋に入るのに遠慮なんかしない。


「うん。夕飯の時間やで」


 私は飛び起きた。


「うそ!そんな時間!?うちの親は!?」

「うちの母さんが、しばらく前に車で送ったで?」

「私は!?」

「泊まればええやん」


 薄暗さに目が慣れて、悪戯っぽく笑う、とても可愛らしい紅葉の表情が、良く見えた。

 お兄さんの苦悩は、やはり勘違いだろうと、私は確信した。


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