第5話
娘の進路に関わる話をする為に、仕事で忙しい両親が、三者面談の時期に合わせて、時間を作ってくれた。
けれどもこれと言って、将来こういう事がしたい。なんて立派な考えは、私には何も無いのだった。
だから、どこか適当な所に。出来れば、この町で就職口を探すという方向で私は考えている。
その、内心で考えていた事をそのまま両親に伝えると、両親は少し残念そうな表情を見せてから、どういう選択をするにしても、私たちは紫苑の選択を尊重する。と、まず言ってくれた。
けれど、とりあえず大学に進学して、そこでゆっくり、興味を持てることを新しく探す。という選択肢もあると思うよ。なんて、私に提示してくれた。
優しい両親だと、本心から思えて、嬉しかった。
けれどこの町に、大学は無い。
もしかしたら、家族そろって引っ越すと言う選択をするにしろ、私が一人暮らしをするにしろ、国公立大学に進学するにしろ、私立大学に進学するにしろ。結構なお金と手間ががかかる事には変わりがない。
もしかすると両親は、私が大学に進学をする時の為に、お金を蓄えているかもしれない、いないかもしれない。両親の稼ぎの事はあまり知らないけれど、私は、金銭で困った事はない。
小遣いなんて貰ったことが無いと言う紅葉の話を聞いて。布や裁縫道具を買うためにアルバイトをすると言う考えを聞いて。『お嬢様やん』と言われて、自身でもビックリするくらい驚く程には、藍川家は裕福なのだろうと思う。
別に、娘に与えるお小遣いの有無だけで、紫藤家が貧しい生活をしているとは微塵も思わないけれど、両家の親たちの金銭感覚や、価値観、教育観の違いなのだろうと理解できる程度には、私も大人であるつもりだった。
とにかく、私を大学に通わせることは、現実的に、充分可能なのだろうと分かった。
けれど、私が進学するとなった時に必要になるお金は、両親が働いて稼いだお金なのだ。
それを、私が無遠慮に使うと言うのは、なんだか申し訳ない様な気がした。
奨学金を借りると言う方法もあるのだろうけれど、奨学金と言うのはきちんとした目的もなく大学に通うために借りて良い物ではないと、私は思った。
なら、やはり、就職すべきなのだろうとも。
けれど、すぐには、こう。と決める事が出来なかった。
自分のやりたい事を探す。
そうだ。服を作る仕事をしたいと言った、紅葉のようにだ。
大学に進学すれば、私も何かに熱中できるように成るかもしれない、と言う誘惑は、私を随分と迷わせた。
翌日の三者面談に両親が出席するから(四者面談になってしまうが)、私はその日、本来の家族の借りるアパートで、一家そろって過ごすことになった。
紫藤家のお手伝いをする上で培った家事スキルを披露して両親を喜ばせた私は、割り当てられている自室で就寝する事になった。
就寝しようとした。
けれども、いつもなら子守歌になる筈のミシンの音が聞こえる様な気がして、とても眠れなかった。
ここが紫藤家の私の部屋なら、すぐにでも隣の部屋にいる紅葉に、私の進路についての意見を求める為、部屋を飛び出したかも知れなかった。
ベッドの上で寝転がりながら、携帯電話を持って、メッセージアプリを起動した。
大分遅い時間だったから、やめておいた。
きっと紅葉は、今日もミシンを小気味よく使いこなして、服を仕立てている。
私の情けない都合なんかで邪魔したくは無かった。
何処にいたとしても結局、紅葉に相談する事は出来なかっただろうと、私は気が付いた。
しばらく何も考えれずに呆けていて、不意に、私の事情を当然知っている両親が、あの話を欠片ほども持ち出さなかった事を思い出した。
私はその事に大きな安心感と、僅かな罪悪感を覚え、気持ちが落ち着くまでにずいぶんと時間がかかったものの、どうにかこうにか、深夜には眠りにつくことが出来た。
四者面談は、特別な難も無く済んだ。
二年の段階で本人の意向が未定であるなら、進学、就職、どちらに決めても対応できるように準備を始めましょう。
家の娘をよろしくお願いします。いえいえ。という無難な感じで、四者面談は大した時間もかからずに終わったのだった。
私は、私自身の進路の事の数倍は、紅葉の三者面談がどうなったのか、気になった。
こんな有様の私が気に出来た事ではないのだけれど、紅葉は私以外の誰にも、服を作る仕事に就きたいと、明かしていない様子だったからだ。
紫藤家のご両親は、とても親切で優しい、懐の広い人たちだと私は思う。けれど、紫藤家のお母さんは裁縫の事や家業の事については、時に鬼か羅刹にすらなると、紅葉から聞いてもいる。
紅葉が和裁を習い始めた頃、練習をしたいがために『紫』の染物(売り物)を勝手に使用した事があると言う。その時のお母さんは、こう言ったと言う。
『お客様から、きっかりお金を頂いている家の染物を、我が家の娘だからと言ってタダで使わせる訳にいかないのです。そんな事はお母さんも、お客様も、絶対に許さない事です。練習がしたいなら、使って良い布が無いか、お母さんに聞きなさい。お父さんやお兄ちゃんではいけません。あの二人は甘い。良いですか。お前がした事は泥棒と変わらないのですよ』
その鬼気迫る実母の表情にすっかり怯えて大泣きした幼い頃の紅葉は、金銭的、物品的取引に対して、潔癖症に近い厳格さを得るに至ったのである。
紅葉が私から手間賃すら受け取らないのは、プロでもないのに代金を受け取るのは間違っている。という価値観が幼少期のトラウマから育まれたから。で間違いないだろう。
言われた内容は私でも何となく理解できる内容であるから、実際に染物屋の娘である紅葉には、幼かったとは言えど、良く理解できたに違いない。
そういう記憶があるせいか、紅葉は特にお母さんに対して、若干の畏れがある様に見えた。
やりたい事を、やりたい。と、言えないのではないか。
なんて、やりたい事すらわからない私みたいな奴が、そんな、余計な心配をした。
その日の帰路は、なんとも言えない雰囲気があった。
私と、紅葉と、私の両親と、紅葉のお母さん。
普段、私と紅葉は徒歩通学だけれど、今日は紅葉のお母さんが車で学校までやってきたのでついでに、という理由と。私の両親が、良い機会だから改めてきちんと紫藤家の皆さんにお礼を述べたい、と思っていた。と言う二つの理由から、乗り合わせて紫藤家に帰宅する事になったのである。
道中、会話に花を咲かせていたのは、私の両親と紅葉のお母さんだった。私と紅葉は、親が同席している場で、何を話せばいいのかがわからず、二人で静かに小さくなっていた。
時折聞こえてくる、私たち二人についての話など、耳を覆いたい気持ちで一杯になった。
私が両親にした友達自慢をネタにした会話が盛り上がると、紅葉の照れ顔が見れた。とても眼福だったけれど、紅葉が話したらしい友達自慢をネタにした会話が盛り上がると、今度は私の顔面が赤熱し汗が噴き出た。その様子を見られ、紅葉に小声で『可愛いやん』などと言われ、正直な心境として、紅葉の照れ顔と、私が感じた嬉し恥ずかしが、割に合うか微妙だ。と思うぐらいには、地獄だった。
帰りの車中がそのような有様だったせいか、私と紅葉は紫藤家に着くなり二人で自室に逃げ込んだ。
きっと、親は親で勝手に親交を深めるのだろうし。
親がいると子供は話に参加しにくいのと同じように、子がいると親は話しにくい事もあるのではないかとも、思うのだ。
うん、これは言い訳だ。もう正直、恥ずかしいのはお腹いっぱいだったからだ。
制服から着替える活力も、すぐには湧かず。私は畳張りの床に寝転がった。
イグサの良い匂いを感じて、自分の部屋に帰ってきたと実感し、少し肩の力が抜けた。
可笑しな話だ。
ここは紫藤家の家で、私の家は、あっちのアパートの方である筈なのに、なんだか、こちらの方が、ずっと落ち着く。
ぼうっと、する。
静かなものだった。
きっと紅葉も、同じように腑抜けているのかもしれないと思った。
けれど、もしかしたら、何かの仕立てでもしようかと思い立っているかもしれない。そっちの方が紅葉らしいように思った。
隣の部屋から、畳を踏む足音が聞こえた。
紅葉が、トイレにでも行くのだろうと思って、大して気にもせず、呆け続ける。
今の私は、ちょっとだけ、着替える為の活力を充填中なのだ。
『紫苑ちゃん、今、良い?』
部屋の外から、声をかけられ、私は飛び起きた。
「大丈夫です、どうぞ」
言いながら、自分の姿をさっと改める。
紅葉が相手なら、寝転がったままどうぞー、とでも言えばいいのだけれど、流石に、お兄さん相手にだらけた姿を見せたくは無かった。
今日はもう、恥は結構。
「忙しかった?」
遠慮がちに襖を開いて、紅葉の兄・葵さんが私に尋ねた。
きっと、私が制服のままで居た事を気にしたのだろうと思う。
「いえ、ちょっと、休んでただけです。暇です」
「そっか。なんかね、紫苑ちゃんのご両親が、家の親と、紅葉に、紫苑ちゃんの普段の生活について聞きたいって言うから、紅葉を呼びに来たんだけど」
「紅葉なら、たぶん、トイレか何かだと思います。さっき部屋から出て行ったみたいなので」
私の恥が、詳らかにされる予感がした。
いや、他人様の家でお世話になっている以上、恥ずかしい所を晒さないように、生活させてもらっている筈なのだけれど。
それはそれとして、私が両親の見ていない所で、どんな生活をしているのか。両親に知られると言うのは、別に、恥ずかしい行いをした覚えが無かったとしても、なんだか恥ずかしい様な、照れ臭い様な、微妙な気分になる。
まあ、私がその場に居合わせていない。というだけで、先ほどの車中地獄よりは、大分気分は楽だったけれど。
とにかく、私はしばらくの間、居間には近づけない事が確定した。
お兄さんに話を聞けて良かった。
気まぐれに居間を覗いたら地獄再び、なんて未来は悪夢すぎる。
知らない事は、無いのと同じ。そう思う事にすれば、きっと耐えられるに違いないと、私は信じる。
「うん、さっきすれ違った時に伝えたから、紅葉は今、居間にいるんだ」
「?」
助かったけれど。ならば、何の用があって、お兄さんは私に声をかけたのだろう。
「紅葉は、しばらく帰ってこないと思う」
「はあ」
女子高生である自分たちから見たら、充分に大人の男性。
私に対しても、本物のお兄ちゃんみたいに接してくれる、親切な人だ。
「だから」
「はい」
他の兄妹を良く知らないから、一般的な兄妹というものが、どういうものなのか、私には分からないのだけれど、たぶん。
きっと。
ちょっとだけ。
葵さんはシスコンだ。
後ろ手から、私とお兄さんとの顔の間に現れた、分厚いアルバム達がそれを如実に表していた。
「紅葉の小さい頃の写真。見る?」
紅葉は私の事を可愛い可愛い言うけれど。
私は常々、紅葉の方がよっぽど可愛いと、思っていた。
いつだか、紅葉に私の小さい頃の写真が見たいと、ねだられた事があった。
アパートの方にアルバムはあるだろうけれど、当然持ってこないし、見せる訳もない。
見せられる訳もない。
けれど、私が、紅葉の昔の写真を見せてもらえるのなら、それも後々『私の見たんやし、紫苑のも見せてや』なんて言われる危険も無いのなら、当然。
「見ます。流石お兄さん。良いタイミングです。神ってる」
「いやぁ、俺もさ、タイミング見計らってたんだよ。絶対紫苑ちゃんなら見たがるだろうなって思ってて。でもあれでしょ?紅葉と紫苑ちゃんいっつも一緒に居るし、紅葉も、嫌がるからさぁ。ねぇ?いつ見るの?」
紅葉の兄と私は頷きあって、人には見せられない笑顔を交換して、結託した。
「今でしょ」
私はお兄さんの事を、今だけは心の中で、先生と呼ばせていただく事にした。
その道の先を生きる者の事を、先生と敬意を持って呼ぶのだ。お兄さんは先生と呼ばれるに相応しい人だと言う事は、もはや疑いようが無かったからである。
先生を部屋に招き入れ、僅かな音も立てない様に気を使って襖を閉じた。先生は部屋のど真ん中にアルバムを並べた。
その数三冊。厚みはそれぞれ辞典級のお宝だ。
制服のスカートに皺が寄るかもしれない事など気にも留めず(既製品のどうでも良い制服だ、これがもし、紅葉手製の部屋着で有ったなら、もう少し考えて座った事だろう)、私はアルバムの前を陣取る様に腰を下ろす。
先生も私に倣って、反対側に腰を下ろした。
私は、未発見のお宝を見つけた冒険者のように、そのお宝の一つを手に取った。
半ば約束されている喜びによって、表紙をめくる私の手は、小さく震えていた。
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