第4話

 

 高校に上がって、私は、ますます紫藤家のお世話になる事が増えた。

 両親の仕事は順調で、映画とか、テレビドラマとか、そういう媒体で両親の頑張りを間接的にだけれど目にすることが出来た私は、一層年季の入った姉妹感が感じられる紅葉が居た事もあるし、特別な寂しさは、全然感じなかった。

 両親としては紫藤家の方々に負い目を感じていて、娘の面倒を見て貰っているお礼の為に、出先の土産物を持参したり。時折着る機会がある礼服のレパートリーに『紫』の染物を使用した和服を幾つも持つ事にしたりした。

 そしてさらには、私の持つ服の殆どが紅葉のハンドメイドである事に、とうとう気付いた母は、『あなたがこれから着物を仕立てる機会があったなら、必ず『紫』の染物を使う事』と、鬼気迫る真剣な表情で私に言い渡したのだった。実はすでに、着物でこそないけれど、明らかに『紫』の染物を使ったであろう服も何着か持っているとは、母の反応が恐ろしくて言えなかった。

 後の事だが、両親の着物も、私の着物も、結局、ずいぶんと安く仕立ててもらってしまい、何のお礼にもならなくて困る。なんて情けない愚痴を一家で言い合う事になるのである。


 紅葉は、ますます、服作りに精を出していた。

 欲しい布があると、新たにアルバイトを始めて、私もそれに倣ってバイト代で紅葉にミシンをプレゼントした。やっと少し恩返しができたみたいで胸をなでおろす。

 私は服作りをずっと見ていた訳ではないけれど、紅葉の散らかった部屋に呼ばれるたび、マネキンの真似事をしながら、近くで見ていた。

 きっと、服を作る仕事に就きたいのだろう。と私に思わせるのに、十分すぎる努力を、紅葉は重ねていたように、私は感じたのだった。

 高校二年に上がって、高校卒業後の進路についての話が身近になると、紅葉が言った。


「私、服を作る仕事に就きたいんよ」


 やっぱり、そうか。

 紅葉がどれほど熱を込めて服作りをしてきたのかを、一番間近で見てきた私にとっては予想できていた事で、これと言った驚きは無かった。


「良いんじゃない?私、紅葉の作る服好きだし。多分、上手く行くでしょ」


 だから。

 そう。

 だから、努めて軽く。

 私は紅葉の応援をした。


「そう言ってくれるん?」

「そりゃ、言うでしょ。あ、そうだ。じゃあ紅葉が、私の振袖仕立ててよ。成人式に着る奴。『紫』の一番良い染物で」


 紅葉の事だ。どうせ放っておいても、服職人になるだろう。という予想が、容易に出来た。


「三年後?どうかなぁ、まだプロやないんやない?」


 紫藤紅葉が、それだけの努力を重ねてきた事を、私は充分に知っていた。


「良いよ。紅葉なら、変なのは仕立てないでしょ」


 紫藤家に泊まる夜は決まって、隣の紅葉の部屋からミシン針が布を突く音が寝入るまで聞こえてきて、それを子守歌のように思っていた。

 私は今まで何度、体の寸法を測られただろう。

 既製品と同じような、誰にでもある程度適合する規格的なサイズで仕立てれば、毎度毎度採寸する必要はない。

 私がそう言っても、紅葉は必ず毎回、面倒な筈の採寸をした。

『太ったらあかんで』なんて冗談交じりに言われて、腹を立てた事もあった。むしろガリッガリに痩せてやろうかなんて、変な反骨心を発揮したりもした。

『よし、乳は育っとらん。楽でええ』そう言われて、ちょっと本気で喧嘩した事もあった。

 けれど紅葉が仕立てた私の服は、いつだって気易くて、なんだか暖かくて、私にピッタリだった。

 それは、既製品に求めるべきものではない部分。

 仕立てる職人が、その人の為だけに作ったハンドメードならではの専売部分。

 いや、違う。

 そんな考えでは、充分ではない。

 ハンドメードだとか、その人だとか、そんな誰の顔の見えてこない言葉を、私は使ってはならない気がした。

 紅葉の仕立てた服は、紅葉が私の為に努力した証なのだ。

 勉強はからきしなくせに、紅葉の部屋には裁縫関係の本だけは山ほどある事を私は知っている。

 授業中には舟をこぐ事もあるのに、夜は遅くまで針を打つ事を私は知っている。

 技量のほどは、紅葉が仕立てた服を普段から着ている私が、知らない道理がない。

 誰にとってもベターであるはずの、規格通りの既製品。それよりも私にとって優れている仕立てでないと意味がないと発奮し、知識を求め、技術を習得し、習得した技術を持って、思う通りの形にする。

 その努力を、成果自体を、私は知っているからこそ、紅葉の仕立てた服が、私にとって特別なものなのだ。

 紅葉の仕立てた服を着ると、嬉しくて、誇らしくて、胸を張って道を歩ける。

 全く不十分だと感じるけれど、そういう言葉でしか表現できない幸福感は、私はきっと、誰よりも良く知っている。

 正直私は、もう既製服は着れないとすら、紅葉の仕立てた服を着たいとすら、感じている。

 私が思うに、紅葉はとっくに、服職人なのだ。少なくとも私はそう思う。

 応援は、もちろんしたい。私はきっと、紫藤紅葉のファン第一号で間違いないし、誰かに譲るつもりもない。

 紅葉の努力と成果が、多くの人に認められる事を、もちろん望んではいる。

 けれどそんな、既に立派な服職人である紅葉に、私みたいな中途半端な奴が、偉そうに大層な、大手を振った応援なんて事を、出来る訳が無かった。

 紅葉が頑張ってきた事を私は誰よりも知っていた。

 だから、頑張れば出来る。なんて、頑張れない奴が言ってはならないと言う事も、知っていた。


「あの綿入りとか、今見たらすっごい拙いし、振袖とか一生残る系の奴は、ちゃんとした腕前になってから仕立てたいんやけど」

「そうだ綿入り。あれ手直ししてくれる?流石に着れなくなったから」


 一番の親友の、その夢を全力で応援すら出来ない私自身が嫌になる。

 けれど、それはきっと、紅葉には見せる必要のない部分。私の、可愛くない本性。

 必死に笑顔の仮面を身につけて、仮面越しのくぐもった声で、控えめに背中を撫でるくらいが許される精一杯。


「小さくするんは出来るけど、大きくするんは無理やて」

「じゃあ、綿使いまわして、布は、なんか、作ってよ」


 私は、紅葉の服が好きです。


「なんかて」

「なんか、身につける奴が良い」


 紅葉が私の為に時間を費やしてくれることが、嬉しいのです。


「好き放題言いよるなぁ。新しく仕立てたらええんちゃうの?」


 私には、それだけの価値があると、言ってくれているような勘違いが出来て、安心するのです。


「良いでしょ、布自体痛んでないし、勿体ないもの」


 紅葉が与えてくれるものだけが、私に胸を張らせてくれるのです。

 私の酷く貧弱な胸中だって、貴方が可愛いと褒めてくれるから、晴れるのです。


「まあ、なんか考えてみるけど」


 せめて、貴方の前でだけは、可愛い藍川紫苑で、いたいのです。


「振袖も、仕立ててね。で、五年くらいしたら、手直ししてもらおうかな」

「それ、嫌やなぁ」


 貴方は可愛いものが好き。

 けれど私の本性は、可愛くない。

 だから、私は、苦手でも、怖くても、貴方が望む、可愛い仮面をかぶるのです。

 ずっと昔に自分で捨てた、古い仮面。

 私が作った、悲しくて、冷たくて、身の丈に合わない歪な仮面。

 貴方の為に。

 いいえ、本当は、私の為に。


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