第2話『急性期病棟』

 「なるほど、全ての発端は君が行方不明になる直前に研究対象である緑藻になる夢を見たことなんだね」

 「はい」

 「それで、死の恐怖を感じ、思わず家から飛び出した」

 「恐らく」

 「柳田先生に電話したのは覚えてる?」

 「よく覚えていません」

 「でも、先生は君がハッキリした声で休む旨を伝えてきたと言ってたよ」

 「そうですか」

 「電話したあとのことは?」

 「全く覚えていません」

 「じゃあ、逆にどこからなら覚えてる?」

 「寒くて目が覚めたら、知らない公園のベンチで寝ていました」

 「どこかは知らなかったんだ」

 「はい、初めて見る公園でした」

 「それで、君は先生に電話をかけた」

 「とりあえず研究室を休んだことを謝ろうと思って」

 「何日休んだか覚えてる?」

 「いいえ」

 「3日間だ、君が行方不明になる直前に先生に電話をかけた日から」

 「そんなに経ってたんですか」

 「何で隣の県の、それも片田舎の、しかも駅から離れた人通りの無い路地裏の公園で寝ていたの?」

 「さぁ」

 「さぁって…君のことなんだけどな」

 「そう言われても、全く覚えていないですし、何より実感が無いので」

 「まぁ良いや、それで先生がとりあえず警察に電話するよう促し、君は110番した」

 「はい」

 「駆けつけた警察に保護され、君を引き取りに来たご両親と一緒に実家に帰宅。その後、ご両親の知り合いの伝手でうちを紹介され、その日に任意入院が決まった」

 「はい」

 「入院生活はどう?」

 「快適ですよ」

 「そうか、なら良かった」

 「不思議な感覚なんですよね。前は精神病院の隔離病棟なんて異常者ばかりが集まった危険な場所だと思ってたのに、いざ入ってみると、とても心地良いというか」

 「どうしてそう思う?」

 「思えば、僕が入院する前、かなり精神的に追い詰められてたんだと思います」

 「そうだろうね、先生や先輩からヤル気の無さを指摘されてたみたいだし」

 「はい、人と同じことがどうして僕には出来ないんだろうって、ヤル気がなんで出ないんだろうってずっと自分を責めてました」

 「でも、君は双極性障害を患ってるんだ。人と同じことが出来ないのは当たり前だと思うよ」

 「そうなんです、いざ自分が精神病なんだっていうことが分かったら、なんだ病気のせいだったんじゃん、って開き直れるようになって」

 「まぁ、いい傾向なんじゃないかな」

 「それで、ここに入院してくる人たちは、みんな僕と同じように社会の中で生きづらくなった人たちな訳じゃないですか?」

 「そうだね」

 「お互いに弱いものを持ってるのを知ってる、だからみんな優しいんですよね」

 「壁ぶん殴って穴開けるやつもいるけどね(笑)」

 「まぁ、彼はちょっと自分の感情をコントロール出来ないだけですから(笑)基本は良いやつですよ」

 「そうだね」

 「なんか、ここはほんと外の世界と隔離されて、時間がゆっくり流れてて、頑張らなきゃいけないって追い詰められることも無いし。でも、早く研究に戻らないと博士号が取れなくなるという焦りもあります」

 「まぁ、まだ入院生活は始まったばかりだ。結論を出すのは先で良い。とりあえず、体調を元に戻して、それから研究を続けるのか、それとも辞めるのか、どう転ぶかは分からないけど、一緒に考えていこうよ」

 「ありがとうございます」


 こうして3日間の失踪の後、県央の有名な精神病院の急性期病棟に入院した僕は、少しずつ自分に起こった事態を把握しつつある。

 自分で自分のやったことを考察する、なんて馬鹿みたいだけど、でも考えてみれば、これまで自分がどういう人間で、どういう性格で、どういう物の考え方をして、何がストレスになっていたのか、なんて振り返ったこともなかった。

 そういう意味では、良い期間なのかもしれない。


 この病棟はさっき手嶌先生にも話したけど、とても居心地がいい。

 みんな優しい人ばかりだ。

 逆に、今まで自分がいた外の世界が異常だったんじゃないか、とすら思えてくる。


 面白いエピソードがある。

 デイルームにあるテレビでニュースを見ていた時、ちょうど殺人事件のニュースが流れた。

 バラバラ死体が発見された、という凶悪事件のニュースだ。

 その時、僕も含めてテレビを見ていた多くの患者が口を揃えて『外には想像するだけでも恐ろしいことを平気で出来ちゃうやつが居るんだな』と言った。

 そう、ある意味で、この急性期病棟はそんな恐ろしいやつらから守られている。

 外から見れば、ナースステーションからガラス越しで丸見えなこの病棟は、差し詰め監獄といったところだが、中にいる僕らからすれば、ここは天国だ。

 実際、『俺はこの病棟に20年も入院してるから、分からないことがあったら何でも聞いてくれよ』と声をかけてくれたおじさんもいた。

 まぁ、それは流石に家族に迷惑かけすぎでしょ、と思ったが言わなかった。


 この病棟は一つの社会だ。

 病棟内での患者同士のパワーバランスもあるし、派閥もある。

 僕はそういうのに関わるのが面倒なので、誰に対してもニュートラルに接しているが、確かにこの病棟という社会で自分の地位を確立することに心血を注ぐ気持ちも分からなくもない。

 実際、せっかく退院したのに、すぐに戻ってきてしまう患者もいる。

 外の世界より、よっぽどこの中の方が居心地がいい。

 恐ろしい逆転現象が起きている。


 ただ、入院中の治療費は外の家族が払っていることを忘れてはいけない。

 外の家族の犠牲があって、初めて入院生活が成り立っている。

 いずれは退院し、社会の歯車に戻らなくてはいけない。

 僕にその覚悟はあるだろうか。

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