小説『ノックアウトヒューマン(Knock-out Human)』

渡辺羊夢

第1話『失踪』

 「もしもし、神田君か?どうだい、調子は」

 「柳田先生、やっぱり今日も朝から気持ち悪くて吐き気があります。体もダルくて仕方がないです。何とか午後から研究室の方には行けるように頑張ります」

 「分かった、くれぐれも無理しないようにね」

 「ありがとうございます」

 「じゃあ、待ってるからね」

 「はい」


 はぁ。

 なんでこんなことになってしまったんだろう。

 研究者になりたくてここまで来たんじゃないのか?

 何とか力を振り絞って体をベッドから起こす。

 食欲は全く無い。

 とりあえずシャワーを浴びるか。



 「おはようございます、不破さん」

 「よう、神田君。今日も重役出勤か。セミナーの発表はもう来週だぞ。スライド準備出来てるのか?」

 「いえ、これからです」

 「そうか。セミナーの当番表はずっと前から発表されてるんだから、もっと早くから取り組む癖をつけないと」

 「はい、分かってはいるんですけど。昔からギリギリまで期限が迫らないとヤル気が出ないタイプでして…」

 「テスト勉強を一夜漬けで済ますタイプか」

 「そうですね、今までずっとそんな感じでやってきました」

 「ただ、これからはそうは行かないぞ。今までの発表も見てきたが、明らかに準備不足だ。論文紹介だって、本当はもっと読み込んで著者たちが実験で得られた結果を元にどういう主張、仮説に辿り着いたのか、その辺を発表しないと。ただ、論文内の図を切り貼りしてスライドにくっつけるだけじゃダメなんだぞ」

 「はい、分かってはいます」

 「分かってるなら、今日から始めないと」

 「そうですね」

 「まぁ、来週の発表楽しみにしてるぞ。もう神田君も博士1年だ、修士のノリじゃこの先やっていけない時が来るからな。研究者としての自覚を持たないと」

 「はい」


 学生部屋を出て、隣の緑藻を培養している部屋へと移る。

 ドアを開けると平たいガラス容器に緑色の液体が入っており、撹拌されている。

 僕の研究対象はクラミドモナスという単細胞の緑藻で、体内に葉緑体を持ち、2本の鞭毛で水中を泳いでいる、らしい。

 らしいと言うのは、実際に泳いでいる様子を見たことがないからだ。写真では見たことがあるが、体長が約10マイクロメートルと非常に小さいので、顕微鏡を使わないと見ることは出来ない。

 僕の研究室では光合成の仕組み、特にその中でも植物の葉緑体内に存在する光化学系Ⅱ、光化学系Ⅰと呼ばれるタンパク質複合体にそれぞれ結合している集光アンテナタンパク質、これが両光化学系間をダイナミックに移動することで周囲の光環境の変化に対応しているらしいのだが、その仕組みを解明するべく、この緑藻に遺伝子変異を起こした変異株を用いて研究を進めている。

 よく医学部でノックアウトマウスといって、意図的に遺伝子変異を起こしたマウスを用いて研究をしているのと同じだ。

 この研究により光合成の仕組みが解明されれば、光合成能を強化して枯れにくい植物を作ったりといった応用が出来るようになるだろう。


 「お前たちは遺伝子に変異を入れられて、痛くないのか?

 僕らの都合で生み出され、僕らの都合で殺される。

 このガラス容器に一体お前たちは何匹居るんだ?

 これじゃ大量虐殺だ。

 ほんと、人間って勝手な生き物だよな。

 お前たちは自分の生まれた運命を嘆いて僕らを呪うのか?」



 その夜、悪夢を見た。

 昼間につぶやいた戯言のせいだ。

 夢の中で僕はガラス容器で培養される緑藻の一匹と同化していた。

 この先、自分には死が待っている。

 容器から取り出され、遠心分離され、他の仲間と一緒にすり潰され、体の中の葉緑体から光化学系Ⅱと光化学系Ⅰが取り出される。

 それらは解析に回される。

 もしこれが人間の体だったとしたら?

 さながら、アウシュビッツの強制収容所での大量虐殺のようだ。

 僕らがやってるのは死体から金歯や指輪を回収して、再利用するようなものだ。

 僕らに、そんな残酷なことが出来るのか?

 今までそんなこと意識したこともなかった。

 緑藻の一匹一匹に意識は無いのか?

 死ぬ時の恐怖は無いのか?

 分からない。

 でも、想像することは出来る。

 同じ立場になって考えることだ。



 翌日、僕はいよいよ研究室に行くことすら出来なくなった。

 そして、教授に休みの電話を入れ、行方不明となった。

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