Whale Wheel

@travel_planner

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 「鯨の寿命がどのくらい長いのか、知っていますか」

テーブルに頬杖を突いた男が口を開いた。

 あたしは素直に、「知らない」と答えようとした。だが思うように舌が回らない。

 声にならなかった音と、さらさらとした真白い砂粒が女の唇から溢れて、ガラスの床にくり抜かれた小さい穴の中へと、少しづつゆっくりと吸い込まれていった。

 「大丈夫、無理に喋ろうとしなくていい。ここに二人でいる以上、君の言いたいことは伝わっているから」

 それを聞いたあたしはなぜだかとても安心して、祈るような姿勢で男の次の言葉を待った。

「種類にもよるが、長生きするものは二百年以上生きるという、人間の倍以上だ。やがて長い眠りについた鯨は海の底へと沈んでいく。底へとたどり着いた鯨の死骸は、数年かけて清掃動物たちの潤沢な餌となり、やがてそこには鯨の死骸に基づいた豊かな生態系が築かれることになる」

 ここに来てから、過去のことばかり思い出している。

些細な記憶がぷつぷつとした気泡になって浮かんできて、ぱちんと次々に弾けてしまう。

 この泡は私のどこから来ているのだろう、もっとだ、もっと深く潜らなくては。私はそれを見つけなくてはいけない。

 女が固く結んだ手に、男がそっと触れる。女の身体からは真白い砂が止めどなく流れ出している。女の手を優しく包んだまま、男は話を続ける。

「骨だけになった鯨の元に小さい生き物たちが集まり、そこにコロニーが形成される。鯨の骨が安堵をもたらす住処になるんだ。そこで新しく産まれた生物たちが、今度はまた鯨の餌になって、そしていつしか鯨はまた海の底で眠りに落ちる」

 人影が見える、後ろ姿だ。あたしが探していたのはこの人だ、そう確信して近寄ろうとするけど、既に両足は崩れて砂に変わっていて歩けない。声も出すことが出来ない。

「鯨も、僕たち人間も車輪のようにゆっくりと回転しているんだ。生と死は互いに離れられないけど、だからこそ、ひとつだからこそ一人ぼっちになることはないんだ」

 手だけが動く。なにか伝えなくては、でもどうしたらいい? 小指から浮かんだ大きい泡が弾けて彼の名前を教えてくれた。けど違う、あたしが今叫びたいのは名前じゃない。

「大丈夫、あなたも鯨の歌を持っているはずです」

 男が振り向いた。静かな優しさを携えたその両目が、彼女のことを見つめている。

  お互いにしばらく見つめ合った後、女がゆっくりとした動作で、右手で作った握りこぶしを左の手のひらで優しく撫でた。それを見た男はにこりと笑ったあと、なにか短い言葉を呟いたが、女の身体は既に砂になり、穴へ吸い込まれてしまっていた。


「起きてください」

男がぱちんと指を鳴らすと、ベッドに横になっていた老婦は目を覚ました。そしてすぐに手元に用意してあった筆談ボードに筆を走らせる。

(先生、もう終わったのですか?)

「ええ無事に終わりましたよ、お疲れさまでした。」

 先生と呼ばれた男が、手のひらサイズの砂時計を女に見せた。

「これをひっくり返せば、三分間という短い時間ですが思い出すことが出来ますから。もう忘れることに怯えなくて大丈夫ですからね」

彼女はしばらくの間、それを胸の前でぎゅっと握っていた。

皺の刻まれた左手の薬指に光る約束が、小さく震える彼女の肩を抱いているように見えた。

 部屋の外で待っていた若者が、彼女を車に乗せたあと、こちらに一礼をして帰っていった。彼女の夢の中で見た男と目元がよく似ていた。

僕は部屋に戻って軽く伸びをしたあと、チョコチップクッキーを一口齧ってから、紅茶を淹れる準備をした。

 椅子に座ってお湯が沸くのを待っていると、むーちゃん(※注・僕が飼っている犬の名前、犬種はチワックス。過去に一世を風靡した犬の名前にあやかって名付けた)が膝の上に飛び乗ってきた。やたら顔を舐めてくるから大変だ、愛情表現のひとつらしいが、鼻の穴を舐められるのには慣れない。

「お前そんなに僕のことが好きかぁ」

むーちゃんのペロリスト行為は止まらない。

「僕もだよ」

 最近どこかで聞いた言葉だった。

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