―3―
もう時計の針は十二時前を指している。今日のバイトは終わりだ。
店を出ると、雪が沢山降っていた。景色は白一色だが、空は暗い。真っ暗だ。
―――することも特にない。さて、帰ろうか。
今年も変わらず一人なのだ。
年齢不相応にもカップルが羨ましい。白馬の王子様とか信じていたあの頃は良かっただろう。恥ずかしい話だが、いない存在が、いつか来てくれるという安心感があったからだ。
あぁ、なんだか少し寒いな。確かに、店内は暖かかったけど、だからって急にこんなに寒くなるものかな・・・。
―――声が聞こえる。
「もう知らない!」
「ちょっと待てよ!―――クソッ!」
叫んだ女性はバッグを片手に足早に去っていく。男は追いかけて声をかけるも、無駄だと悟ったのか、その足を止めた。
どこかで見覚えがある。あの服装、九時頃に来たお客さんな気がする。・・・ということはあちらは彼女さんか。
どうやら喧嘩したようだ。私の私怨で選んだケーキが、私の妬みをのせて、それが届いてしまったのだろうか。或いは、元から仲が悪かったのだろうか。
男のほうは、彼女を大事にしたかったのだろうが、正確に彼女のことを理解していなかったのだろう。その意思がなければ引き止めもしないはずだ。
もっとも、私には関係ない話だ。知ったことではない。
はぁ、と溜息を吐く男。家に戻るのか、その場を去ろうと振り返ると、私と目が合った。
颯爽と駆け寄って、話しかけてきた。
「あ。さっきのケーキ屋の店員さんっスか?」
「いえ、何のことだかさっぱり」
しかし彼は私の手を握り、こう続けた。
「や、多分間違いないっスね。その綺麗な手、ケーキ屋でしか見たことないっスもん」
中々気持ちの悪い男だ。そりゃあの女性からも逃げられるわけだ。
「離してもらっていいですか。急いでいるので」
「まぁまぁ、きっとこれも何かの縁なんスよ!少し話しませんか?」
男の握る力は強かった。引き剥がしたくても、その余地すらない程に強く握られていた。
「いや、離してください!警察呼びますよ!」
「別にいいじゃないっスか。話しましょうよ」
「離して!」
「まぁまぁ」
「嫌!」
「そう嫌がらずに」
「気持ち悪い!」
「まだ何もしてないっスよぉ?」
気持ち悪い。帰りたい。
「放してもらっていいですか?その手」
プツリと糸を斬られたかのように、差し込む優しい言葉。
男の人の声。気持ち悪い男の声ではない、優しい、暖かな声。
「何だお前!放せクソが!」
「放すのは貴方ですよ。口が悪い」
暖かな声の主は、気持ち悪い男の腕を握っていた。その力は強かったのか、気持ち悪い男は私の手を放し、痛そうな顔をして、のけ反っていった。
「痛ぇだろ!何すんだテメェ!」
この時になって初めて、私と気持ち悪い男は、暖かな声の主に目を向ける。
そこには、スーツが似合う、少しイケメンっぽい人がいた。
「長谷川さん・・・」
きっと震えた声だったと思う。
「大丈夫でしたか、井口さん」
私の目を見て、そう声をかけてくれる長谷川さん。
―――まるで夢みたいだ。
「誰だテメェ!痛えじゃねぇか! 」
「それは失礼。女性の扱いがなってないなと思いまして」
んだと!と怒り狂う男。猫背で警戒心むき出しのその男とは対照的に、長谷川さんは凛とした佇まいで対応する。
思考する仕草を見せつつ、長谷川さんは指摘する。
「女性に対して、力強く手を握るというのは良くないと思うのですが」
「テメェには関係ねぇだろ!」
「大アリですよ」
長谷川さんはそう言うと、私の肩を掴んで抱き寄せると、男にこう言い放つ。
「この人、俺の彼女なんで」
私は耳を疑った。
その発言は妄想なのではないかと。
現実とは異なるのではないかと。
「んだよクソ。男いたのかよ」
少しの静寂ののち。気持ち悪い男は、その言葉を聞くと、吐き捨てるようにその場を去っていった。
気持ち悪い男の反応から、どうやら現実だったと確認が取れた。
暫くの時間、私はぼけーっとしていた。何をするでも、考えるでもなく。
「井口さん?」
その一声で目覚める。
私は慌てて返事をした。
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