第2話 1日目 通勤

「イテテテっ」


鈍い痛みが、右足の膝下付近に走った。それも急に。前触れ無く、電気の様な痛みが走った。痛過ぎて、痛覚が頭の天辺まで走り抜けた様だった。

でも俺は大人だ。

痛い位では、喚かない。

喚いても仕方ない。

こんな満員電車の中、誰かのカバンがクリティカルヒットしたんだ。良くある事だ。俺も、サンダルの子どもを革靴で踏んだ経験がある。あれと、一緒だ。人間なんて靴を履いていたら、気付かない。カバンだったら尚更だ。神経が通っている訳ではない。しかも状況は満員電車。運が悪い。サラリーマンが悪い。都心の家賃が高いのが全て悪い。

甘んじて、痛さを抱きしめよう。

痛いのはいつか消える。ここで、怒鳴り合いの喧嘩を始めれば、電車が止まる。それは消えない記憶と記録になる。この世間はSNSが支配している。何を差し引いても、SNSが世界が牛耳っている。

俺が怒鳴れば、スマホが、芸能人を囲むばりに向けられる。その数分後にはネットの海に俺の醜態が晒される。

それは嫌だ。

直子にも、痴漢と揉め事はご法度と強く、言われている。昔はヤンチャだったけど、今はサラリーマンだ。それだけは強く心に留めて、生きないと駄目だ。それが社会。それは世間。それが大人。

と、心を静めながら、俺は足の方を見た。


「え?」


紺色のズボンが赤く滲んている。間違い無いアレは俺の血だ。

血が滲む位だから、もっと痛い筈なのに痛さは、カバンがぶつかった程度の物だった。

変だ?

ペンキとか掛けられた?

JKが変な液体をスカートに掛けられる様に、俺のズボンも赤いペンキを掛けられたのか? いや軽率だ。逆痴漢というヤツかもしれない。女性が生理の血を俺に擦り付けたって事はないだろうか?

その時に爪を立てたとか?

俺は腕組みをして、考えた。満員電車内ではかなりの迷惑行為だけど考え事をする時のスタイルだ。プラスここで、タバコを吸えれば最高なんだけどなぁ。

う〜ん。分からない。

電車を降りてから、確認する他ない。

そうと決まれば、俺は静かに電車を止まるのを待った。

暫くすると、後方で揉めている声がした。

電車を止めるのだけは、勘弁してくれよ。っと思いながら、俺の降りる駅に到着した。後方ではかなりの言い合いや、叫び声も聞こえる。

しかし、野次馬をしている余裕はない。

会社だ。会社に行かないと駄目だ。

俺は関東に来て、学んだ。人助けはすると馬鹿を見る。何度も電車で人に優しくした。席も譲ったし、痴漢も撃退した。

けど、結果は冷たいモノだった。

席を譲ると冷めた目で「そんな年ではない」と言われ。

痴漢から女性を助けると「もっと早く助けなさいよ」と言われた。

理不尽を通り越し、怒りすら覚える。だから決めた。俺はもう何も助けないし、見ない。直子にも禁止されている揉め事は駄目だ。俺の性格上、助けたヤツに文句を言われれば、100倍にして文句を言わないと気が済まない。気付いたら、俺がいつも加害者みたいになっているから、損な性格だ。

俺は若干の後ろ髪を引かれる思いで、改札を出た。


関東の空は遠い。そして何より11月のビル風は容赦が無い。北海道出身の俺だけど、ビル風は寒い。冷徹さを孕んでいるから余計だろうか? どうしてか、説明は出来ないけど、ここに居る人間は下を向いて、必死に歩いている。空が遠いからって、空を見ない理由にはならない。

だからなのか? 人が冷たいからビル風も冷たくなるのか? いや、それは分からない。

単に俺が人の温もりに甘えているだけだ。そうに違いない。

そうだ。そんな冷たさよりも足を見よう。

道の端で、しゃがみズボンを捲ってみた。


「うわぁ」


思わず、声が出た。

噛み跡だった。しかもこれは人間だ。ふくらはぎを噛み切られそうな位、噛まれていた。まだ血が止まっていないので、ドクドクと溢れている。見た目はグロテスクだ。鉄火丼と焼き肉、ローストビーフは当分、遠慮したい。

血が止まらない。

噛まれた場所を縫ったりするんだろうか? この場合、労災?

俺は焦りながらも会社に向かった。

会社に行けば救急箱がある。適当に言って、ガーゼと包帯。あとデカ目の絆創膏でも貼っておこう。

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