第11話 最後の別れ?

 選抜で選ばれたラスカはいそいそと準備をしていた。一般階級に上がる準備だ。このところ毎日、仕事が終わったら少しずつ、こっそり集めていた本や教科書を支給された袋に丁寧に包んでいる。いつのまにかユウキたちの部屋は片付いており、ほぼラスカの本棚と化していた寝床の上の床も、久しぶりに顔を出してきた。ここもまた1人の空間になるのか、そう考えたユウキは、満たされたような、何かが欠けたような心持ちになっていた。


 一般階級への繰り上がりが行われるのは12月、今でも年末は特別に扱われており、毎年ひっそりとラスカと祝っていた。来年はそれが無くなるのか……。そう思うと、物悲しさが表れ、しかしラスカの表情を見ると、嬉しそうな表情に心が満たされる。寂しくもあり、うれしい気持ちだ。今までこんなことあっただろうか。


「あ、そうだユウキ!」


 らしくない感傷に浸っていると、ラスカが不意に振り返ってきた。


「僕、面会希望出すから!最終日!」

「は?」


 思わず声が出る。ラスカは「メンカイキボウ」といった。それはなんだ。突然聞こえてきた知らない言葉に虚を突かれる。


「最終日さ、当選者はユウキたちと何分か話せる時間が与えられるんだよ。それで僕ユウキ指定するから、だから答えてね!」


 耳から聞こえた声がはっきりと輪郭を結ぶと、妙に腑に落ちた。なるほど、メンカイキボウとは面会希望のことか。そして、ラスカは最後に話すチャンスのことを話していたのか。言葉の真意が分かると、今まで可愛げすら感じなかった子生意気な同僚に対して、愛着とも言える温かい感情がユウキの心に火を灯していた。


「ああ、待ってるよ」

「めんどくさいからってサボらないでよ!約束だからね!」

「サボらねぇよ。忘れないように頭に焼き付けてやる」

「本当に?ユウキって忘れっぽいからな」

「その子生意気さ、誰が忘れられるかよ」

「もー!!」


 こんな会話を最後まで続けた。今までのように、いつものように。それはユウキのらしくない優しさか、ラスカの聡い気遣いか、それとも、今考えると、神様がくれた最後の安らぎだったのかもしれない。一週間が過ぎ去るのはとても早かった。


「ユウキ、はいこれ」


 最終日、ラスカが何かを渡してきた。労働者番号と、ラスカの名前が印字されている。側から見たらそれはただのボロ切れのように見える。しかし、ユウキにとっては、ただ唯一、ラスカがここにいたと証明する宝物のように見えた。それは名札だった。


「名札?」

「そう、僕はユウキのこと忘れない。でもね、ユウキは忘れっぽいでしょ? だから、忘れないようにと思って」


 なるほど、名札はラスカの存在証明か。この布切れがラスカのいた証だ。そう思うと、嫌に愛おしく思えてくる。


「じゃあね。ユウキ」


 扉の前に立ったラスカはいつもと変わらない声でこう言った。背中には大荷物、ここには決して帰ることはないと暗に示していた。と言っても、面会があるのだが、面会室は透明なアクリルで仕切られている。直接話すことはこれが最後だ。ユウキはそれに、おうと、いつもと変わらない答えを返す。そして、それじゃ足りないと思い、「またな」の一言を付け足した。軋んだドアが、音を立てて閉まる。後に残ったのは、6年前、この部屋を支配していた静寂だった。


 住み慣れた部屋を離れたラスカは、少しの寂しさと、待っているはずの明るい未来に思いを馳せていた。


 確かにユウキと離れてしまうのは寂しい。しかし何よりも待ち望んでいた家族との暮らしを考えると、心が躍るのを止められなかった。通り慣れたはずの連絡通路すら眩しく見える。もうここを通ることもない。そう考えると、通路の埃っぽさにすら、名残惜しさを感じていた。


 いつも仕事の配分をしていた大広間に出る。そこには貨物用トラックが何十台と、腹の底に響くようなエンジン音を立てて停まっていて、吹き出した排気が砂埃を巻き上げている。周りには、昨日まで使っていたツルハシや機械が、トラックのために端に押し込まれている。これで労働地区ともお別れか。泣き出しそうになる心と、踊り出しそうな心をグッと抑え、ラスカは貨物トラックに乗り込んだ。間も無くして、トラックが轟音を響かせて動きだす。一台、また一台と広場から消えていき、後に残ったのは、トラックの轍と、そこにいたはずの1億5千万の足跡だった。




――それから、一週間が経った―




―3069.12.7―


 ユウキの日常は存外早く戻ってきた。それもそうだ。ユウキの部屋に誰かがいることはユウキにとって珍しく、むしろ18年という長い目で見ると、一人で暮らしていた方が長い。ルームメイトが出来ても、いつの間にか帰って来なくなるからだ。しかしその度に悲しむことは無かった。だから、ユウキの日常は早く戻ってきたものの、心にできた謎の喪失感にだけは、いつまで経っても慣れることがなかった。


「手が止まっている!」


 パシン、と音が鳴り、手に走った痛みと共に我に帰る。また手を止めてしまっていた。最近このように、上の空になることが多くなった。手に当てられる鞭の痕もひどくなる一方だ。


「一般階級に上がれなかったことがそんなに悔しいか」

「いえ……」


 管理官の叱責にも返す言葉が出ない。ラスカがいなくなったという事実は、ユウキが思っていた以上にひどくユウキを蝕んでいた。


▽……▽……▽……▽


「また叱られたか」


 仕事終わりに、シュウゾウに話かけられた。一部始終を見ていたのか、それとも立場上知ってしまったのか。シュウゾウの眉はひそまっている。


「説教かよ……」


 ユウキはボソッというと、シュウゾウが叱ろうとしていないことに気づいた。手には何か握られている。もし缶ジュースが握られていて、それを投げ渡そうとしていたところだったら、今のユウキは、あの時のように、投げられたものを受け取れる気がしなかった。シュウゾウもそれに気づいたようで、途中で渡すのを辞めている。


「どうかしたのか?」


 シュウゾウが優しい口調で訪ねてきた。こんな人を労わるような声が出せたのか。いつもならこう驚いているはずなのに、今日は驚く気力も起きなかった。


「別に。どうもしてねぇよ」

「ラスカが一般階級に上がってから、お前変だぞ」

「変?」

「あぁ。変だ。前のお前は心臓が毛で覆われているようなやつで、叱れば噛み付くようなやつだったのに……」

「人は変わるもんだろ」

「だとしても、今のお前は変だ。子犬になったみたいだ。牙は抜けたか?」

「子犬になっちゃ悪いかよ」


 しばし沈黙が続く。シュウゾウはユウキの孤独に誰よりも機敏に反応した。いくら後悔や反省をしていても、落ち込むようなヤツではない。ここまでしおらしくなるユウキを見たことがない。


「……俺もう分かんねぇや」


 今度はポツリとユウキが言った。


「分かんねぇ。今までこんな気持ちになるなんて思わなかった。同室になる奴らも、そこらのビニールと同じようなもんだと思ってた。いつの間にか俺のそばに舞い込んで、いつの間にかどこかに拭き飛ばされている。そんなもんだったんだよ。でも……」


 ユウキはラスカの名札を眺めながら続ける。一言一言言葉を絞り出すユウキを見て、シュウゾウは悲しくも、成長に喜ぶ、さながら親のような心地がしていた。


「でも、ラスカは違った。ラスカだけは違ったんだ。いつもはあれだけ鬱陶しかったのに、いなくなると、何もかも手につかなくなっちまった。ベネットもだよ。居なくなった途端に、俺の、なんていうのかな。世界?が急にさびだらけになっちまったみたいで。どうしようもないのに、やるせないんだよ。俺、壊れちまったのかな?」


 こんな言葉を漏らす。それは、親しい人と別れたことで湧き上がる、人が持つ悲しみという感情だ。18年間も労働者として働いていたユウキが、いつしか成長して、人並みに別れを惜しんでいる。それだけで、親として育ててきたシュウゾウにはこみ上げる物があった。格好のために涙は流さなかったが、今ここで、祝杯を挙げたくなるような一言だった。シュウゾウは、祝杯の代わりに、今度こそ手元にあるものをユウキに渡した。手元に握られていたそれは封筒だった。中央管理局配達、宛先、宍戸ユウキ、面会希望のお届けと書かれている。


「これは?」

「お前あての面会希望届けだ」

「ラスカか?」


 思わず飛びついた。言葉を交わせなくなってしまった友人の、あの時した約束、面会希望の手紙だった。これを出せば、少しの間話をする事を許される。思わず急いで送り主の名前を確認した。そこには、紛れもなくジェンドール=ラスカと書かれていた。


「噛み付く牙なんてないほうがいいのかもしれんな」

「どういう意味だよ」


 ユウキはいぶかしむ。シュウゾウの言葉が理解できなかったからだ。


「それだけ大事だったって事だろ、それに、今生の別れじゃない。希望、出すだろ?」


そう言われ、頷かないわけにも行かなかった。



―3069.12.21―



 そうやって希望を出したのが1週間前の出来事だ。


 今、ユウキは長方形の、閉鎖的な面会室に座っている。管理官はおらず、その代わり、24時間体制で監視カメラが作動している。部屋は透明な壁で2つに分かれていて、これが労働者と一般階級の境目になっている。ユウキは文字通り、一般階級と労働地区の境目にいた。奥には扉、そこからラスカが出てくるのをひたすらに待っていた。


 思えば今日まで、どれだけ寂しい思いをしただろうか、ラスカはどれだけ豊かな暮らしをしたのだろうか、一般階級の暮らしはどうか、考えれば考えるほど、何を話せばいいのか分からなくなる。ユウキにあった感情はただ1つ、「会いたい」。ただそれだけだった。


「労働者宍戸ユウキ、これより面会を開始します、制限時間は10分」


機械の声がそう響くと、反対側の扉が開いた。


「ラスカ!ひ……」


 久しぶりだな。そう言うはずだった言葉は、ラスカの見た目に阻まれてしまった。服が替わっていない。あの時別れた服だ。一週間前からずっときているような服に、埃で汚れた頬。それに、ラスカは笑っていなかった。むしろ、すべてを投げ打ったような死んだ目をしている。言葉を失ったユウキに、ラスカが口を開く。


「ねえ、ユウキ。これから僕が言うこと、黙って聞いてくれない?」

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