3.ひとつめの言いつけ「今か? 今なのか?」

 ベルテが言い出した泊まり込み作業は結局誰の反対も受けることなく承認され、そのままその夜から実行されることになった。ほとんどの研究員は昼のうちに一度家に帰り、数日間の宿泊の準備を整えて戻ってきている。通いを選択したのは、ほんの数人だけだったし、その数人はそもそも学院の敷地内にある寮に住んでいる者だった。

 学院ではもともと昼夜を問わず実験が行われているので、宿泊施設も完備されている。二十人程度のプロジェクトメンバーが突然泊まり込むことになっても何の問題も生じない。

 夕方には食堂が閉まってしまうため、夕食と朝食は自炊、当番制で、という取り決めになったのだが――。

「ぐぅ」

「あ、マリィくん。早速だね!」

 班分けと当番順のくじ引きを行ったマリィは早々にその日の夕食当番を引き当てた。

「シチュー! 絶対にシチューにしてね!」

 子どものようにはしゃぐ恩師と、無言で期待のまなざしを送ってくるシリウスを横目に、マリィはひそかなため息をこぼした。


 師の細い身体のどこに大量の食物が消えていくのか、マリィにはとんとわからない。「善き教授」は腹の中に契約した魔獣を飼っている、という学生たちのうわさもあながち笑い飛ばせない健啖家ぶりである。

「いつ食べても、マリィくんのシチューは絶品だねぇ」

 ぺろりと五杯目のシチューを平らげ、自らおかわりを注ぐべくいそいそと席を立ったベルテがうれしそうに言う。

 彼のおかわり分を加味して寸胴鍋に三杯分シチューを作ったが、もしかしたら見積もりが甘かったかもしれない。

「確かにこのシチューおいしいわぁ。マリィちゃん、何か隠し味でもあるの?」

 ベルテの隣で食事を進めていたアリシアが訊ねてくる。

「えっと……」

 自分とほぼ同じ年代の学生たちと並んで食事をとっていたマリィは言葉に詰まる。

「あのね、アリシアくん。マリィくんは特に何もしてないの。丁寧に料理はしてるけど、それだけなの。それなのにマリィくんの料理はやたらめったらおいしくなるの。煮込み系はその傾向が顕著でね。だからボクは彼女のシチューを『謎シチュー』って呼んでるんだよ」

 マリィの困惑を察して、皿になみなみとシチューを注いで戻ってきたベルテが助け舟を出す。

「思うに、これは精霊とか妖精の祝福の類なんじゃないかな。ただ、これまで何が起こっているのか観測できたためしがないんだよねぇ」

 そう、マリィは何もしていない。普通に肉と野菜を切って、味見をしつつ調理をするだけだ。それなのに出来上がった料理は手間に不相応なほど、やたらとおいしくなる。

 この現象に気づいたのはゼミに在籍した頃で、親睦パーティーの準備で調理当番に当たったマリィの作った料理にゼミ生全員が「おいしい」と太鼓判を押したことがきっかけだった。

 ベルテ主導のもと、マリィの料理の秘密を暴くべく魔術的科学的アプローチで迫ったが、わかったのは「マリィは特別なことをしていない」「調理時間が長くなる分おいしさは増す」ということぐらいだった。

 そのため、マリィの作る料理はゼミ内で「謎」の冠詞を与えられることとなったのだ。

「え、何それ、科学者として興味ひかれちゃう」

 身を乗り出したアリシアにマリィは苦笑する。

 いちおう下ごしらえは丁寧にするし、もともと料理は得意な方だと思うのだが、精霊や妖精の祝福なんてずるをしているみたいであまり誇る気にはなれない。それでも、食べた人が喜んでくれるのはうれしいのだから、我ながらどうしようもない。

「でも、マリィ先輩のシチュー、またさらにうまくなった気がしますよ!」

 隣に座っていたロム――ベルテのゼミの学生で、マリィの一年後輩――が言い、テーブルを囲んでいたベルテ・ゼミのメンバーのうちマリィの「謎シチュー」を知っている面々がうなずく。

「うーん、ボクも久々に食べたからそう感じるのかと思ったんだけど、やっぱりおいしくなってるよねぇ」

 六杯目をすでに半分食べきったベルテが首をかしげる。

「マリィくん、最近変わったこと、何かあった?」

 そんなことを言われても、とマリィも首をかしげようとして、ベルテの前の席からこちらを見ているシリウスと目が合った。反射的にぱっと目をそらしてしまう。かかかかっ、と顔に血が上った。

 シリウスに恋をした、というのは「最近の変化」に入るのだろうか。入るのだとしても、そんなこと言えるわけがない。

「……何も、ないです」

 目を泳がせながら何とか返事をして、自分の食事に集中するふりをしてベルテたちの好奇心に満ちた視線をやり過ごす。

「まあ、魔法の領域は魔術や科学じゃ立証できないことが多すぎるんだけどねぇ」

 ベルテは残念そうにため息をこぼすと、七杯目のおかわりのために立ち上がった。


 後片付けは食事当番と手が空いている者で、という取り決めになっていたので、流しに積み上がっているだろう皿を洗うべくマリィは厨房に向かおうとした。

「あ、マリィ先輩。食器洗いは俺たちがやりますよ!」

 いっしょの食事当番班に振り分けられたロムが腕まくりをしながら笑う。

「食事の準備はほとんど先輩にやらせちゃいましたから」

「そう? じゃあ、私、外の洗い場で鍋洗ってくる」

 寸胴鍋三杯分のシチューは主にベルテと男子学生の腹に収まり、きれいになくなった。ベルテはすこし物足りなさそうにしていたが、それはいつものことだ。

 分担した方が早く終わるし、大型の鍋は厨房の流しでは洗いにくい。そう思って言ったのに、ロムは顔をしかめた。

「ええ、外の洗い場って遠いじゃないですか。鍋だって重いし。先輩ひとりじゃ一度で運べないし」

 それも俺たちでやりますから、と彼ともうふたりの班員――どちらもゼミ生――にうなずかれ、マリィは眉をひそめる。

 彼らの気持ちはとてもうれしい。だけれど、先輩として後輩に何もかも任せてしまっていいものだろうか。

 このあとは全員早めに就寝して、明け方に月光利用術式による人工精霊合成の実験をする予定になっている。まだ学生である彼らだが、ベルテから細々とした準備を先ほど言い付かっていた。鍋まで洗ってからその仕事に取りかかれば、睡眠不足、というほどではないが寝付くのはだいぶ遅くなってしまう。

 彼らは全員魔術師の卵だ。

 一流の魔術師であるベルテの実験に立ち会う経験はこれから魔術師として独り立ちする者にとって大きな財産になるはずで、できればなるべく良い状態で早朝を迎えられるようにしてあげたい。

「でも、私が行けば、洗うのは学院付きの精霊か妖精が手伝ってくれるから」

 古い建物には精霊や妖精が宿ることが多い。その例にもれず学院にも精霊や妖精がある程度住み着いているのだが、彼らは一般家庭に住み着いて家事を手伝ってくれるタイプとは違うので人間の手伝いをすることは極めてまれだ。それでも、魔女であるマリィが困っていれば話は別で、喜々として近寄ってきて助力してくれる。

「鍋洗いはやっぱり私が行くから、君たちは皿を洗って、明日使う予定の術式の予習でもしてからさっさと寝なよ」

 先輩風を吹かせて言えば、ロムたちは目を瞬かせてから「…うっす」と返事をした。素直ないい後輩である。

 流しに移動して皿を洗い始めた彼らを横目に、マリィは「よし」と気合を入れる。寸胴鍋は重ねられないので一度に運べるのは片手に一個ずつで二個までだ。

「手伝います」

 鍋の取っ手をつかもうとしたところで、脇から伸びてきた手に先を越された。視線を上げれば、穏やかな笑みを浮かべた藍色の目にぶつかる。

「外の洗い場に持っていくんですよね?」

 問いかけられ、ついうなずきそうになったが、ぶるぶると頭を振る。

「え、違うんですか?」

 違わなくはないが、違う。

「し、シリウスさんは、当番じゃ、ないじゃないですか……」

 あなたに手伝ってもらうのは違う。そういう意味だったのだ、と伝えようとしたのだが、彼は「ああ」と笑みを深めた。

「僕、今手が空いていますから」

 後片付けは、食事当番と手が空いている者で。確かにそういう取り決めだった。

「だから、お手伝いします」

 重ねて言われ、反射的に「大丈夫ですから」と断りそうになったマリィの脳裏に昨晩もらった助言がひらめく。

『ひとつ。彼に「僕も手伝うよ」と言われたら、遠慮せずに「ありがとう」って答えて手伝ってもらうこと』

 今か。今なのか。

 ごくり、と唾を飲み込んで、いつの間にかカラカラに乾いた喉を潤す。

「あの……」

 伏せてしまっていた目を上げてちらりと見れば、シリウスはやさしく笑んでマリィの言葉を待っていた。

「あ、りがとう、ございます」

「どういたしまして」

 じゃあ行きましょう、と寸胴鍋を両手でそれぞれひとつずつ持つと、彼は先に立って歩き出してしまう。残ったひとつを抱えて、マリィもあわてて後を追った。

「シチュー、とてもおいしかったです」

 並んで歩きながら、シリウスが話しかけてくる。

「よ、よかったです」

 対するマリィは手に持った鍋しか見れない。人気のない暗い廊下を彼とふたりきりで歩くとか、何がどうしてこうなったのだ。

 ねえ言うとおりにしたけど、この後どうすればいいの? どうすればいいの! と心の中で占い師相手に念を送る。もちろん返答はない。

 アフターフォローを要求する!

 内心冷や汗だらだらのマリィは、隣のシリウスがどこか上機嫌なことに気づけずにいる。

「精霊や妖精の祝福、と先生は言ってましたけど、魔女の方はみんなお料理上手なんですか?」

「そう、ですね」

 どうせ気のきいた話題提供もできないのだから、せめて受け答えはちゃんとしたい。自分の周囲にいた魔女たちの顔を思い浮かべ、考え考え言葉を紡ぐ。

「魔女の薬には香草やスパイスを使うものが多いので、そういうものの扱いにも長けていますし、お料理上手は多いです」

 だけれど、彼女たちは自分とは違う。

「けどそれは彼女たち自身の実力です」

 祝福なんかに頼らなくても、彼女たちの作る料理はじゅうぶんおいしい。

「精霊や妖精の祝福は、私みたいに料理限定で起こるわけではないので」

「そうなんですか?」

 魔女の事情を知らないシリウスは目を瞬かせる。

「ええ。作った薬の効果が高まる魔女もいれば、自分の使い魔以外の動物の言葉がわかる魔女もいますし」

 他にも、森に入ればどんなに希少な薬種でもたちどころに発見する魔女や、歌えばどんな人間でもすぐさま眠らせる魔女、なんていうのもいる。

 もちろん、これといった祝福を受けていない魔女だってたくさんいる。祝福がなくたって魔女として立派に働いている人がほとんどだ。

「祝福がなくてもおいしい料理をつくれればいいんですけど」

 努力はしているのだが、何をしなくても勝手に料理はおいしくなるので、いまいち成果が見えにくい。

「もしかして、マリィさんは自分の料理が祝福を受けていることに、負い目を感じているんですか?」

 図星を指され、ついびくりと肩を揺らす。

「あの、それは、その……」

「他の魔女が祝福を受けて出している成果も、本来の彼女たちの実力ではないのだから、良いものではないと思っていますか?」

 重ねて訊ねられ、マリィは大きく首を横に振った。

「い、いいえっ」

 魔女が精霊や妖精に溺愛されるのはどうしようもないくらいに当たり前で、その結果与えられる祝福は魔女の能力の一部だ。

 他の人のことは、そう思える。

「じゃあ、どうして自分の祝福には負い目を感じてしまうんでしょう」

 窺い見たシリウスは心底不思議そうにこちらを見下ろしていた。

「それは、たぶん――」

 能力に満ちた彼の前で認めるのは心が痛んだが、見ないふりをして彼に嘘をつくのも心苦しい。

 囁くような声で、苦々しい事実を口にした。

「私には、ほかに誇れるところがないから、だと、思います」

 堂々と「これが得意です」と言えることが料理以外にない。でも、その料理は自分の実力ではなく精霊や妖精の祝福によってみんなから「おいしい」と言ってもらえているだけで。

 本当のマリィには特別なところなんてひとつもない、と自分自身がいちばんよく知っている。

 シリウスは、少し困惑するように首をかしげた。

「先生はマリィさんのことを優秀な魔女だと言っていましたよ」

 人づてに聞く恩師の評価に胸が熱くなる。それでも、マリィはまたぶるぶると首を横に振った。

「理論を考えるのは好きです。勉強は、できないほうじゃなかったと思います」

 きっとベルテもそういうところを「優秀」と評価してくれたのだろうけれど。

「でも、実践は……」

 マリィの魔女としての評価は、コミュニティの中で幼い頃から浴びてきた視線が示している。

「私、魔力の量はあるはずなのに使いこなせなくて暴発させることもあるし、魔力の質もいまいちらしくて妖精王や大精霊から加護を受けられるほどでもないし。だから魔女なのに魔法はあまり得意じゃなくて。他にも、特別なところは全然なくて」

 魔女なのに、莫大な魔力はあるはずなのに、魔術師と同じかそれ以下のことしかできない。祖母の逸話のような「奇跡」なんて起こせるはずもない。

 だったら薬の調合や占いの才があるかといえば、そんなこともない。

「今も失敗ばっかりですし」

 他の魔女だったら、と実験を失敗するたびに思わずにはいられなかった。

 視線と肩を落とし、黙って暗い廊下を進む。

「マリィさん」

 しばらくそのままふたり無言で歩いていたのだが、隣からやわらかな声で語りかけられ、マリィは顔を上げた。

「マリィさんは自分に自信がないみたいですけど、僕は今回のプロジェクトでいっしょに仕事をする魔女がマリィさんで本当によかったと思っています」

 藍色の目はまっすぐにこちらを見下ろしてきていて、そこに嘘の色は見当たらない。

「僕は錬金術師ですから少し理屈っぽいところがありますし、そのせいで魔法使いや魔女の方と仕事をするとぶつかってしまうことがままあるんですけど――」

 こんなに穏やかでやさしく、かつ紳士的なシリウスが誰かとぶつかるところなど想像できないが、たぶん原因は魔法使い・魔女の側にあるのだろう、と容易に想像がついてしまう。

 魔法というものはきわめて感覚的なものなので、それを扱う魔法使い・魔女にも感覚的な考えをする人がとても多い。それだけならまだしも、「自分たちに必要のない知識はないものとして扱う」風潮もあり、かつ理論的な考え方に拒否反応を示す者も多く、魔術師・科学者・錬金術師といった理論で現象を起こす人々との相性はよろしくない。

 どうせ「説明されてもわからないものはわからない!」「なんでこんなことすら感覚でとらえられないの?」とでも言ってシリウスのことを困らせたのだろう。

「マリィさんは僕の説明をきちんと聞いた上で自分の感覚でわからない部分を質問してくれるし、僕の質問には自分の感覚をわかりやすいように考えながら説明してくれるので、とても助かっています」

 いつもいっぱいいっぱいでしどろもどろになってしまっている身としては、そんなことを言ってもらえるだなんて思ってもみなかった。

「今まで僕にとっての魔法は理解不能な神秘のヴェールの向こうにあるものでした。でも、マリィさんにお会いして、マリィさんの話から垣間見える魔法の世界は極彩色で楽しげで、自分には手の届かないものだとわかっていてもすごくきらめいて見えて……そういう風にマリィさんが魔法を説明できるのは、マリィさんが魔法を愛して、深く理解しているからだと思うんです」

 じん、と胸が熱くなる。

 マリィは落ちこぼれの魔女だったけれど、確かに魔法が好きだった。だから内輪の知識だけではなく、外から見た魔法のことが知りたくて学院の門を叩いた。父母は「好きにしなさい」と送り出してくれたけれど、コミュニティの魔女たちが「なんでそんな無駄なことをするのかしら」と首をかしげていたことも知っている。彼女たちにとって、マリィのしていることは魔法にとって無意味なことに他ならなかった。

 それでも、今、シリウスはマリィがしてきたことを、深めてきた知識を認めてくれた。

「マリィさんにはマリィさんの価値観があるのだと思いますけど、先生の言っていた通り、マリィさんは優秀な魔女だと僕も思いますよ」

 にっこりと満面の笑みを浮かべているシリウスに何か言葉を返したいのに、今口を開いたら言葉ではなくて何か別のものが瞳からこぼれてしまいそうで、マリィは唇を引き結んだ。

 そんな彼女をやさしく見つめながら、シリウスは少しいたずらっぽい口調で付け加える。

「希望を言えば、もう少し打ち解けてもらえるとうれしいです」

「うえっ、あああの、すみません」

 出そうになっていた涙がすっこんだ。

 やっぱりシリウスにもマリィの態度がぎこちないと気づかれていたらしい。

 真っ赤な顔でわたわたとしていると、彼は声を上げて笑った。

「いえ、すみません。これは僕のわがままですし、努力するべきは僕でしょうから、マリィさんはお気になさらず」

 そう言ってあっさり身を引くところをみるに、マリィを責めての発言ではなく、少し湿っぽくなった空気を変えるための気づかいだったようだ。

「……シリウスさんとお話していると、なんだか私もダメなところばっかりじゃないような気がしてきます」

 こんなに誠意を感じる言葉を重ねられたら、平凡にすら足らない自分でも、少し自信を持ってもいいような気がしてくる。

「実際、マリィさんはダメな人なんかじゃありませんよ」

 シリウスはマリィに向かって力強くうなずいてくれる。

「魔女として、という以前に、とっても素敵な方ですから」

 過剰なほめ言葉が飛んできて、マリィの心臓は変な風に跳ねた。

「………あ、ありがとうございます」

 シリウスは自分を励まそうとしているだけで他意なんてないはずだけれど、恥ずかしくて彼の方を向くことすらできない。

 きっとシリウスは落ち込んだ人を見かけたら、誰であってもやさしい言葉をかけてまわっているのだろう。でも、弱っているときにこんなにやさしくされたら、もともと彼のことが好きな自分のような人間じゃなくても簡単に彼に堕ちてしまう。

 なんて罪な人だろう。むしろこれまでそれでトラブルになったりしてないのだろうか。

「お、お世辞でもうれしいです」

 せめて勘違いなんてしていない、と伝えようとそう答えたのだが――。

「いえ、お世辞のつもりは――」

『マリィだぁ。ひさしぶりー』

『どうしたの、こんなところで』

 あわてたような彼の声は、元気いっぱいの高い声にさえぎられた。

 見れば、しゃべりながらも歩き続けていた自分たちは、いつの間にか目的地の洗い場に到着していた。子どものような高い声の主は、洗い場に陣取っている水の精霊たちだ。

 向こう側がうっすら透ける薄青色の肌。しぶきのようなレースのような複雑な模様と波打ち方をしているドレス。肌よりも緑みを帯びている長い青髪。髪にちりばめられたダイヤモンドのようにきらめく結晶。身体は十前後の子どもの、ほっそりとしたもの。無邪気な声と生気に満ちた表情に反して、繊細さが際立つ美貌。そんな精霊が四人。

 彼らの姿は、彼らが姿を見せようと意識しないかぎり、魔法使いや魔女にしか見えないし、声も小鳥のさえずりのような、人間には意味のない音の連なりにしか聞こえないらしい。魔女であるマリィにはこんなにもはっきり姿が見え、くっきり言葉も聞こえているのに。

 唐突に響いた精霊の声に首をかしげていたシリウスが、唇の動きだけで「妖精か精霊ですか?」と訊いてくる。それにうなずくことで答えてから、マリィは目の前にぷかぷか浮いている水の精霊たちに自分の持っていた寸胴鍋を掲げて見せた。

「お鍋を洗いに来たんだよ」

 この精霊たちとは在学時からの顔見知りだ。気まぐれなところもあるが、基本的に面倒見がいい。

『こんなの、後輩にやらせとけばいいのに』

『マリィったらやっさしーんだ』

 貸してっ、と言うと同時にマリィとシリウスの手の中にあった三つの寸胴鍋が宙を舞って洗い場の中に落ちる。

『私たちがちゃちゃっと洗ってあげる!』

 そう言うが早く、三つの鍋は水の渦に包まれる。シリウスには見えていないだろうが、渦を囲んで四人の精霊たちが手をつないで輪になり、踊りながら歌っている。

 あとは待っているだけで鍋洗いは終わるだろう。

「何度聞いても彼らの声は耳慣れません」

「私は逆に、彼らの声がシリウスさんたちの耳にどう聞こえているのかがわかりません」

 苦笑しているシリウスに、マリィもほほえみ返す。

 さきほどあれだけ励ましてもらったおかげか、少し離れたところに幼い頃から親しんできた精霊がいるおかげか、シリウスとふたりきりだというのに、いつになく肩の力が抜けて自然体でいられた。

 藍色の目を見上げて、やっぱりこの人のことが好きだなぁ、と素直に思う。いっしょにいると緊張してしまうけれど、いっしょにいる空気は嫌いじゃない。何より、このままずっと見つめていたいと思う。

 藍色の目に、ふ、と甘い色が射し込んだ気がして、目を瞬かせる。

「マリィさん――」

 いつもやわらかな声が、いつも以上にふんわりと、一音一音を大切にするようにマリィの名前を呼んだ。

 どうしたのだろう、と首をかしげつつも呼びかけに答えようとしたところで、ポケットに入れてあった携帯端末が着信を告げた。

「あ、すみません」

「……どうそ」

 一言断って画面を見れば、そこには母――シンシアの名前が表示されている。この間の大型休暇には実家に帰ったし、特に急ぎで連絡が来るようなことも思い当たらない。何ごとだろう、と首をひねりつつ通信をつないで端末に耳を押し付ける。

「はい。どうしたの?」

「マリィ?」

 ふんわりした雰囲気を常にまとっていた祖母とは違い、母はさばさば系だ。ただし、ふたりともやたら思い切りがいいところはよく似ていた。

「あのね、ちょっと確認したいのだけれど……」

 そんな母にしては、妙に歯切れが悪い。

「確認? 何を?」

 首をかしげ、マリィはシンシアの言葉を待つ。

「あなた、今、お付き合いしているかたっているのかしら」

「はい?」

 ちょっと何を言われたのかよくわからなかった。

「だから、お付き合いしている方よ。あなたももう二十二なんだし、どうなのかしら、と思って」

 二十二の、成人した娘の恋愛関係に口を挟んでくるほうがどうなのかと思う。反射的にそう返そうとして、とっさにぐっと飲みこむ。

 正直な感想なのだが、そのまま口にすると、どうにも棘のある言い方にしかならない気がする。そもそも母はこんな干渉をしてくるタイプではなかったのだが。

「それとも、どなたか心に決めた方でもいるの?」

 どう答えるべきなのか、とマリィが黙り込んで考えているうちに、シンシアはさらに踏み込んできた。

 ちらり、とこちらを見守っているシリウスを見て頬を赤らめ、マリィはぶんぶんと首を横に振った。シリウスのことは好きだけれど、自分たちはそんな関係ではない。

「どうなの、マリィ」

「……なんで、そんなこと聞くの?」

 うながす声に、思わず声音が低くなる。我ながら不機嫌そうな声だと思ったが、止められなかった。

「それは……」

 シンシアは言いよどんだが、すぐにいつものきっぱりとした口調に戻った。

「マリィ、あなたは魔女なの。もうそろそろお相手を決めて、結婚の準備をしてもいい頃合なのよ」

 ああ、とマリィはため息をついた。

 魔女として大したこともできない自分なのに、こんなところでしがらみに絡めとられるのか。

「特に決まった方がいないのなら、こっちに戻ってきてちょうだい。あなたに、って縁談も何件かもらっているし」

 魔女の結婚は早い。慣例のように二十を前にしたあたりで結婚の準備を始め、二十前後で結婚する。その理由はいろいろだが、大きなもののひとつに、二十をいくつか超えても独身でいる魔女は(魔法使いも)精霊や妖精にさらわれやすくなる、という事実がある。

「そちらには、あなたの力になれる魔女はほとんどいないし――」

「お母さん」

 しゃべり続ける母をたまらずさえぎった。

「私は別に今のままでかまわないし、私のことを欲しがる精霊や妖精なんて今までいなかったじゃない」

 これまで平穏に過ごしてきたのだ。いつだって精霊や妖精はマリィに好意的だったけれど、そういう意味で誘われたことは一度もない。

 大きな能力も、責任も持たない自分なのだ。魔女としての生き方になんてとらわれず、好きなようにふるまってもいいじゃないか。

「違うわ、マリィ。そうじゃないの。あなたは――」

「そんなこと言うなら次の休みは、ううん、しばらく帰らない!」

「マリィ!」

 あわてた口調のシンシアに言葉を叩きつけて、叫ぶような呼びかけを無視してそのまま通信を切る。

 はーっ、と深いため息をこぼしていると、シリウスが首をかしげつつ声をかけてきた。

「大丈夫ですか?」

 彼に心配されるほど、自分は声を荒らげていたらしい。恥ずかしくなってうつむく。

「はい。ちょっと、母と言い争いになっただけなので」

 少し冷静になって、気分が落ち込んでくる。あんな言い方をしなくてもよかったかもしれない。それでも、間違ったことを言ったとは思っていない。

 魔女としてはそろそろ嫁き遅れの気配が漂い始めたマリィだが、ナッジでは三十を過ぎてもバリバリ働く女性なんていくらでもいる。

 結婚、なんてまだ早い。

「マリィさん?」

 うかがうように声をかけられて、顔を上げる。こちらを案じるように顔を曇らせたシリウスに、少しだけ弱音を吐き出したくなる。

 彼なら、きっと笑ったりしない。

 でも、ただの同僚にこんな話をされても、困ってしまうだろう。

 やっぱり話せない、と開きかけた口をつぐもうとしたマリィの内心を読んだように、シリウスはほほえみかけた。

「僕でいいなら、話してください」

 だから、弱っているときにやさしくするのは反則だ。すがってしまいたくなるから。

「あの」

「はい」

 両手を組み合わせてにぎりしめ、こちらをまっすぐ見下ろす視線を意識する。彼が、自分の言葉を待っている。そう思えば、のどがからからに渇いていく。

「母が」

 思い切って放った言葉は思いのほか大きく響いて、自分でもぎょっとした。咳払いをして、なるべくいつも通りの口調で続きを話す。

「帰ってきてお見合いをしたらどうだって言ったんです」

 お見合い結婚だった父と母の仲がいいことは知っているので、お見合い自体を否定するわけではないが、まだ具体的に結婚なんて考えられない現状でお見合いをしてみようとも思えない。

「え」

 マリィの言葉が予想外だったらしく、シリウスは目を見開いて固まった。

 ああ、やっぱり困らせてしまった。そう思ったけれど、回り始めた口は止まらない。

「魔女の結婚って、慣例的に早いんです。魔女的に私は適齢期、というかそろそろ遅いくらいなので、母は結婚させたがってるんですけど、でも、私はまだ結婚とか考えられなくて――」

 そこまで語って、自分は好きな相手を前に何を話しているのかと我に返る。

「あのっ、あの、だから断ったんですけど、うまく断れなくって、それで、ちょっと落ち込んだといいますか!」

 ああもう自分、落ち着け。そう、これ以上の失態を犯さないために、落ち着くのだ。

 ほら深呼吸して、と己に言い聞かせていたマリィだったが、伸びてきたシリウスの右手に頬を包まれ、「ひょえ」と奇声を発してしまった。

「し、シリウスさん?」

「マリィさんは――」

 細められた藍色の目に、情けなく眉を下げた自分が映っている。

「結婚、したくないんですか?」

 いつも穏やかで、やわらかな彼の表情が少し強ばっている。真剣なまなざしに射抜かれて、マリィの混乱はますます深まった。

「し、したくない、と言いますか、まだ早い、と言いますか」

 組み合わせた手にぎゅうっと力を込めて、もしょもしょと言い訳じみた口調で訴える。

「お、お付き合いもしたことのない身の上で、結婚は、早すぎる、と言いますか」

 シリウスの藍色の目が大きく見開かれて、すぐに笑みにとろけた。たった今までの硬質な雰囲気は消えうせ、いつも通りの、否、いつも以上にやわらかく、甘く、包み込むような空気が彼から放たれる。

 な、なんだろう。すごくうれしそうに見える……。

 マリィの頬に触れていた手が、そっと動いてなでるような動きをした。

「っ!」

 なんだか頬がびりびりして、腰が抜けそうになった。息と心臓が一瞬止まった。恥ずかしくて泣き出したいような、頬が緩んでしまいそうになるような、変な気分だ。

『彼に触られたらドキドキする?』

 占い師に問われたときのことを思い出す。あの時は「死ぬ」と答えたが、破裂しそうな勢いで脈打っていることはわかるけれど、自分の心臓はそんなにやわではなかったらしい。

 ああ、でも、ちょっと意識が遠ざかりそう。頭がふわふわして、ぼーっと彼の顔を見つめることしかできない。

「結婚前に交際を、ということでしたら――」

 彼の薄くて形のいい唇が、耳に心地いい声で何かを伝えようとする。

『マリィ、終わったよー』

 妖精たちに呼ばれ、マリィの意識にかかっていたやわらかな靄が瞬時に晴れた。反射的に一歩、シリウスから退いてしまう。

 触れていただけの大きな手は、簡単に頬から離れる。熱を帯びていたのはマリィの頬だったのか、シリウスの手だったのか、触れられていた場所がやけにすうすうした。

 藍色の目が、切なそうにこちらを見つめている。彼の唇がちいさくため息をこぼしたように見えた。

『マリィー?』

 催促するように精霊たちに呼ばれ、まだこちらに伸ばされたままの腕から離れるようにマリィは身を翻す。

「あ、ありがとう」

 磨き上げられた鍋のお礼を彼らに言いながら、背後からはっきりと感じる視線に居心地の悪さを覚える。

 な、ななななんだったんだ、今の空気。思わず逃げるような態度とっちゃったけど、感じ悪くなかっただろうか。

「マリィさん」

「ひゃいっ」

 背後からかけられた呼びかけに、またしてもすっとんきょうな声が出る。

「お鍋、きれいになってましたか?」

 脇から覗き込んできたシリウスが「ぴかぴかですね」と目を丸くしてから笑う。

「じゃあ、もどりましょうか」

 その笑顔はまったくいつも通りだった。マリィの強ばっていた肩から力が抜ける。

 なんだろう。さっき、シリウスの雰囲気がいつもと違うように感じたのは気のせいだったのかな。

 なんだか拍子抜けして、それ以上に安堵した。

「はいっ」

 うなずくと、来たときと同じように鍋を抱え上げる。

『マリィ、まったねー』

『また遊びに来てねー』

 手をぶんぶん振っている精霊たちに手を振り返しながら、あー心臓が変になるかと思った、と内心つぶやいていたマリィは、隣のシリウスがどこか落胆した様子であることにやはり気づけなかった。

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